明報周刊の記事紹介

このページでは、以前頼まれて訳した「明報周刊」の文章を紹介します。
この一連の記事は、LESLIEの経理人だったフローレンス・チャンが書いたものです。

明報周刊1696号  訳
 
  誤って伝えられた新曲入賞
             哥哥の最初の涙

 
 ハンサムで、赤いブーツをはいている、いきのいい歌手がテレビに出演していた印象は、まだ、記憶に新しい。私は、なんと、尖東の秀滿樓で、彼と出くわしているのだ。 その晩、琴姐(李香琴)が食事に誘い、ついでに、部屋の外で友人と晩御飯を食べている張國榮を紹介してくれたのである。
 その晩は、ただ電話番号を交換し合い、彼が今フリーであることがわかっただけであったが、後に再会し、すぐに意気投合し、順調に華星レコードの歌手となる契約を結んだ。
 山口百恵をたいへんに好きだったので、張國榮が、山口百恵のような成績を作り出せるようにと、
彼女の歌『さよならの向こう側』を作り変えた『風繼續吹』を、華星での最初のレコードのメインにした。
 レコードの売上はよく、この歌は、翌年の十大勁歌金曲の一つになるだろうと思いこんだ。勁歌のスタッフは、私にその可能性を言い、さらに、極力、張國榮がその晩すわっておくことを求めた。私は、実に単純に突然のこの知らせを信じてしまい、張國榮に伝えてしまったのだ。 そして、彼を喜ばせ、そしてまた、がっかりさせてしまった。
 実は、その年に彼が賞をとることは、少しも意外なことではなかった。レコードの売上はよく、放送される率もまた、大変に高かったのだから。 しかし、ひとつの緊張場面を作った方がよいと考える人がいて、うその知らせをすることをいとわず、一人の新人をこのように耐えがたい思いにさせたのだ。
 どうして、こんな必要があるだろう。自分が、当時、まだ経験が少なく、政治意識も大変に低く、そして、大変に人を信じやすかったことが悔やまれる。それで、間接的に共犯者になってしまったのだ。 その結果、当然期待は大きく、そして、失望も大きかった。
 ショーが終わった後、心中は特別にくるしかった。というのが、早くから、海城に行って、羅文の出演を見る約束がしてあり、大勢の人が一緒に羅文の元へと去ってしまったのだ。 明かりが消え、真っ暗な中、LESLIEは、なんと私のかたわらで泣いていた。私と、数人の友人とで、懸命に彼を慰めたが、心の中は、申し訳なさで一杯だった。そして、次は必ずもっといいレコードを出そうと決心したのである。

      <率直で損をしやすい>
 張國榮の人柄は、大変に率直なため、すぐに、目の前にいる人達に誤解されて損をしてしまう。たくさんのインタビューのたび、ちょっとした言葉がもとで、マイナス報道をされてしまった。 多くの悪い記事は、一人の人気芸能人にとって、当然、たいへんに不利な物だ。それで私は、その後、客観的に書く記者をえらび、彼と接触させるようにした。インタビューなどがあるたびに、私は段取りをし、毎回必ず同席することにした。そして、彼の答えに言葉を補って、記者が彼の考えを誤解しないようにした。李純恩は、最初の張國榮インタビューの時に、私を彼の『経理人(マネージャー)』と名づけた。
(じつは、その当時、『経理人』は、まだ一つの職名とはなっておらず、李純恩が、一つの称号として与えてくれたものなのだ。)思いもよらずこの時から、多くの人々が、私をそう呼ぶようになった。
 
 レコード製作以外に私は、間断なく、国外からの芸能人を招いていたし、アニタ・ムイが、次第に人気が出始め、仕事も多くなっていった。華星レコードは、芸人管理部門をつくり、蘇孝良が、手伝ってくれるようにと頼みに来たので阿梅、および華星の新人の仕事を請け負った。私は、また、張國榮と、阿梅の海外市場の開拓を始めた。
 まず、香港の歌手は、台湾へ行き、國語のレコードを出すのだ。私は、当時の台湾の独立レコード会社である『滾石』を選び、ともに仕事をすることにした。(というのは、香港の華星にとって、台湾のレコード会社は、理想があり、勢いもあり、大変積極的で、いろんな新しい試みができるので気に入っていたのだ。しかしお金がたくさんあるわけではないので、スタッフも、大変に忙しかった。)
 以前にやってきた歌手達は、大変につらい思いをしていた。それは、香港の歌手の台湾での知名度が低く、なおかつ、テレビ局の演出家の権力が非常に大きかったし、当地(台湾)のマスコミが地元の歌手を擁護していたからである。宣伝に忙しいときは、食事の時間もなかった。(ほとんどは、お金の節約のためである。歌手がすぐに録音し、宣伝の撮影もインタビューもすませて戻ることを望んでいたので、時間を濃縮していたのだ。)

