1998年5月

キューバの農地政策

 私たちは、夜明けの薄明の中を、ハバナからそっと出発し、サンタ・クララ(Santa Clara)へと南東に走るコンクリートの8車線の高速道路、アウトピスタ・ナシオナル(Autopista Nacional)を下っている。ドライブはとても軽い。

 最初の30分で、数人の自転車乗りと二度ほど、縁を重い足取りで歩く牛の荷車と出会った。シエゴ・デ・アビラ(Ciego de Avila)への450㎞の道すがら、私たちはおそらく100台のトラックやバスは追い抜いたであろう。

 一度だけ、忘れられないのだが、どんよりした目をした大きな牛の頭が血だらけのしみを路傍に流し首から切断されていた。約10m前には昨夜それと衝突したに違いない大きな古いトラックがあった。だが、肉が不足しているキューバでは、死骸が既に姿を消していた。

 私は、移住した米国人ミノア・シンクレア(Minor Sinclair)と彼の妻のマーサ・トンプソン(Martha Thompson)とともに旅をしている。彼らは、キューバでオクスファム・カナダの現場ディレクターとして働いている。オクスファムは、キューバとプログラムがある数少ない海外NGOのひとつである。キューバは海外からの寄付者との関係に対して用心深い。政府間双方のプログラムがあり、EUやUNDPとのプログラムもあるが、海外NGOとのものは稀である。そして、運営にあたっても多くは許されず、支部を設けたり、人を雇用したり、オフィスを設けることは反対される。ミノアとマーサは自宅で働いている。

 私たちは、シエゴ・デ・アビラ周囲の豊かな農地で、オクスファムが支援している農業協同組合のいくつかを訪れるために行く途中である。  革命政権が大規模な農地改革に着手した後、外国に所有されていた土地はことごとく国有化され、大規模な砂糖プランテーションや放牧場は国営農場に転換した。最近まで、キューバの農地の80%は大規模国営農場の形態におかれていた。  最初の農業改革法は、26haの土地を求めるどんな農民にも自由に与え、10万人以上が自分たちの土地を手に入れ、農村での新政権の人気をあげた。1963年には、個人的な所有は67 haまでと限られ、約5分の1の土地が小規模な自作農の手にいった。土地の半分は協同組合に組織化されたが、残りの半分は自営農家のものとして残ったのだ。

 協働組合とは、農民たちが共同で土地を管理し、働くもので、CPA(Co-operativas de Producción Agropecuaria)として知られている。それ以外には、CCS(Co-operativas de Credito y Servicios)として知られるクレジット・サービス協同組合がある。農民たちは独立しているが、投入資材や機械を共有するために団結するのである。

 ソ連とは異なり、キューバの農民たちは集合農業を強制されることはなかった。協働組合化が、国により奨励、支持されてきた。例えば、建築材料がそれら自分たち自身の家を建築するには、CPAのメンバーは低利の資金を得ることができる。だが、それはボランタリーなものだった。

 そして、そのことが、独立している農民や協同組合がキューバで現在、最も効率的で生産的な農業者となっている理由でもある。彼らは全農地の20%を耕作しているだけだが、国内で生産される全食料の40%を生産していると評価されている。

 ミノル氏と私は、最初にレオナルド・ベニテズ・マルチネス(Leonardo Benitez Martinez)の家を尋ねた。彼は、シエゴ・デ・アビラからそれほど離れていない5,000人の村落でマノナル(Mamonal)にあるCCSの組合長である。オクスファムは、有機農法のトレーニング資金を援助しており、マノナルのCCSがトラクタ用の新しいタイヤを買うことも援助した。

 私たちがレオナルドの家に近づくにつれ、家族はちょっと困惑してあわてた。私たちがたどり着くちょっと前に突然の雨がふって、テラスの上で乾かしていた数個の米のバッグが居間に動かされていたのだ。雲は通りすぎ、椅子が急いで、外に出された。

 レオナルド氏は、1987年に心臓病を患い、ハバナの病院で3カ月を過ごしたことがある。

「私は首都の最も良い医師がいる最高の病院にいました。そして、全部が無料でした。それは私たちの革命の最もすばらしいもののひとつです」

 レオナルド氏は当時のことを振り返る。氏は椅子でくつろぎ、破顔一笑する。そして、自分の農場について話した。氏は6.5 haでほとんどトマトを栽培しているが、自家消費用に米、とうもろこし、豆、その他様々な根菜作物も植えている。その地域の他の農民と同じく、氏の生産も1990年代前半に供給が一夜ですっかり干上がると急速に落ち込んだ。

「1989年には、私は1,500キンタール(quintales=45.36㎏)(68トン)以上のトマトを育てていました。ですが、1993年に管理したのは全部で970キンタール(44トン)でした。それは主に、コナジラミによって運ばれたウイルスのせいなんです」

