Coffee Break


Coffee Break NO.5/4月22日fri.

     「桜の返礼、花水木(ハナミズキ)」

 「ハナミズキ」、その花言葉は「私の想いを受けてください」「返礼」だそうです。

明治の末に友好の証しとして日本からアメリカに桜が贈られ、そのお返しに大正の初めにアメリカから日本へハナミズキが贈られました。それで「返礼」。日本から贈った桜はあのワシントンのポトマック河畔の桜で、今も元気らしい。アメリカから贈られたハナミズキの原木の方はもう殆ど残ってなくて、存命中なのはほんの数本です。その貴重な一本を小石川植物園で見ました。今は杖を突く老木となって、花を咲かせる鋭気はすっかり失せていました。

季節は桜からハナミズキにリレーされ、ハナミズキの花は今が旬です。昨日通った平塚駅前の大通りも、白や赤味を帯びたピンクの花が咲いていました。前任地の足利市の街路樹や宇都宮市の帝京大学近くの「花水木通り」なども思い出されます。原木は老いてもその子孫がDNAを受けついで、日本のあちらこちらに広がっているのですね。
 ところでハナミズキの「花」の正体をご存知ですか?花びらのように見えるのは実は花ではないのです。花びらだと皆さんが(私も)思っていたのは、正確には「苞」(ほう)と呼ばれる「葉」で、その苞(ほう)の真ん中に粒となって集まっている黄緑色のものがハナミズキの花なのだそうです。ほうほう、そうだったのか。
 


Coffee Break NO.4 /4月15日fri.

            「わが街」

 このほど仕事で担当することになった平塚、大磯、二宮の地名の謂れを調べてみました。大磯はまさしくロングビーチで昔から風光明媚だったのでしょう。「鴫(しぎ)立」で有名な西行の歌にも詠われていますし。鴫立庵を偶然見つけたときは、嬉しくなりました。ここに西行が立っていたのかと思うと感無量でした。秋には、西行気分で夕暮れを眺めに行きます。

 さて平塚ですが、偉い人のお墓があったのか、あるいは距離の目印(一里塚)があったのか、どちらかと思っていたら、前者が正解でした。「桓武天皇の三代孫、高兄王の娘政子が、旅の途中(天安元年(857)年2月)この地で逝去し、そのお墓(塚)がここに築かれた。いつしか塚の上が平らになったのでそれを『ひらつか』と呼んできた」 ということが平塚の碑の説明文にあるそうです。ふーーん、由所正しい街なのですね。
 そして二宮です。一宮、二宮、三宮という地名は全国各地でも見かけます。町の名でなくとも、浅草の浅草寺には一宮から三宮まであります。結局、お宮の順番ですね。中郡の二宮の由来は「4世紀中頃、この地域は『師長(しなが)国』の『霜見』と呼ばれ、川勾神社が師長国の一宮でした。大化の改新(645年)により、師長国は相武(さがみ)国と合併して相模(さがみ)国となり、この地域は『相模国余綾(よろぎ)郡』の『霜見郷』となりました。それまで師長国の一の宮であった川勾神社が、相模国の二の宮になり、一の宮の地位を寒川神社に譲ったといわれています。以来、相模国の二の宮である川勾神社の存在するこの地域を『二宮』と称するようになった」そうです。なる程、歴史を感じますね。
 
 子どもたちの名前に一人ひとりその由来があり、それぞれの親御さんの思いがあるように、地名にも古の人々の想いとその想いを育くんだ背景があるのでしょう。わが街の名に親しみを持つことから始め、わが街のことをより良く知っていきたいと思います。地域への親近感と地域の子供たちへの献身の気持ちを深めることができたら幸いです。


Coffee Break NO.3 /4月9日fri.

        「花より桜餅」

 そろそろ染井吉野も葉桜に。食いしん坊には葉っぱが美味しそうに見えます。やっぱり花より桜餅。

 浅草から隅田川に架かる桜橋を渡ると、高速道路のすぐ下に「長命寺桜餅」のお店があります。このお店の案内に桜餅の由来が紹介してありました。そもそもこの桜餅の誕生は、江戸時代に遡ります。江戸時代(元禄4年(1691)頃)、長命寺に寺男として住み込んでいた山本新六いとう男が、ある日、せんこうの煙からなぜか、桜餅を想像したのです。新六はすぐに桜の葉を集めて塩漬けにし、その葉で餅をくるんで売ったところ、これが大当たりしたそうです。それが今でも名物になっています。
 長命寺は、池波正太郎の「剣客商売 天魔」の老僧狂乱の編に出てきますが、お寺としてよりも、このように「長命寺桜餅」で有名なのです。長命寺は元は乗泉寺といったそうですが、鷹狩りに来た徳川家光が急に体調が悪くなったとき、この境内の井戸水で薬を飲みました。すると、直ぐに元気になったということです。そこで家光はこのお寺の名前を長命寺と命名したとのこと。
 長命寺桜餅は餡を小麦粉の薄皮で包み、それを塩漬けにした桜の葉3枚で巻いてあります。桜の葉も一緒に食べますが、3枚の桜の葉ですので、薬草みたいで、長命寺の名のとおり、それを食べると長生きしそうな気になります。でも、薬草と思ってしまうと、ついつい幾つでも食べられてしまうので、食べすぎには注意しましょう。



Coffee Break NO.2 /4月2日fri.