 ある年の端午節のこと、私は、張國榮に歌を歌ってくれと言う、テレビ番組からの電話を受けた。誰が予想できただろう、この番組は、なんと台北市から遠く離れた戸外ロケだったのだが、私達は、番組が終わり次第、飛行機で香港へ戻るつもりだったのだ。レコード会社は、一人の職員を派遣し、私達に同行させた。たどり着いたところは行き止まりだったので、もう一度、大変に長い道のりを行き、出演する場所に到着できたのだが、張國榮は、スーツにネクタイを締めていた。(こちらの歌手が、Tシャツに短パン、サンダル履きなどと、思いもしなかった。)それで、私達二人は汗びっしょりになりながらトランクをとりに行った。本当に、必死だった。

       <青山に無言の感謝>
 ついに準備ができ、随分待っていたのに、張國榮の出番が来ない。その職員は、演出家を促すことをしようともせず、私達は、ただ、放って置かれただけであった。 当時の人気歌手の青山が居合わせたのだが、私達の様子を見てやってきて、話を聞き、私達が飛行機に乗らないといけないことがわかると、すぐに演出家のところへ行って、私達を先にするように言ってくれたのだ。
 この出来事のあとで、連絡することはしていない。彼が、私達のことなど知らないとわかっていたからである。 しかし、私はこの計らいに対し、大変に感激しただけでなく、彼の威張ったところのない、誠意ある態度をすばらしいと思った。もしあなたの人生がまだ半ばなら、このような困ったときの助けこそ、本当に忘れがたい物である。
 17年経ったとはいえ、私は、青山が香港にやってきて出演するたびに、必ず、祝いの花を贈りつづけている。 彼の、その気持ちに対する感謝をこめて。 もし青山が、この『明周』を読む機会があったら、長年の、一ファンから贈りつづけられる花の謎がとけることであろう。
明報周刊1697号訳  
      <私が張國榮をひいきしていたという誤解>
                「爲イ尓鍾情」が、劉徳華をひどくおこらせた。

 <華星レコード>にいたわずか四年間(1983〜1986)に、私はだいたい30枚以上のレコードを作った。比較的印象に残っているものと言えば…、張國榮の『風繼續吹』、『一片痴』、『Monica』、『爲イ尓鍾情』、『夏日精選―全頼有イ尓』、『Stand Up』、『愛火』、梅艶芳の『心債』、『赤的疑惑』、『飛躍舞台』、『夢幻的抱擁』、『壞女孩』、『蔓珠莎華』、『妖女』  (以下略) などである。
 当時のレコードジャケットのデザインは、80年代の商業、及び芸術の方から見ても、全て、破格のできであった。私が特に好きなのは、梅艶芳の『飛躍舞台』のジャケットである。まず写真を撮り、絵を加え、一つの超現実的効果をあげている。とても独創的で、大変にカラフルで美しい。張國榮の『Stand Up』は、当時としては珍しい色彩で、生き生きとしており、ロックやバンド音楽の感じが出ている。
 その年、私はレコード盤に七色(赤・オレンジ・黄・緑・紫・白・そして黒)を使ったのだが、たくさんのファンが全色そろえたいと考えた為、レコードの売れ行きは非常に良く、当時の新記録となった。 彼の『爲イ尓鍾情』もまた、黒を使わず、白で、非常に美しかった。
     
         <劉徳華のレコード作りの停止>
 この会社は次第に軌道に乗り、企業化していった。そして、<華星>の親会社である「電視企業」が、行政管理や財務人員について取り仕切ることとなった。 レコード部は、その中でもすばらしい業績を上げ、たくさんの芸能人と仕事をするようになり、TVBの全ての芸能人が、この会社と、レコードをだす契約をしたのである。<華星>独自で新人を出してはいたが、「電視企業」は、私達の能力を全く考えず、チームワークを乱し、圧力をかけてきた。 私達は、「電視企業」の介入の元で、劉徳華、梁朝偉との契約をし、小田が、劉徳華の曲を作り始めたのだが、ある日突然、停止を命じてきた。それは、「無線」五虎である(劉徳華、梁朝偉、苗喬偉、湯鎭業、及び黄日華)が、ほかで、活躍したがったからだときいた。
     
