Coffee Break
Coffee Break NO.41/2005年1月31日Mon.
「あまおう」
近所のスーパーで「甘さと酸っぱさの絶妙のバランス」というキャッチコピーの札を見つけました。その札は栃乙女の隣に並んでいた「あまおう」という名の苺のところに立ててありました。最近はスーパーでも色々なコピーがあってお客さんを楽しませてくれるのですね。試しに「あまおう」を買ってみることにしました。
丸い苺のつぶを割ってみると、果肉の中も紅いのです。これにはびっくり。中心まで熟しているという感じです。味のほうは・・甘さが舌の上を転がります。とその後、舌の先と両サイドのところに柔らかな酸っぱさがあるのです。おおっ!昔の懐かしい酸味が。甘さだけを競い合った最近の果物の品種改良とは一味違う味わいを感じました。
味覚とは不思議なもので、甘さと酸っぱさが同居するから甘さが美味しく感じるのでしょうか。そう言えば、ぜんざいに塩を少々入れると甘さが心地よくなりますよね。甘さの逆の味は、きっと塩辛いでもなく、あるいは唐辛子の辛いでもなく、山椒の痺れる辛さでもなさそうです。言葉では甘辛という反対言葉を当てていますが、味覚としては反対ではなくて、甘い、しょっぱい、辛い、痺れる等など、それぞれが独立している味わいなのかも知れませんね。
さてさて、この「あまおう」の名は福岡の人たちから公募で決められたそうです。スーパーの札には名前の由来も書いてありました。「あかい」「まるい」「おおきい」「うまい」、なんだ単純でストレートな名前なんだなあ。やっぱり博多モンのやることだなあと、故郷の人情を感じるひと時でした。
Coffee Break NO.40/2005年1月21日fri.
「ワインの思い出」
料理をすることは前頭前野を活性化する、つまり老化防止に良いということで、たまにキッチンに立つことがあります。先日は、ちょっと頑張りました。MENUは、サラダ3種(ひじきのサラダ、大根とホタテのサラダ、ペッパータンのサラダ)、オードブル2種、(牡蠣・ホタテのベーコン巻き、ふぐの一夜干)、メインは豚ロースのフルーツシチュー、デザートにチーズケーキと苺。ワインは、シャトー・パビヨン・ルージュド・シャトーマルゴー(ボルドー)の95年。
このワインはシャトーマルゴーのセカンドラベル。95年はボルドーにとってはGreat◎の年で、熟成型ワインには当たり年です。栓を抜くとコルクから微かに甘い香。わが家で5年寝ていたので、ワインそのものからは香り立つことはありません。起きてくださいと唱えつつ、グラスに注ぐと深い紫色が個性を予感させます。最初の一口はまだまどろんでいるような仄かな渋みが感じられますが、まだまだ。起きるまでじっくりいくことにします。30分ほど経つと、若い頃には盛んだったであろうタンニンの渋みが、10年の日々を経て昇華された円やかさを帯びてきました。香りも醸し出されてきました。食事がサラダ、チーズと経て、ベーコン巻きに行く頃には、香りも精気を取り戻し、辺りに揺れてきます・・・。
ワインを飲み始めたのは15年ほど前です。「シャトーマルゴー」の78年を頂戴しました。私の仕事のボスは、「このワインは18年熟成させた頃から美味しくなる。これからだと3年後に飲みごろを迎えるので、今の企画を3年後には軌道にのせて、その時にお家で楽しんでください」と言って仲間に1本ずつ下さったのです。それがワインを始めた切っ掛けです。(企画の成功のために仕事も頑張りましたが)折角のワインを3年後に美味しくいただくためにと、ワインも頑張りました。薀蓄本片手に、色々なワインを少しずつ試してみました。すると・・次第に好みも生まれるのですね。最近では幾つかの好みの銘柄ができています。楽しみ方も自分スタイルが出来たかなあ。
・・・さて、「シャトーマルゴーの1978年」、10年前にそれと全く同じ物を購入して飲みました。あの頂きもののワインの方は、今もってわが家で眠っています。ワインの愉しみを教えてくれた記念のワインですから、勿体無くて未だに開けることが出来ずにいるのです。ボスも亡くなり、思い出がいっぱいのワインですから。
Coffee Break NO.39/2005年1月14日fri.
