『カラフルメリィが降った町』 安田献辞
ここ最近、実に目目覚めがよろしくない。部活を辞めてから、もう一週間は経つのに、身体があの頃のリズムを覚えているもんで、知らず知らず早起きをしてしまう。もう、そんな必要はこれっぽっちもないのに。
行き場を無くした身体の勢いと熱気は、そのままオレの身体の中に戻り、実に頭を悩ませてくれる。六月のジメジメした暑さは、以前はオレの『走り』にとって気持ちのいいものでもあった。
風を切るような感覚と、どこまでも続く青空――。
夏は、決して嫌いではないはずだったのに、今じゃ憂鬱な気分ばかりが浮かんではまた浮かんでくる。やり切れないとは、こんな気分を言うのだろうかと考えてもみたが、すぐさま馬鹿らしくなってきた。
早起きする必要が無くなったなら、その分眠ればいい。哲学に頭を使うほど、学校の成績は高くは無かった。早めに学校に行って、誰もいない教室の開放感を楽しむ、なんて趣味も、オレにはない。後一時間後に鳴り出す予定の目覚ましを切ってしまうと、オレはタオルを頭までにかけて惰眠をむさぼる作業に没頭した。
作業は結局失敗し、オレは親に起こされるまで布団の中で寝返りを打っていただけだった。全くもって、目覚めが悪い。
「兄ちゃん、何立ち止まってんだ?」
「あん?」
弟の拓也に言われるまで、自分が道のど真ん中でつっ立ってるなんて、ちっとも気付かなかった。普通に住宅ばかりが並んでいる住宅街。早起きする必要も無くなったオレは、こうして弟と一緒の時間に学校に通うことになっていた。拓也は小学五年。オレより六つも下だから、あんまり兄弟で一緒に遊んでいたような記憶は無い。
「なあ、早くしないと学校に遅刻しちゃうよ」
「あ、ああ、ゴメンゴメン」
卓也に急かされて、慌てて距離を詰める。いきなり、こんな朝の風景に放り込まれたもんだから、さっきまで一体何の考え事をしていたのか、スッパリ忘れてしまったじゃないか。と言うより、オレってこんなに思慮深い性質だったかしら?
空はどこまでも青いのに、吹く風が生温いばかりなので、どこか不快感の方が先行してしまう。周りには、オレたち同様に学校に向かう人の群れが数多い。卓也と同じ小学生(今じゃランドセルすら背負わなくなったのかね)、それ以外は……まあ、高校生も中学生も似たようなもんだ、体つきなんて。
それにしても、こんな風景はあんまり見たことが無かったな、と思う。部活をやってた頃は、誰よりも早くに練習がしたくて、朝イチどころじゃない時間に通学路を走っていた。勿論、同級生はおろか、会社員程度か、新聞配達員ぐらいしか姿を見かけなかったもんで、オレが覚えている学校までの道程には、常に人のいない印象しかなかった。
まあ、ちょっと時間をずらせばご覧の通りなんて、世の中にはさほど早起きに命をかけてるような人間はいないわけだ。未だにちょっと、戸惑うことはあるが、大勢の人波に紛れ、歩調を合わせて歩くなんて芸当にも慣れようとしていた。
「兄ちゃん、オレ、学校こっちだから、また家でね」
拓也がそう話して、小路を曲がっていく。去り際には「行ってきま〜す」と元気よく手を振っていった。オレも合わせて振り返しながら、一緒に歩いてたってのに、何も話していなかったことに気付く。少し、ブルーな気分が襲ってきてしまう。
拓也はオレが言うのもとてつもなくヘンだが、活発で純粋な人間だと思う。家に連れてくる友達の量が、あいつの人間性の高さを示してるだろう。
だからと言うわけでもないが、オレは余り拓也と話はしていなかったりする。六つも違えば、趣味も違ってくる。というか、俺にはあいつが普段どんなことをして遊んでるかなんて、全く想像できない。あいつの部屋にだって、ろくすっぽ入ったことがないんだから、考えてみれば、兄弟愛の無いアニキもいたもんだ。
あいつはオレのことをどう思ってるんだろうな。生まれてから今まで、ずっと自分の夢にかかりっ放しだったオレなんか、全く頼りにされてないんだろうなぁ。