         <一番好きなのは、『爲イ尓鍾情』ではない。>
 いろいろあって、後に私は<華星レコード>をやめたが、それから随分たったある日の食事中に、数人の記者達が、このようなことを言うのを聞いた。それは、私が張國榮を大事にしすぎており、本来劉徳華のために書かれていた『爲イ尓鍾情』を張國榮に歌わせ、それで張國榮の人気が出た為、劉徳華が私に対し大変に腹を立てている、という話であった。
 初めて、それを聞いたとき、私は唖然として、失笑を禁じえなかった。というのも、張國榮は、『Monica』の後すでに大変人気が出ていたし、たくさんの良い歌があったから、他の人のための歌を奪う必要などなかったからである。 それに、『爲イ尓鍾情』というレコードの中で、私が一番好きなのは、かえって、『我願意』であり、『不羈的風』、『第一次』、『少女心事』、そして、『痴心的我』などである。『爲イ尓鍾情』が首歌になってはいるが、私は比較的、ゆっくりと演奏される曲は嫌いであるし、テレビで放送する利点もない。この曲をメインにしたかったわけではなく、この曲名がとても良かったからに過ぎないのである。
 私はまだ小田に、このことを確かめてはいないが、当時の私は、濡れ衣をはらそうとはしなかった。ある記者が、劉徳華に説明したらどうかと言ってくれたのだが、その必要はないと考えた。これは事実なのだし、彼が信じなくても、説明のしようがないからであった。
 この事を書こうと思ったので、数週間前に張國榮に尋ねてみたところ、彼は、こう言った。
 小田が、デモをアンディに聴かせたのだが、会社がアンディのレコードを出すのを無期限に延期した為、アンディのために書かれていた曲は、華星の他の歌手達に回されることになったのだそうだ。この歌は、小田が彼を選んで、録音するようにしたのだそうである。
 真相は明らかになった。アンディには当時の事情を理解し、もう気にしないようにして欲しい。多年にわたり、無実の罪を着せられていたことをわかってもらわないといけないのは、私の方なのではなかろうか。
<明報周刊 1698号訳>
    今回は、張國榮関連部分のみの訳です。
  
     張國榮は、新会社設立を支持してくれた。
 大志を抱いて都会に出てくる若者がたくさんいるけれど、じつは、その頭角をあらわす為には、条件があるものだ。 本当に凄い人気を得る為には、天のめぐり合わせによるチャンス、場所の有利さ、そして、人とのつながりがいる。そしてまた、その本人が努力して、新しい物を取り入れていくかどうかが、成功への第一条件なのである。
 「華星」にいた日々は、私の最も楽しく、懐かしい物であった。陳慶祥先生は、私を非常に信頼してくれ、いろんな事をまかせてくれていたのだが、RigoとDavidが相次いで「華星」を離れた後、陳慶祥先生も、「電視企業」や、そのほかの会社の管理をされなくなり、人事や制度が変わったので、私もこれ以上とどまる気持ちがなくなったのだ。
 それで、1986年末に、私は「華星」を出て、「恒星娯楽有限公司」をつくった。勿論、長年一緒に仕事をしてきた芸人達を捨てるのが、惜しくなかったわけではない。 しかし私は、「華星」の管理している芸人達を引き抜く気はなかった。それは、彼らが、「華星」が発掘して育てた人達だと認めていたからで、これは、ずっと、私の通してきた原則であった。
 だが、張國榮は違う。彼は、「華星」とは、ただレコードを出す契約をしていただけであり、私達はいつも一緒に仕事をしてきたのである。契約が終わったら、私の創業を応援したいといってくれたので、大変に感激した。というのも、当時、彼は大変な圧力をかけられたのにもかかわらず、私とコンビを組むことを選択してくれたからだ。新会社の開業前に、用があって、私は一人で数周間香港を離れたのだが、その間、「華星」と「電視企業」は、ありとあらゆる手を使って、張國榮をとどまらせようと画策した。張國榮の親しい友人達を使って、思いとどまるように働きかけたので、大変多くの「後遺症」があったことだろう。
 本来、「恒星」は、マネージメント、コンサート、そして、音楽版権以外に、レコード部門にも発展させるつもりであったのだが、張國榮に、この「後遺症」的圧力がかかるのが気がかりであった。私は、張國榮がすでに十分なほどの義侠心を出してくれていることを思い、強権を恐れたわけではないが、彼にこれ以上の心理的負担をかけないように、レコード部門を作るのを棚上げにした。そして、当時たくさんあったレコード会社の中から、「新藝寶」を選んだ。というのは、彼らの出した条件が比較的良くて、私達に大変自由があったからである。
 最初の歌、「無心睡眠」は、日本の船山基紀に編曲を頼み、あわせて、張國榮が東京音楽祭の時にゲストで歌うことができるように手配した。そして、この番組の中で、はじめて全世界にむけて出演できたのである。 「無心睡眠」で出演する前の二日間に、日本で録音し、ジャケットの撮影もすませ、数人の親しい記者に、張國榮の出演と、レコードを出すことを報道してくれるように頼みこんだ。
 出演の翌日、陳小寶(当時の「新藝寶」の総経理)が飛行機でやってきて、自ら「無心睡眠」のテープを持ちかえり、すぐにテレビで放送してくれた。彼らの手助けと支持により、この歌はすぐに、ヒットチャートの上位に上がったのである。「Summer Romance」は、「新藝寶」との合作第一号のレコードであったが、私達にとっても大変重要なものであった。このレコードの売れ行きは非常に良く、私達を大変に勇気付けてくれたし、はじめての成績としては、まぁまぁのものであったのだから。   …後略…
    (あとは、羅文さんが、子供っぽくて、変わってるという話です。たとえば、みんながベンツを欲しがっているときに、古い英国のタクシーを買ったという話とか、ホンハムの楽屋で、おとなの男3人でつばの掛け合いのけんかをしたとか。)
<明報周刊1699号訳>
 
