| Coffee Break NO.65/2005年7月31日Sun. うれし涙 初めてうれし涙を流したのは何歳のときですか? 「『読書好きになったきっかけ』を書いてください」と「子育てサークル」の掲示板の投稿者Mikapapaさんからの呼びかけがあって、面白い企画だなって思いながら、その「きっかけ」を思い起こしていました。読み聞かせしてもらった絵本、初めて図書室で借りて読んだ本、初めて自分で買った新潮文庫のこととか、かなり昔の話ですが結構覚えているものですね。 「本って良いなあ」と思ったNO.1の出来事は、そうそう本を読みながらうれし涙を流した日のことかなあ。その本は、小学校の1年生のときに学校で初めて借りた「母をたずねて三千里」(E.Dアミーチス)でした。ストーリーは、皆さんご存知の通り、母と別れてたくさんの困難に出会いながらも、心温かい人々に支えられて旅するマルコが、やっと母アンナに再会するという単純で感動的な話です。小1のときの私は、怪我をしたり、痛かったり辛かったり、そこそこ悲しいことがあったりしても、決して涙を流すことのない強い子供というか変な?子供でした。その子が、この本の最後のシーンでは、「悲しくないのに目頭が熱くなって、涙がポトリポトリと落ちていた」のです。母親から「うれし涙って言うんだよ」って教えてもらいました。本ってすごいなあって心底思った瞬間でした。 |
| Coffee Break NO.64/2005年7月24日Sun. 浴衣の風情 先日は平塚の花火大会。来週は隅田川や大磯で。全国各所、夏の風情ですね。 ここ数年、街には浴衣姿の若者が増えて来たそうです。ブームなのでしょう。プリント柄にサンダルという浴衣があったり、帯が皮製であったりと、奇抜で奇怪な浴衣もあるようですが、裾を気にしながら下駄を履いて浴衣姿で歩いている人を見ると、日本人だなあって感じます。まあ、着こなしや歩き方に不慣れという人が大半なので、一概に情緒的とは言えませんがね。それでも下駄を履くと歩き方が楚々となるし、裾も気にするし、袖を振ってみたりするわけで、着物というのはこうした無用の部分が楽しいのですね。 無用の代表は、例えば「袖、帯、お端折り」で、これらは行動するときは機能的には見えませんよね。役に立たつとは思えないので、無用の最たるものですよね。でも、その無用の中にこそ日本人は情緒を見ていたのかも知れません。 「袖」ひとつとっても、「袖の露」「袖のしがらみ」「袖の別れ」とか言って、「袖」は男女の情を交わすところでもあったわけです。袖を大切にした所作や仕草があったのですね。こうして古来、日本人は無用と思えるところに美と情を漂わせていた、つまり見えないところのメンタルなファッションを大切にしていたわけですね。こんなロマンティックな文化は他にはないでしょう。浴衣のブームと同時に、こうした着物文化に潜んでいた情緒も自然に伝承されると良いなって思います。 |
| Coffee Break NO.63/2005年7月17日Sun. 昔遊び 先日、こんな話を聞きました。ゲームが子供たちから勉強の時間を奪っているということよりも、ゲームが遊びの時間を奪っているということの方が深刻だと。そして昔遊びというものは、遊びそのものとしても素晴らしいけれど教育としても合理性に富んでいるというのです。「かくれんぼ」の鬼が数唱100をやるとか、「双六」では二つのサイコロで足し算をやるとか、それ程昔でなくても「トランプ」では色んな数のゲームができたものです。 もともと中世〜近世の日本の教育は進んでいたと言われます。それは咸宜園等を代表する私塾の発達のみならず、むしろ庶民の教育が普及していたということなのでしょう。「読み書き計算」「只管朗読」「只管筆写」、そして実生活のための「手習い」が広がっていたのですね。トランプはありませんが、将棋や碁石を使った昔ゲームも庶民の間で行われていたそうです。碁石を使った数学の文章題等は既に鎌倉時代からありました。有名な「ねずみ算」や「つるかめ算」は寺子屋の教科書に乗っていたということです。ただし、「つるかめ算」は元々は鶴と亀ではなく雉(きじ)と兎(うさぎ)だったのですが。 驚くことに九九は飛鳥時代からあり、口ずさみとしては平安時代に広がったそうです。なんと「割り算九九」も暗唱したとのことですので、今の子よりも基礎学力は高かったかも知れませんね。 もう直ぐ夏休み、里帰りしたり時は、おじいちゃんおばあちゃんと一緒にちょっとレトロ感覚で子供たちが昔遊びをしてくれると良いですね。加古さとしさんの「昔遊び」という本には昔遊びがたくさん紹介してありますので、ご参考になるかも知れません。 |
| Coffee Break NO.62/2005年7月10日Sun. 七夕 昨夜は天の川は見えず。牽牛と織姫のランデブーは密かに雲の上でした♪ 昨日行った平塚市は市を上げて盛大に、大磯の八坂神社は厳かに、それぞれの七夕祭を祝います。 七夕祭りは、織姫伝説と結びついていることが多いので、織物の祭とばかり思っていたのですが、必ずしもそうではないらしいということを最近知りました。平塚も織物とはあまり縁がなさそうですし。五節句の一つの七夕(しちせき)が、村や神社、仏閣の祭事と重なって、棚機(たなばた)、種播(たなばた)等々に結びついたので、所によっては織物の祭りであったり、手芸の上達や手工業の繁栄、豊作祈願、神社の儀式となっているのだそうです。それから7月7日の十月十日後はお釈迦様の誕生日の4月8日にあたるそうで、なんとも節句の緻密なドラマも隠されているらしい。こんなことを教えてもらうにつけ、昔の人は暦に対して抱くロマンを生活の中に溶け込ませていたのだなあって感心するばかりです。 子供のころは近所のお寺に集まって、紙縒り(こより)を折ってささの葉に願い事を書いた短冊を結んだものです。お寺から子供たちにお八つが振舞われました。3月3日、5月5日、7月7日、(9月9日は重陽の節句)それぞれの節句では子供が主人公で、昔は子供が大切にされていたということも伺えますね。日本が、子供たちとその未来を大切にする文化をもっていたということなのでしょうね。 |
| Coffee Break NO.61/2005年7月3日Sun. “ナンセンスのセンス” 『ブキャ!』とページをめくると、「ゲラゲラ、ワッハッハッハ、ありえねえ〜」と子供の笑いが絶えない「キャベツくん」、もう長新太さんの新作を見ることはありません。「おしゃべりなたまごやき」「かえるのはなび」「おなら」等々でお世話になった方もたくさんいらっしゃることでしょう。 絵本のファンタジーワールドの大半は、動物やモノの擬人化によって生まれています。長さんの面白さは、そこを超えたところ、動物や個体の性質や部品の特徴をシンボリックにクローズアップさせている点にあるのですね。おならのシンフォニーのような「おなら」、花火を打ち上げるぞうくんの鼻を皆が心配する「かえるのはなび」などもただの奇想天外って感じではありません。ある意味で、絵本のシンボリズム(象徴主義)って感じです。シンボリックなクローズアップが物事の中の独特の愛嬌を引き出すのですね。 子供心を失いかけた大人でも、ハッ!とするわけです。ギャハハハ、クスクスクス・・・と笑っていた頃の懐かしさを思い出させてくれます。ナンセンスの心地良さ、ナンセンスのセンスをちょっと取り戻したような気にさせてくれる長新太さんの絵本はいつも新鮮な印象を与えてくれました。 ギャハハハッって笑っている子供たちの笑顔を、 どうぞ天国で見守っていてください。 |