ということを考えてると、朝っぱらの続きのようにして、ずーんと気分が沈み込んでくる。ホントに、やってられないな。元々、こんなことを考え過ぎるのだって、時間に余裕ができて、周りを見渡すことができたからだろう。それがいいことなのか、悪いことなのかはともかく、ふと見てみれば、オレは自分一人だけ、ぽつんと立ち尽くしちゃってるんじゃないかと思うことが多い。いや、こうして考える時間も、オレにとっては必要なんだ。これからのことを考えると。
これからのこと――。
空の上には、白い雲が続いているが、どんなに手を伸ばしても、それを掴むことは出来ないんだろう。オレが自分のこれからのことを考えようとすると、それは雲のように掴むことのできない、ふわふわしたもののように思えてしょうがなかった。
「夢を持ち続けることは難しいことです。それでも、夢を捨てるよりはずっとマシなんです」
ふと思い出した言葉。夏に合った太陽と風。オレはやっぱり、どこか宙ぶらりんであった。
木村和也、つまりオレはほんの一ヶ月前までは陸上部員として活動していた。オレの種目は短距離走者。マラソンのような、持久力を目指すのではなくて、一発勝負の瞬発力。隣に並ぶ誰よりも、スタートしてからゴールする瞬間まで、トップに立ち続ける。短距離を走る時なんて、殆ど周りの状況が目に入らない。それこそ、周りがどの順位にいるなんて、考えることもしないが、トップになると、それは現実にもなってくる。
誰よりも速く走りたい。とはいっても、別に確固たる目標人物がいるわけでもなかった。部内では一年そこそこですぐにレギュラーに選ばれ、県大会でも抜群の成績を残している。この分なら、来年は全国まで行けるだろう、とはコーチや部活仲間たちの共通した感想だった。
オレ自身としては、それほど記録にはこだわらなかった。ただ、昨日の自分よりも今日は速く走ろう、そう思い続けてきたら、タイムは結果として残っていった。そのことで誉められることに不満なんてあろうはずが無かったし、何より、オレにとって足が速いことは自慢だった。自慢が高じて、夢に繋がっていく。近所の連中から、学校の体力バカまで。自分の周囲にいる連中を次々と負かしていった時、オレはもっと広い世界で、多くの人々を抜き去りたい。そう、誰よりも速くなりたい。
つまり、オレは『走る』ことが好きなんじゃなくて、『走り』で『誰かを抜く』ことが好きだった。『走る』ことは目的ではなくて、手段でしかなかったんだろう。
そして二ヶ月前、オレの両足は不条理にも青春をドロップアウトすると言い出してしまったのだった。
学校のクラスで話をしつつも、心はどこかに飛んでってしまう。あの日、オレの両膝に走った激痛を、医者は「膝の軟骨が擦り切れて、それが神経を圧迫し――云々」とか言っていた。手術をしてリハビリをしても、前のようには走れないらしい。結論から言ってしまえば、「治療が遅かった」となるそうな。アッサリとしたもんで、本気になって夢の喪失に悲しむ、なんて気が起こることも無く、オレは日常から『走る』ことだけを取り除くことにした。
しかしながら、少なくとも高校卒業までは『走る』ことを最優先事項として暮らしていくことを根拠も無く確信していたオレは、小説や漫画に出て来る「夢を無くした人たち」同様にぽっかりとした気持ちを抱え込んでしまっているのだ。
これは喪失なのか、それにしては、悲しいと言うよりも戸惑いの方が先に立っていた。「え、これで終わりなの?」と誰ともなしに口にしてしまいそうな、ホントにポロリとオレはレールの上から脱線してしまった。悲しいのか、悔しいのか、それとも単にバカらしいのか。その区別もつかないまま、オレは漫然と学校生活の中に流される毎日を送っていた。
放課後にそれぞれの陸上競技に勤しむ仲間たちの面々を見ていると、先程の訳わからん戸惑いがまたしても頭をもたげてくる。「オレはこんなところで何してるんだ? オレも早くあそこに行って練習しなくちゃ」と考えることはあっても、結局は現実が勝って、オレは家に帰って漫画を読むなり、ゲームをしたり……。それで深夜番組を見て、現役時代には考えられなかったくらいの遅寝をしたりするのに、身体の方はしっかりと昔の習慣にこだわって早起きを繰り返すのだから、たまったもんじゃない。