    張國榮は英文のレコード名がずっと使われた。
 「恒星」と、「新藝寶」に加盟した後、張國榮の芸能活動はさらに発展した。レコード売上も非常に多く、『Summer Romance』の中で、「無心睡眠」以外にも「共同渡過」「拒絶再玩」「多句了」「イ尓在何地」「倩女幽魂」など、多くのヒット曲が生まれた。『Virgin Snow』では、カナダの景色 をジャケットに使い、張國榮のはじめての作曲による「想イ尓」、そして「熱辣辣」「最愛」「愛的兇手」「雪中情」「奔向未来日子」、そのあとの『Hot Summer』の中の「繼續跳舞」「貼身」そして、サミュエル・ホイとの合作「沈黙是金」、船山基紀編曲による「Hot Summer」「無需要太多」などである。私は特に「側面」の表紙が好きだ。白黒で、彼の輪郭を非常に美しく撮影してある。簡単そうに見えて、実際は値の張るものだった。
 1989年、LESLIEは芸能活動から引退したいと言い出した。『Saluto』を出し<お気に入り十曲>の一つに選ばれたことで、芸能界に別れを告げる気になったのである。彼の気持ちはすでに決まっており、私達は最後のレコード『Final Encounter』を出した。その中には彼の別れの気持ちを書いた作品「風再起時」が入っており、これは演唱會の最後の曲として準備していた。

1989年12月21日から1990年1月22日までの33日間、紅館で行った演唱會のCDとLDが、最後の作品となった。みなさんは「新藝寶」で出したレコードが、どうして全て英文名なのか気になったことはないだろうか?これは、「占い」をしたわけではなく、『Summer Romance』が順調に売れたので、それにちなんで、その後のレコードは全て英文名にするようになったのだ。
  
  <祝宴を心をこめて計画>
マイクを置いたとき、たくさんのファンが泣き喚き、やめないでと叫んだ。私は彼の為にそれを喜ぶ一方、ついにこれで長い間のプレッシャーが終わりにできると感じていた。場内は悲痛な雰囲気に包まれていた。しかし、演唱會終了後も、私の仕事はまだ終わらないのだ。祝宴の場所を選び、客のリスト、席、メニュー、内容、警備、駐車場など、時間をかけて計画した。
 まず、祝宴会場の近くのホテルの一室を予約し、張國榮に風呂を使わせ、着替えをさせて、何か食べさせておく必要があった。彼が祝宴のケーキを切り始めたとき、私は「友誼萬歳」の曲を選んでかけた。これまでに何回も聴いたことがあったのだが涙が湧き出てきて、客もまた感動していた。それなのに当の張國榮は、ケーキを切り、客と話した後で私のところへやってきて、「音楽を止めろよ、うるさいよ」と言ったのだ。彼は、その曲を聴きたくなかったのか、気分を変えたかったのかもしれない。しかし、私はその時本当に腹が立った。
 張國榮の芸能界での活躍は歌だけではなく、映画にも広がっていた。良い監督にも恵まれ、当時、呉宇森、黄百鳴、關錦鵬、徐克など、みな彼を気に入っていた。そして、ペプシコーラの広告に、アジアスターとしてまっさきに起用され、その年、ペプシの賛助コンサートも開かれたのである。
    