 殺虫剤がない中、レオナルド氏や隣人たちの収穫は害虫被害を受けた。

 レオナルド氏は私を彼の土地に連れていったが、そこでは、足首まで泥の中に埋まって労働者たちがトマト苗を植えていた。氏は説明する。

「家族と私は、ほとんどほ場で働いています。ですが、私たちは、収穫や植え付け時に助けてくれる人々にお金を支払う必要があります。そして、時々、他の家族と仕事を交換しあいます。私は、自分の土地からはるかはなれた角で牧草を食む牛について言っています」

 そして、彼は「スペシャル・ピリオド」の間にタイヤ、スペア部品とガソリン不足のため、遊んだままになっているトラクタの代わりをするため、牛が島全体で再び現れたと私に言った。

 レオナルドの隣人、ペドロ・ゴメス(Pedro Gomez)氏もCCSのメンバーで、現在、外は真っ暗で、私たちはペドロ氏の応接間に座っている。

 氏は 61歳で、足の具合が少し悪いが、訪問客があることを喜び、とても話したがっている。蛍光灯のほのかな輝きが、磨かれたセメント床を見せ、上では伝統的なかや葺き屋根が露出している。

 ペドロ氏は、タバコ、トマト、マメ、キャッサバと米を27 haを植えていると説明する。

 協働組合のメンバー全員は、農業省と契約関係を持ち、事前に決められた価格で農作物の一定部分を国に販売しなければならない。政府との契約はプランと称されるのだが、あらかじめ設定され、交渉する余地はほとんどない。ペドロ氏は言う。

「私らは、割り当て量と作付け量に応じて、資金や投入資材を得ます。割当量内なら、キンタールあたり8ペソが支払われますが、割当量を超えれば、12ペソ稼げます。ですが、自由市場で余剰農産物を販売することもできるんです」

 政府のリストラ政策は、徐々に補助金を削減することを意味するが、それは慎重にしなければならない。さもなければ、ペドロ氏のような農民は金欠病にかかってしまうだろう。氏は、昨年には肥料一袋が3ペソであったと言う。今年は9ペソだ。実質コストの10分の1以下であるとはいえ、主にペソで支払われる農民にとっては大きなジャンプである。

 ほとんどのラテンアメリカ諸国とは異なり、キューバには、カンペシーノの伝統がなかった。海外から支配されたプランテーションで、ほとんどの農民は小自作農というより、むしろ季節農業労働者だった。

 革命後の巨大な国営農場はそのモデルの上に構築された。ソ連から気前が良い援助で、キューバはハイテク、エネルギー集約型の農業を発展させ、ソ連が、資金を投入し続ける限りは、国営農場はそこそこに生産性があった。だが、その柱が取り除かれると、それらは、何であったかのかを明らかにする。巨大にして、非効率な下水の落し口だったのだ。キューバの計画者たちも何年も前からそのことをわかってはいた。だが、莫大な補助金があることもあり、それについて何かを行うインセンティブはほとんどなかったのだ。問題は、経済的でも構造的でもあった。

 まさに、国営農場の従業員たちは、農民ではなく労働者で、歴史的にも彼らの賃金は国内でも最も低かった。国が運営する工業的農業は、中央集権化され、厳格でヒエラルキー的だった。労働者たちは、労働の成果からは切り離され、農業を自分で管理しなかった。生産的になるための物的、精神的なインセンティブが少ししかなく、彼らは生産的ではなかったのだ。

 1990年代前半、政府は昏睡状態にあった国営農場を目覚めさせるため、一定の土地の耕作に全面責任を取らせる小規模な労働チームを設立することで、「人民と大地との結び付け」と称されるプログラムを導入する。賃金は、生産と直接に結び付けられた。

 そして、1993年9月、政府はさらなるステップを取る。国の農場は解体され、労働者たちは、UBPC(Unidades Basicas de Producción Co-operativa)へと集まるよう奨励されたのだ。UBPCの編成は、キューバ農業で革命以来の最大の変革である。

 土地は、利用権の形で、国営農場の元従業員に無料の地代で貸し出される。もし、土地が有効活用されないならば、それは国に戻される。そして、メンバーは国が所有していた道具、機械、そして建物をすべて引き継いでいる。

 UBPCは、面積的には広い傾向があるものの、以前からあるCPAと同様のものだ。生産物は、農業省により、指示されてはいるものの、自己管理され、経済的にも自立している。今では、ほとんどの国有地が、UBPCに転換しており、約5,000かさらに多くが、転換途中にある。現在、国営農場は5年前の80%から、いまは全農地の4分の1だけをコントロールするまで減った。

 この労働者たちが管理する協働組合のモデルが食料生産を高めたことには疑問の余地がない。とはいえ、転換はけして完全なものとはいえないし、問題もある。その主な問題は、国営農場そのものの中央集権的な管理の遺産である。にもかかわらず、新たな自己管理のモデルは、うまく行っているように思える。

 国営農場を公的資金から切り離すことは、1993年以来、赤字をGDPの33%から2%まで減らす一助となった。補助金を提供する代わりに、政府は、そこから将来的には税金を取り立てることを望んでいる。

(オクスフォードにあるNew Internationalistからの記事)
 Linking people to the land:From state farms to co-operatives, cogs in the wheel to self-management,1998.

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