そう考えると、オレは諦めが悪いのかもな、と思ったりもしたが、そもそもオレは諦めようとしていたのだろうか。オレは未だに、自分に何が起こって、どうなってしまっているのかが全く理解できていないバカモノであるのかもしれないのだ。それで毎日に「アレ? アレ?」と疑問を持ちながらも、それを確認するのが怖かったり煩わしかったりで、そうすると、ホントに自分はどうなっていくのだろうという不安ばかりがボロボロと積み重なっていくばかりだった。
ポケットに両手を突っ込んで、地面を見つめながら歩いてたオレが我に変えると、いつの間にか放課後の部活喧騒に包まれていた学校は彼方に消え、代わりに目の前にはデデンと街一番の総合病院が立ち塞がっていた。
病院に来る理由も目的も無かったが、考えてみればここはオレの足を診察した病院ではないか。医者のアッサリとした診断結果と、リハビリのための入院手続き。そして病院の中のしばらくの生活。オレは確かに桜が満開になる様を病室の中で見ていたはずなのに、どういうわけかその情景も、というかこの病院でのことは殆ど記憶に残っていない。都合の悪いことは忘れるような脳だったろうか。まあ、確かに部活以外ではあんまり優等生でもなかったが。
本気になって思い出すのもアホらしく、踵を返して家に帰ろうかと思ったオレだったが、ふと、入院中で唯一と言っていいほどの思い出をほじくり返していた。そうだ、あのオッサンはいるかな? まあ、ケガで入院していると言ってたし、五分五分かな。
オレがこうして病院に入ろうとしている時点で、かなりなヒマを持て余しちゃってることを証明しているのだった。
オレが殆ど呆然としながらポツネンと入院していたある日、相部屋の病室にそのオッサンが入院してくることになった。
ツラだけ見てると、人の良さそうな柔和な顔――とは百六十度ほどは離れてて、なにやらアクの強い印象ばかりを人に与える。頭もかなりの部分まで禿げ上がっていて、どこか引きつれたような笑みを常に口元に蓄えていた記憶がある。勿論、オレと話が合うような気はせず、向こうも同室の挨拶をするようには見えなかった(歳を考えると、オレの方がアイサツしてしかるべきなんだろうが)。その当時のオレも、医者に言われたリハビリメニューのことをぼんやりと考えるのみで、特別周りの何かに関心を寄せるようなこともしなかった。
だから、消灯も迫った時間にいきなり向こうから話し掛けられたときには、慌てて間の抜けた返事を返してしまったのだった。
「オイオイ、取って食われるわけでもねーのに、妙な声を出すなよ。オレが悪人みたいじゃねーか」
オッサンはいつものようにして、口の端に引きつれ笑いを浮かべながら話し掛けてきた。正直、悪人には見えるんだけど。
「オマエは何、なんのヤツで入院してんだ?」
「あ、足がなんか、変な風になってるらしくて、それで」
「変な風って、どんなよ? 別に折れてるようにも見えねぇけどな」
もっともだ。我ながら、訳のわからん説明をしているもんだ。
「いや、医者の説明が難しすぎて、なんか、あんまよくわかんなかったんですよね」
ついでに、声には出さない愛想笑いも付け加えちゃったりなんかしてる。
「へっ、普通医者は患者にもよくわかるように説明するもんだぜ? ホラ、あれだ、インフォーム…あれ? リフォーム? まあ、そんなのがあるから、患者には医者に自分のことを聞く権利っつーのがあるんだよ」
「はぁ、まあ、そうなんですけどね、あんま、関心がなかったっつーか…」
「ふーん、関心がないねぇ。自分の身体のことでか? 聞きたくないとかじゃね―のか? ハハッ」
「……いや…」
ひょっとしたら、そうなのかもしれないな。オレは多分、自分のこれからをアッサリと決めてしまう一言が聞きたくなくて、それに耳を塞いでいたんだろう。そうすれば、今こうして流れに任せている自分のことも、いつか誰かが「冗談、冗談」と言って、笑っても元の方向に軌道修正してくれるんだろうと考えていたんだ。