 <広告熱高まる>
 香港や東南アジア以外でも、韓国のチョコレートの広告に出たりして、広告熱が高まった。これはまた、韓国でのアジアの芸能人を使った初めての広告で、映画のような手法で撮影され、上下に分かれていた。はじめの分が街に出た後、たくさんのファンがテレビ局に投書したので、続編が作られることになったのだ。このときにLESLIE自ら、英文の歌詞の曲「To You」を書き、後に國語の歌詞がつけられて「天使之愛」となって、人々を感動させたものだ。 彼が広告に出たことにより、チョコレートの売上が300倍以上となり、広告業者は、さらに広告を撮影しようとしたが、楽壇引退後一ヶ月、張國榮は撮影を望まず、多くの人をがっかりさせた。
  
   <楽壇を引退した原因>
 張國榮は、実は一年以上前から私に引退のことをほのめかしていた。主な理由は多大なプレッシャーであった。山口百恵のように人気が最高のときに引退して、永遠に人々の記憶の中に残りたいという願いと、もう一つは、アラン・タムのファンだと自称するものから葬儀用の飾りやろうそく、お香などを贈られた事件がひどく彼の心をおびえさせていたことによる。
 当時、私は彼がまだ芸能界を続けるなら、海外に出て、国際市場で活躍することができると考えていたのだが、力及ばず、彼の願いを尊重するしかなかったのだ。
 しかし、私は、彼の告別演唱會の宣伝に、特に「楽壇」の二文字を付け加えていた。これは、彼がまだ若く、その後考えを変える事ができるようにと、考えたからである。歌手活動は別としても、芸能活動は放棄して欲しくなかったのだ。
<明報周刊1700号 訳>
  
    梅艶芳は、私が張國榮を偏愛しているとうらんだ。
  80年代、香港のテレビドラマが海外で歓迎されるようになったので、たくさんの芸人が、シンガポールやマレーシアなどに行くようになった。出演する場所は普通小さいところで、大半はナイトクラブであった。これは、大部分が伴奏のテープを使ったり、当地のバンドを使ったので、準備が比較的簡単であった。東南アジア以外でも、ヨーロッパやアメリカ、オーストラリアなどへ行くようになった。そのころは、外国へ行く機会が少なかったので、バンドやダンサーを募集するとすぐに集まり、みんな報酬など気にせずに外遊気分で出かけた。今はもう、新鮮味もないためか、要求ばかり多く、昔とは大違いである。
 
     <一組のいいライバル>
  はじめの頃、私達は張國榮と梅艶芳が一緒にステージをつとめるように手配していた。この一組の良いライバルは、普段は敵同士だが、突発事件が起こると、互いに上手く助け合っていた。英国の劇場に出演したときのことだが、もう時間がないのに、音響が悪いといって、張國榮がマイクを放り出して舞台裏に戻ってしまったことがある。それでまず、梅艶芳に挨拶をさせて、みんなで説得していると、梅艶芳が口添えして、「音響はすぐに良くなるわ。今もそう違いはないから大丈夫。」といったので、張國榮は、舞台に戻る気になったのだった。
 また別のとき、マレーシアのナイトクラブで梅艶芳が歌っているときに、酔った客がけんかをはじめ、さらに、ステージに上がってアニタと一緒に歌うと騒ぎ出したのだ。すると、LESLIEはすぐに走っていって、彼女を助け出し、かわりにその晩のステージをつとめた。二人は、本当にいいコンビだといえるだろう。十数年前にオーストラリアに行ったときが、一番楽しかった。私達は シドニーのホテルに泊り、出演の日とリハーサルの日以外は、毎日いろんな名所に行ったり、観光をしたり、美味しい物を食べたりして楽しんだものだ。
 