「有用の美」
物静かな方が時として言葉が溢れることがあります。ひょんなことで車で駅まで送ってくださった方がそうでした。そのご主人は陶芸がご趣味だそうで、車中では焼き物のお話をたくさん語ってくださいました。話を聞いているうちに、藤原雄さん(備前焼の人間国宝)や金城次郎さん(壷谷焼きの人間国宝)がお気に入りだということが徐々に分かってきました。
ご主人がお好きだという備前焼は、釉薬(上薬)を使いません。焼き締めだけで、百変化ほどする焼き肌の具合を楽しみます。例えば、緋襷(ひだすき)という焼き方がありますが、茶色や灰色の素地に筆で細く書いたような緋色(オレンジ色)の線が発色しています。窯に入れるときに作品を藁で巻いて焼く方法ですが、窯の中でぱっと藁が燃え、そのとき藁の部分と土が反応して線ができるのです。当然、藁は燃えてなくなり、緋色の線だけがほんのりと残ります。器に藁で襷(たすき)かけをして窯に入れてできる「緋色の線」ということで緋襷と言います。
緋襷(ひだすき)は元々は縄文土器の焼き方です。縄文土器は縄で編んだ籠の中に土を薄く張って器の形を作り、それを焼き上げるのです。そうすると当然藁はなくなり、縄目だけが残るのです。縄文人は徐々にこの縄の編み方を工夫し、そうすることで焼きあがった器の模様を楽しんだのです。
備前の緋襷も藁の模様を楽しむところが同じですね。
さて、藤原雄さんや金城次郎さんには、人間国宝というだけで、さぞかしお高い芸術というイメージを抱かれる方も多いでしょう。確かに、展示品などは作品そのものの存在感が大きいということが素人目にも感じられます。ところが以前に当のご本人が、芸術のためだけに焼いているのではないということを仰っていたことを聞いたことがあります。「使っていただくものを焼く」のですと。「有用の美」を求めていると。
「無用の美」と「有用の美」が同居しているところが伝統工芸としての焼き物の面白みの一つかもしれません。飾っても綺麗だけど、使って更に綺麗。例えば、雄さんの備前に盛ると料理が一層美味しそうに見える。次郎さんの「ぐい呑み」に泡盛を注ぐと笑い魚が泳いでいるように見えて心地良い・・・ということですね。
ご主人とお話をしていて、こんな素敵な発見をさせていただきました。それこそ、無口なご主人のお話は「有用の美」そのものだったのかも知れません。素敵な対話のひと時を戴いたと思いました。
Coffee Break NO.38/2005年1月7日fri.
「初心忘るべからず」
明けましておめでとうございます。今年最初のCoffeeBreakです。
年の初めや物事の区切りの時などによく聞かれそうな言葉、「初心忘るべからず」をご紹介しましょう。私たちがこの言葉を使うときは、「最初の純粋で初々しい気持ちを忘れないようにしよう」というような気持ちを表しているのですね。それはそれとしてとても素敵な気持ちですから、その想いも大切にしたいものです。
さて、この言葉が産声を上げたときの様子はどうだったでしょう。「初心忘るべからず」はもともとは世阿弥の『花鏡』で使われたものです。そう能楽の奥義を著した書として文学史に登場します。私を含め大多数の人たちは、能楽などほとんど観る機会もありませんし、まして能楽を習うことなどありませんから、『花鏡』を読んでも多分字面以上のことは解らないかもしれませんね。でも解らないなりにも敢えて『花鏡』の「初心」を覗いてみることにしましょう。
「花鏡」によると「忘るべからざる」初心は3つあるそうです。
その一「是非の初心忘るべからず」
その二「時・時の初心忘るべからず」
その三「老いての初心忘るべからず」
その一の「是非の初心」とは多分「是と非」つまり「良し悪し」「本物と偽物」というようなことなのでしょうか。「やっと本物と偽物が解るようになってきたね。あなたの技も本物の域に入ったけど、本物と偽物の違いを忘れないようにして演じ続けましょう」ということなのでしょうね。
その二の「時・時の初心」とは、きっと「本物として演じる演目のレパートリーも増え、自在に演技できる幅も広がってきたよね。どんな演目を演じても、いつも一つ一つの所作が雑にならないようにしてね」ということではないでしょうか。
その三の「老いての初心」とは、「技も老練になりいよいよ悟りの域に入っていきますよ。とは言ってもまだまだ悟りの入り口だから、更にそれを深めるために修行していきましょう」ということでしょうか。
その言葉が真に意味するところは、やっぱり実際に修行している人しか解らないのかなあと思いますが、でも皆さんも何となく感じたことがあると思います。例えば、技の進歩には幾つかの段階があって、「初心」とは「それぞれの段階での未熟さ」のことというように。「人は限りあり」「能は限りなし」と世阿弥は語りますが、「あなたも良くぞここまで旨くなったけど、まだまだ先がありますよ」ということなのでしょう。
そう言えばイチロー選手も言ってましたね、「もっと上手くなりたい」と。「まだ前進したい」と。
ちょっと理屈っぽくなりましたけど、私たちも今年は昨年よりも一歩でも半歩でも前に進みましょうねという気持ちをこめて、「初心忘るべからず」を年頭の言葉にしたいと思います。