「まあな、誰だって自分の身体がどうにかなっちゃってるかどうかは、聞きたくなるモンなんだよ。でもな、心のどっかじゃ、それを拒否してる。あれだ、ガンになったヤツは自分がガンであると言っては欲しい。そうすりゃ、なにをするにしても覚悟が付くからな。でもな、でもな、もう一方じゃガンじゃない可能性にも期待している。医者の言うことを信じたくなくて、ホントは自分の身体はココに来る前と何ら変わってない、今まで通りの生活が行えるんだと思いてーんだよ」
オッサンは、まるで見透かしたようにして、オレの考えてることを喋っていく。そうなんだ、ホントは、オレもそうであることを願っている…。
「…おじさんは、どこを怪我したんですか? ケッコー深刻な怪我とか…」
「あん? オレか…オレはな、ちょーっとな、昔の知り合いとイロイロあってな…まあ、ガキに話すようなことじゃねーんだけどな」
じゃあ、いいっスよ。無理して言わなくても。
とはさすがに言い辛いだろう。オレはそのまま、天井の方を向いてオッサンの答えを待っていた。
「ハハハ、オレなぁ、笑うなよ? オレなぁ、実は刺されちまったんだよ。昔の知り合いにさ。ハハハ」
オッサンは、そう言って天井に向けていた顔をオレの方に向けた。唇に浮かんでいた笑みは、単なる引きつれにしか見えなかった。
「…そうっスか…」
それが嘘かまことかなんて、オレにはわからない。だから、怖いとかそういった感情は出てこなくて、むしろ、この人の方が怖がってるような気がしてた。オレも怖がってる。しかし、それが何に対してなのかがイマイチよくわからない。自分がもう走れないことがか、自分がもう誰に対しても自慢できなくなったことがか、結局、何かに対しての不安ばかりが大きくなって、そのせいで動けなくなっていく。少なくとも、走っていた頃にはこんなことは全く頭をよぎらなかった。
それからしばらくして、看護婦が消灯の時間を告げるまで、オッサンは口を開かなかった。オレも声をかけようとしなかったため、自然と会話は途切れていた。
オッサンが再び口を開いたのは、ほんの少しだけ眠気が襲ってきた頃であった。
「さっき言ってた知り合いな、知り合いっつーか、まあ、友人だったんだけどよ、そいつ、オレの方がずっと年下だったけどな、まあ、デッカイ夢持ってんだわ。金貯めて、ドでかい会社の社長になって、政治家になって、日本を変えてやるんだと。別に、呑んでるわけじゃなくて、大真面目に言ってるんだよ。笑えるよなぁ。そのために必死こいて金ばっか貯めてたんだよなぁ。もう、じいさんになろうかって歳なのによ。それでもまぁ、大会社の社長にはなれなかった金額しかなかったけどな。でもな、オレにとってはそれは充分大金さ。ソイツが大真面目に夢、持ってたことはオレもちゃんとわかってたよ。昨日今日の付き合いじゃなかったからな。でもな、オレにとっちゃあデカすぎんだよ、そんな夢。それよりも、オレにとっちやこれからどうやって暮らしていくかが問題だったんだよ。アイツ、あんだけ金持ってんのに、ちっとも使おうとしなかった。まだ足りない、もっと必要だ、なんて言っててよ。オレはさ、アイツの気持ちがわからなかったわけじゃぁないんだよ。でもな、アイツはオレの気持ちがわかってたのかなあ。オレにしちゃあ、大金を前にして、何にもできなかったことがどんだけ辛いことか、やっぱわかんねぇのかな? いや、オレだってわかんなかったのかな。アイツが本当に本気だったってことが。だからさ、ホントに、ホントに出来心だったのよ、ほんのちょろっと、いいモノ食って、いい酒が呑みたかったのよ。オレには、たったそれだけで充分だったんだよ。なあ、オレ、アイツのことはホントに友達だと思っててな、年上だし、スゲェ尊敬もしてたんだよ。なのにな、どうしてこうなったんだろうな。全然わかんねぇんだよ」
一通り喋り終えたのか、オッサンはそれきり、口をつぐんでしまった。