     <アニタは、よく不平を言った>
  ヨーロッパに行ったときのことだった。私は主催者に、芸人とスタッフのホテルを別にしておいてくれるように頼んでいた。実際、この方が世話をするのに都合がよいのである。ところが、到着してから、アニタがみんな同じホテルが良いと言い出した。私の出発点は、ただ、芸人の為を思ってなのだが、なかなかわかってもらえなかった。
 いろいろあって、私はDavidに、しばらくアニタの世話を頼み、私は張國榮の世話をして、二人ともが困らないようにしたのだが、香港に帰ってから、アニタが私のことを偏愛だと恨んでいると聞いた。LESLIEだけを管理して、自分のことは軽視していたというのである。 私は二人とも可愛がっていたと言うのに、偏愛だなんて。
 しかし、これは私の失敗であった。全体的に見てみれば、みんなを和やかに過ごさせることができなかったのだから。今のアニタはすっかり成長して、二人の歌手のマネージャーもしている。彼女はきっと、当時の私のやり方を理解してくれていることと思う。

    <二人のボスの対立>
 また別の時のこと。張國榮とアメリカに行って、二人のボスの争いの巻き添えを食ったことがある。当地の主催者は、本来熱心なはずなのに、私達が到着してからも、二、三回しか現れなかった。実は、相手方がやってきて、私達をおびえさせることがないように、接触を少なくしていたのであった。
 その日、私は彼と一緒にshowを見ていたのだが、真相がわかったのはカナダに行ってからであった。なんと、アメリカでのショーの当日、主催者は相手の襲撃を恐れ、それを防ぐ為に劇場の内外をたくさんの部下に見張らせ、大量の武器を隠していたのだった。彼らは、私達には何も言わなかった。わかると、みんな怖がって逃げ出すからである。 銃弾が飛び交う中で張國榮が歌うシーンなど、映画の中でしか出現しないはずではなかろうか?
<明報周刊1702号の訳>
  林建岳が、私と亜州電視を結びつけた。
        大きな写真の説明
この夜は、意義が大変に多かった。まず第一に、「恒星」の新株主である林建岳と、鄭家純氏の紹介。第二に、張國榮のための誕生日祝い、そして、羅文の加盟のお知らせであった。

 1989年は、私にとって、一つの大転機となった。張國榮以外に、私のところにいたタレントは、陳潔靈、羅文、肥姐、草虫孟、林志美、柏安女尼、麥潔文、利智、温碧霞、王虹などであった。肥姐のようなタレントは、私とサインを交わしているとは言っても、実際はただ形だけであった。当時、肥姐は、すでにカナダに移民しており、私は香港での事務的なことをするだけだったのだ。
 一人のタレントを管理するということは、ただ、彼らの出演の機会を見つけてくるだけではなく、彼らの潜在的能力をのばすきっかけをつくることでもある。 当時、柏安[女尼]は、美しいだけではなく、教養のあるタレントであった。それで、映画出演以外に、私は彼女に特別出演をさせた。たとえば、張國榮の演唱會のゲストや、東京音楽祭のゲストなどである。(このとき張國榮は、彼女のイメージデザインを担当してくれた。)
 ただ残念なことに、当時、女性タレントの活躍の場は少なかった。私は、彼女の学術的な才能がとても高いものであると思っていたので、そちらの方面に時間を使うようにと、励ました。今考えてみても、彼女の選択は正しかったと思う。
 
 その年私は、無線の高層人員(お偉方?)を怒らせたのかどうかわからないのだが、ぼんやりしている間に、彼らのボイコットにあってしまった。表面上はいつものように談笑しているのに、裏では、私の事務所のタレント達に、私との解約を説いて回っていたのだ。 正直なところ、無線は当時勢いがあり、そして、タレントもたくさん抱えていたのに、私の事務所のタレントは、一年に、おおくても一回か二回、出演するだけであった。 このような状況の中で、彼らの圧力や矛盾が増加していき、進むことも退く事もできなくなっていったのだ。
 ちょうどその頃、林氏と鄭氏が当時の亜州電視に入り、タレントや、スタッフのみんなに新しい希望がわいてきた。みんな、合理的な待遇を得るチャンスと期待した。その年、亜州電視は、一つの里程碑を築き、時代を変えたのである。
 しかし、無線には潜在的競争力があり、林氏鄭氏の方も電視台の仕事から離れ、純然たる出資者に変わって行った為、私達のはじめの、『共に仕事をする意義』が、次第になくなっていった。 それから、いろいろなトラブルもあって、その後私は、今の「天星娯楽有限公司」を成立させることになったのである。

       中央下の写真;
この一年、陳太は柏安[女尼]を東京音楽祭にゲスト出演させることにした。彼女の歌や踊りに加えて、張國榮のイメージデザインが加わり、彼女はこの夜、注目を浴びた。