ハートで遊ぼう

あのとき

脳梗塞発病から十ヶ月近くを無事過ごせた

このごろ精神的にも安定していて嬉しい。だから落ち着いて、平成十四年六月二十三日へ思いを馳せてみた。
・・・あのとき

・・・あのとき、私はどうしてもお医者さんに診てもらいたくなった。日曜日の夜九時過ぎだから病院なら当直の先生がいる。「三井病院! 三井病院! うわっ診てくれるって・・? うれしい! お父さん今日だけタクシー頼んで、お願い」

その日の昼過ぎ、さあこれから明日の旅支度でもしようかと思った矢先、身体のどこかでかすかにスイッチが入ったような感覚がした。(脳の中の細い血管が詰まった瞬間をはっきり体感したことが神秘で不思議)

なんとなく横になって出産間近のトドよろしく時々中途半端な寝返りをうちながら四時ごろまで過ごす。

「晩ご飯かぁ、お父さん、昨日の披露宴の折詰を食べといてな」起き上がろうともせずそう言って、またトドはゴロリ。 とはいえそれから五時間程してお腹が空いてきた。とりあえず起きて何か口に入れて、と思っても、すぐ気だる感が否定する。時計を見れば九時過ぎ、いくら横着が売り物の私でも、好物の折詰を目の前に手が出んのは、これって絶対に変だよ。かすかな気だる感をひっさげて冒頭の願望を訴えたのです。

お医者さんと聞いたら、なぜか背筋が伸びる私は、見た目普通の体調で三井病院へ行った。
「どうしましたか?」内科の女の先生だ才色兼備だ。
「せんせい、わたしなにかわからないくらい、ほんのすこしなんですが、とにかくおかしんです」(私の言っていること、ほんとうにおかしいよ)

「じゃぁ、血圧計ってみようね」二百二十と聞かされ、普段はどうなのかと問われる。「高めですがついこないだも献血しました。高ければ献血出来ませんよね」
「急に上がるとこういう症状を感じるのよ」何となく高血圧症と診察され、薬を手放せない生活をこれから送るわけ・・?
普通に何となくなら、こんな時間にタクシーまで使って来やしない。
重大な何かが隠れているはずだと、自分の直感を信じ先生に繰り返し繰り返し訴えた。

この患者ったら、「高血圧って全身症状でしょ、わたし頭がボーとするわけでもなく、じゃぁどこかといえば、右手足がかすかに変です。でもそれも胸を張ってこういう風に変といえるほどではないし。自分でなんでこれぐらいのことでここへ来たのか、大変な予感が非常に不安」などと正と異が混ざった言葉を苦もなく出しまくる。(当直ってタマにこういう亜急患者が静かな夜を奪い去るのよヤレヤレ)といったところでしょうか。

「脳梗塞かもしれないね」
病気に通じた方なら、えらいことじゃぁ、先生思い出した、こんなことががあった、そういえばあんなこともと、そこから立派な患者に大化けするのでしょうが、私は脳梗塞を山ほどある病名のひとつくらいにしか思っていない。
だからしがみつかない。手を握り締めて放さず「どうにかして、助けて!」 と興奮もしない。

「じゃぁせんせいどうすればいいんでしょうか?」と本人はノンビリたずね、傍らの夫は落ち着いているのか事の次第がよく分からないのか。いまいち反応が鈍い。

脳梗塞の点滴をしましょう。断定できたら今はいい薬があるんだけど、それまでやっていた治療薬をしときましょう」
約三十分の点滴を終えて、来た時との比較を聞かれ。
「変わらない」と答えた。
本当は気だる感が少し増してはいたが、私には、許容範囲内だ。翌日の再来院の説明を受け帰途に着いた。

こともあろうに夫と手をつないでだ。感じる重みが秒速で増していたからなのに、夫婦が手に手を取るって重大なことなのに、とりあえずライン設定が出来た安心が病気を圧した。
タクシーからやっと降りフラつきながらも家に入り着替えもせずに布団にもぐった。
明日の事を思いながらいつの間にか寝ていた。

たまたま帰省中の長女と夫の会話で目が覚まし、点滴液も身体を巡ったようでトイレに行きたく、何気なく起き上がり、次、立とうとしてかなわぬ。が異変にまだ気づいていない。なんかへんだがトイレが先だ。にじって行ったが中には入れず、手を借りて腰掛けられてどうにか用を足せた。いま思うに夫に衣服の上げ下げをしてもらったのだらうか。

「おとうさん病院に電話して!右手足が動きませんと言って!救急車で行きますからと言って!」

こうして真夜中一時過ぎ脳梗塞確定を持って再びの三井病院行きです。
この日から四ヶ月近くの入院と、その後の通院リハビリを今も励んで日に日に回復を実感している。

入院中は他の極軽の脳梗塞の見るにつけ、最初の病院行きが早すぎるのか、少々演技してでもアピールした方がよかったのか、帰り際に廊下ででも目眩や大きくフラついていたとしたら、その後の展開が全く違っていたのかも。
うんと軽く済んだのではなかったかとの思いをずっと引きずった。

退院して、多少の不自由にも慣れた今思うに、あれは値千金のフライングでした。
救急治療の予約を取りに行ったのです。
チェックインした時には準備整い、直ちに治療開始。
その後もずーっといささかの無駄なく事が運んで、この結果を獲得出来たのです。

先生方、看護婦さんたち、励まし力づけてくださった皆さん、そして家族に感謝がつきません。

リラックスして身体を休めているとき、神様の絶妙のさじ加減を感じます。もう少し重ければ、家庭生活さえままならぬ状態を受け入れねばならぬきびしさと痛感の日々ではないか。
もう少し軽かったなら、生活習慣病の恐ろしさを認識すること無しに元の不摂生を繰り返し、いつか確実におとずれるそのときを思いもせず、見せかけの健康に浸っているだろう。

あのとき、あの、スタートから始まって、回復のコースをまっすぐゴールへ向かっている
ほんとに一度も立ち止まること無く。  あの日、あのときわたしは生まれ変われた。 
 

                                        
                           
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