オレにもわからない。オッサンがどんな悩みを抱えているのかだってよくはわからないんだけど、オレにだって、自分がどうしてこんなところにいるのか、どうしてオレは走れなくなったのかが、全然わからないんだよ。医者が言うには、運が悪かったらしい。「運が悪い」なんて、朝の情報番組がやってる『今週の運勢コーナー!』とかに出て来ても、その日の昼には忘れちまうようなことだった。オレにもわからないし、オッサンにもわからない。一体、どうして自分なのか、どうして自分が選ばれてココにいるのかが、どうしてもわからない。
いや、違う。納得できないのだ。
「…坊主は、夢なんか持ってんのか?」
オッサンがまた独り言のように口を開いた。その顔は、もうオレの方を向いてはいなかったので、今でもその唇にあの笑みが浮かんでいるのかはわからなかった。
「…あったよ、夢なら」
「あったってことは、もうねぇのか?」
「…さあ? 怪我のせいで無くなっちゃったのかもしんないし、元々、夢なんて、無かったのかもしんない…」
「ハハッ、そうか、夢がねぇってか。若いのになぁ」
若いから、オレには何もわからないんじゃないか。これからどこまで人生が続くのかも、どこまでオレが進んでいけるのかもわからない。
「オレ、不安なんだよ」
「何が? 人生がか? そんなの、どうにでもなるって…」
「違うよ(そうだ、違う)、夢ってなんなのかがわからないから、そんなの持ってこれから先、生きていくのが怖いんだ」
「…オレも怖えーよ。なにをすれば、どうなるのか、全くわかりゃしねぇ。人生なんてのは、そういうもんだからナァ…」
「………」
「…なあ、坊主、オレの友人がデッケエ夢持ってるって言ったろ」
「…デカすぎて、なんかよくわかんないよ」
「オレもそう思ったよ。白髪まみれのじいさんになってまですることか、とね。でもな、そいつはある時こう言ったんだよ」
「………」
「夢を持って、それを実現させようと動いてる時には、これからへの不安も何もかも、一切合切詰め込んで走ることができるんだと」
「………」
「だから、そいつはこうも言ったよ。夢も持ち続けるのは難しいことだけど、夢を捨てて生きていくよりはずっとマシだってな」
「………」
「オレには、デッカイも小さいも、夢ってのは持てなかったからなぁ。だからだろうな、今でもオレは不安なままなんだよな」
「そう………」
「アツツ…あんま長話しすぎたかな? もう寝ろや、慣れねー話して疲れちまったよ」
そう言ったきり、オッサンは完全にオレにそっぽを向いてしまった。それでも、オッサンが眠ってはいないことははっきりとわかっていた。オレ自身、どうしようもない不安と、ごちゃ混ぜになった切望感に飲み込まれて、身動き一つできなかったから。
オレはそれから、リハビリ専門のメニューをこなしていった。オッサンは、それからしばらくして別の病棟に移っていった。結局、オレとオッサンがまともに話したのは、あれが最初で最後であったわけだ。
オレは受付に行って、あのオッサンの病室を聞こうとした時、オッサンの名前すら知らないことに気付いた。身体的な特長とかを言ったところで、どうにもならないだろう。受付目の前で固まってしまったオレを見て、年配の病院職員らしき人が怪訝そうな顔をしている。オレは、そのまま引きつった愛想笑いを浮かべたまま、病院を後にするしかできなかった。
あの日に言われた言葉は、オレの頭の中に今でも残ってはいる。だが、結局オレは自分を不安から解消してくれるものを見つけ出してはいなかった。それは、あのオッサンもそうであるのだろうかと思うと、同士を得た、なんて考えは出てこず、ただひたすら、見えない闇の中を泳ぎ回ってるような不安定さをオレに突きつける結果となってしまった。
オレは何となく、オッサンが言っていたデカイ夢を持った知り合いとやらに会ってみたいと考えていた。
妙な気疲れを抱いて家に帰ってみると、見慣れない靴が玄関にチョコンと存在していた。オレの知り合いにしては少々サイズに合わないから、拓也の知り合いの線が濃い。とか何とか考えてると、当の拓也がジュースの入ったお盆を持って台所からやって来たではないか。
「拓也、友達、来てんのか?」
「あ、兄ちゃん、お帰りなさい。うん、今ボクの部屋で遊んでるんだけど」
靴は二足あったが、内一つはどう考えても女物であった。ココは一つ、ブラフをかけてみるか!