         「桜色との邂逅」
 詩人の大岡信さんの「言葉の力」にこんな話があります。桜の草木染めの美しいピンクの色は、桜の花びらではなくて、桜の(樹の)皮から染めるそうです。それも、「一年中どの季節でもとれるわけではない」そうです。
 大岡さんは、この話を染色家の志村ふくみさん(人間国宝)から教わったと述べています。志村ふくみさんの著書「一色一生」では、次のように語られています。「幹で染めた色が桜色で、花弁で染めた色はうす緑色になるとは、自然の周期を伝える暗示に富んだ話です」。また、3月の折々粉雪の舞う小倉山の麓でいただいた桜の枝からは、ほんのりした樺桜のような桜色が染まったけれど、9月の樹からは3月の桜と全然違って、色が匂い立つことはなかったと。「花の命」の厳かさ、自然の周期の不思議さですね。

 ところで、志村ふくみさんのエッセイを再編集した「色を奏でる」にある「藤原の桜」という章は、何度読み返しても胸にジーンとくるものがあります。大岡信さんの「言葉の力」を教科書で読んだ藤原中学の生徒が志村さんに「一度、私たちの村の桜を染めてください」と手紙を書きました。志村さんはそれに応えて村を訪れ、中学生とともに藤原の桜を染めました。すると、染まったのは「匂い立つような桜色になるはずだった」が、「赤味を帯びた黄色だった」のです。なーんだと落胆する中学生を前に「逃げも隠れもできない」志村さんは、自分の思い上がりを打ちのめされたような気がするなかで、「今ここにある色、藤原の桜の色は黄色です」と咄嗟に言ったそうです。
 しかし後に生徒は純粋な感受性を志村さんへの手紙で伝えてくれました。「私が一番心に残ったことは、同じ桜でやっても同じ色がでない、(略)藤原の桜は黄色です。これが藤原の桜の色だと思うと、とてもうれしいです。勉強していれば、必ず本当のことがあるから、いっそううれしく思いました。(略)」と。生徒たちの素晴らしい反応に透明な叡智の芽吹きを授かったと志村さんは語っています。
 先週、隅田川と上野公園をブラブラ散歩しました。お花見をしていると、ふと桜から色の命をいただいているのだなあって、ありがたい気分になります。それもこれも、草木染めの素敵な話に出会ったからでしょう。「色を奏でる」(ちくま文庫)はお勧めです。お気に召されなかったら、本代は私がお返しいたしましょう。



Coffee Break NO.1 /3月26日fri.

        「さくら、さくら♪」

 今年は早いもので、今週末には桜も見頃になりそうです。「さくら、さくら、やよいの・・♪」の歌の題名をご存知ですか。そう「さくらさくら」ですね。代表的な日本のふるさとの歌ですが、いつから歌われたのでしょう。ちょっと、調べてみましょう。

 この曲は、江戸時代に歌われた曲で、1888年(明治21年)に、明治政府音楽教育係がまとめた「筝曲集」の中に取り入れられました。もとは筝曲や三味線に使われる日本特有の陰音階の曲です。だから日本情緒満載なのは当然と言えますね。このように「さくらさくら」は必ず江戸古謡という説明がなされるのですが、実は江戸時代の文献には、この「さくらさくら」の詞章も譜も見当たらないそうです。初出は、明治17年以前に文部省音楽取調掛が撰した『箏曲集』(明治21年刊、文部省編輯局発行)で、そこには第二曲として単に「桜」とあるらしい。それを里見義か、加部巖夫もしくは依田百川あたりが、今の歌詞に変えたのだそうです。
 江戸の人がどんな風に歌っていたかは今となっては定かではないということですね。でも、素敵なメロディーであることは誰もが認めるところでしょう。この「さくらさくら」は、国際交流の場で外国の人が(片言の日本語で)歌うことも多いですし、外国の民族音楽団がその民族楽器で演奏することも多いようです。言わば日本の歌の代名詞みたいなものですね。桜好きの私としても、この「さくらさくら」はふるさとの歌の代表にしたいと思います。