「なあ、来てるのって女友達だろ? さてはオマエの彼女だな?」
「ええ!? ん〜、まあ、そんなような感じというか、なんというか…」
「な、何ィ!?」
何でオレにはいなくて、オマエにはできちゃうのよ! と危うく口にするところであったが、さすがに七つ年上の意地がそれだけは思い止まらせてくれた。それでも、内心はドキドキもんである。
「そ、そそ、そうか、まあ、よかったことだな、ウン、めでたい! 今日は母さんに頼んで赤飯にしよう! そうだ、そうしよう……」
拓也が不思議そうに目を丸める横で、オレはとぼとぼと背中を丸めながら階段を上っていった。こんな状態が長く続いてたら、鬱病になってしまいそうだ…。カバンを引きずり、ノートルダムのせむし男と化したオレが拓也の部屋の横を通った時、
「あ、ちょっとトイレに……」
と、部屋から出てきた女の子(!)と一瞬目が合った。そのまま女の子はホテホテ階段を下っていき、いまだ階下にいた様子の拓也と何やら話し合っていた。
し、しかしなかなかにカワイイ……い、いかんいかん! いくら最近は発育の早い女子が多いからって、モノには限度ってモンがある。オレ自身、陸上時代はそれなりにモテてはいたんだがなぁ〜。まさか小学生の弟に先を越されるとは…不覚!
さっきまでとはまた性質の違う不安感がどっぷりとオレを取り込み、しばらくの間オレはベッドから立ち上がることすらできなかったのだった。
どうやら、オレは眠っていたらしい。気が付いてみると、既に夕飯も始まりそうな時刻。部活をやってた頃は、クタクタで帰ってきて、飯も食わずに寝たことなど多々ある。勿論、腹は減ってるので、起こされれば飛んで飯を食いに行ってたのだが、今ではそんなこともなくなってしまった。夏とは言え、既に日も落ちて、部屋の中は闇一色の世界に塗り潰されていた。カラッと窓を開けると、昼とは打って変わって優しい涼しさを纏った風が吹き込んできていた。星も月も、この窓の位置からははっきりとは見えなかったが、それでもオレはこんな夜空を見ることは嫌いじゃなかった。確か昔は、どこまで行けば月が顔を出すだろうかって、走り続けたような記憶があったな。
「兄ちゃん、もう御飯できたってさ。下りてきてよ」
ノックはしたかな? と思ったが、そんなことはどうでもよかった。
「ああ…拓也もう友達は帰ったのか?」
「うん、そりゃ、もうこんな時間だもの」
「そうだなぁ…カワイイ彼女に夜道を歩かせるわけにはいかんからなぁ」
ちょっとだけ笑いながら言うと、拓也は過剰に反応して、
「いや、そんな、そういうんじゃなくて、そのー、なんて言うかさ…」
「ハハッ、まあ、いいからさ……」
拓也とこんな風な話をするのも久々だったかもしれないな。結局、オレは走ってばかりで、ろくな面倒を見たことも無かったからな。
部屋を出ようとした時、視界の中に移りこむものがあった。暗闇の中でもしっかりとオレの目を捉えて離さないそれは、陸上時代に愛用していたシューズであった。唐突に自己責任ではなく、役目を終えてしまわなければならなくなったそのシューズを、オレはどうしてか机の上に放っておくことしかできなかった。でも、今なら何となくその理由がわかるような気がした。
「兄ちゃん? どうしたのさ?」
部屋の中で突っ立ってるオレに向けて、拓也が不思議そうな声をかけてくる。
オレは机の前に足を進めると、そのシューズを手に取っていた。それを見詰めながら、
「なあ、拓也、お前は夢とかあるか?」
「え? うーん………」
卓也は少しの間だけ、考えるような仕草をすると、困ったような顔をして、
「まだわかんないよ。ボク、兄ちゃんのように足が速いってわけでもないからさ」
「そうか………」
一人の人間には、どれだけの才能が詰まっているのだろう。そして、そんな自分の才能に気付ける人間は、どれだけいるのだろうか。オレはその中で、少なくとも気付けた方なのかもしれない。
オレは『走る』ことで誰かよりも上になれるのが楽しかった。では、それは別に『走る』こと以外であってもよかったのかと言うと、そうではなかったろう。オレにとって確かに『走り』は手段かもしれないが、『走る』ことが好きだったからこそ、オレはこれ一つで誰かと勝負していきたかったのかもしれない。
オレが走り続けているとき、そこに不安や心配は一切無かった。あったのは、ただ風を切るような感覚と、誰よりも速くゴールに着くこと――。
オレは、シューズを抱えて部屋を出た。
「拓也、母さんに、夕飯は後でもらうって言っといてくれ」
「え? 兄ちゃん、どうしたの? 走るの?」
「んー、まあな」
ちょっとだけ照れ臭くて、オレはつい笑ってしまった。
「変か? 今更昔みたいには走れないのにさ。でもさ、オレは走ることが好きだから、これを自分の夢にしようとしてたんだな。だからこんな風に立ち止まっちゃうと、凄く不安になっちまう。自分が夢から遠ざかってるのわかるからさ。だから、もう一回、やってみてもいいんじゃないかな―と思ってさ。元々、好きで始めたことだからな。好きで辞める前に、好きで続けてみようか、って思ってね」
夢を持つということは、つまり不安や希望を全部詰め込んで走り続けることなのかもしれない。ある時立ち止まったとき、それはひょっとしたらまるで見当違いな方向に向かって進んでいる道なのかもしれない。多くの人間が、全て成功するとは限らないから。それでも、夢に向かってる時間は、オレに確かな充実感と、興奮を与えてくれる。誰よりも速くゴールすること。走るのが好きで、そして得意だったんだから、オレはその最初のゴールに向かって、常に走っていきたい。それを忘れずに、生きていきたい。
青空の上に浮かぶ雲は、手を伸ばしても捕まえられないかもしれない。それでも、手を伸ばそうとする瞬間は最高な気持ちになると信じたいから。
「やっぱ、変か?」
拓也は、返事の代わりに大きく首を左右に振った。
「そんなこと無いよ、ボク、好きだったよ! 兄ちゃんが走ってるの! ボクの自慢だったんだよ!」
「あ……そうか…見てくれてたんだな…」
オレは拓也のことをあんまり見てはいなかったのかも知れないけれど、拓也はオレのことを見ていてくれてたんだな。
そう考えると、少し胸が詰まりそうになって、オレは廊下の電球を見上げた。
「よし! そんじゃあブランクを埋めに行きますか!」
以前のようには走れない――あの時、医者に言われた言葉だが、走れなくなったわけじゃない。辞めてしまうにはまだ早すぎる。そして、医者はこうも言っていた。まだ若いから、しっかりとしたリハビリと、筋トレによる補強を行えば、可能性はある――と。
「兄ちゃん、ボクも一緒に走っていい?」
「ん? なんだ、お前、オレに勝てる気か? まだ本気で走れないとは言え、まだまだ小学生には負けね―よ」
特に彼女付きには、と心の中で付け足しておく。
「だってさ、ボクも兄ちゃんの弟だよ? ひょっとしたら、走るの速いかもしれないよ」
拓也はニッコリ笑いながらそんなことを言っていた。それを見て、オレもつられて笑い返した。
『夢を持って、それを実現させようと動いてる時には、これからへの不安も何もかも、一切合切詰め込んで走ることができるんだと』
オレはシューズを履きながら、オッサンが言った言葉を思い返して、拓也に聞こえないように呟いていた。
付け加える言葉がある。そこにあるのはほんの少しの不安と、それよりももっと大きな興奮である、と。