1998年2月21日

キューバ母なる大地へ転換

 40年に及ぶ共産主義の後、キューバは不承不承ならがも、革命ではない、そして、もしかしたら、もっと大成功であるかもしれない新たな実験-有機農法を前進させている。

 カタストロフィックな経済危機により、政府は変革を強いられたのだが、それがキューバ人を生き延びさせ、広範な飢餓の恐怖を取り去ったのだ。ハバナの町中から国全体の農地にいたるまで、キューバは超環境主義となっている。ラテンアメリカで最も機械化が進んでいた農業が、世界最大の有機農業・準有機農業の地へと転換している。厩肥が化学肥料の代わりとなり、天敵昆虫が農薬の代わりとなり、牛がトラクターに取って代わった。そして、新たな農地改革で、大規模な国営農場のほとんどが解体され、その労働者には土地が与えられ、経済原則で運営される革新的な協同農業組合体制が創出された。そして、こうした転換が、ソ連倒壊後の経済崩壊からキューバを回復させつつある。

 ソ連からの援助や供給が終わったため、農薬や化学肥料の供給は80%以上落ち込み、燃料や交換部品も50%以上減った。このため、キューバの農業生産は1990年から1994年にかけ、半分近くも落ち込んだし、キューバ人たちの摂取カロリーや蛋白質摂取量を三分の一も減ってしまった。いまだにキューバは、経済的な締めつけを受けており、世界市場から農業資材を買うことができない。

 だが、有機農業への転換が、この農業生産の落ち込みをほぼ完全に逆転させている。この努力の先頭に立っているのは、例えば、エリベルト・ガラート(Heriberto Gallart)氏のような人々だ。エリベルト氏は、以前はハバナ大学の教育学の教授だった。だが、「仕事で得られる給料では日用品さえ買えなくなったので、仕事をやめたのです」と語る。氏はキューバで新たに誕生した人種、都市有機菜園者たちの一人なのだ。

 1994年の後半に、氏とその家族は、ハバナの住宅地区で0.8ヘクタールほどの菜園を借りた。以来、集約的な有機農法で20種の野菜やハーブを育てている。政府は、以前はゴミ捨て場だった土地を氏が使うことを許可し、農具や種子、その他の資材も提供した。そして、農業省の農業普及機関が、氏が園芸の才能を伸ばす支援をした。

「これは、まさに私がやろうと望んでいたことなんです。家族も私も前よりずっとよく暮らしてますし、近所の人々も廉価な食料を手に入れているのです」。

 エリベルト氏はこう語るが、氏やその家族は、農産物を畑の縁にあるストリート・スタンドで直売している。ハバナには、全国の農業協同組合や個人農家が生産した農産物を販売する資本主義スタイルの食品市場、農民市場があるが、エリベルト氏が売っている農産物の価格は、それより3分の1ほど安い。だが、少なくともキューバの賃金からすれば、これは儲かっており、氏は、彼の家族が菜園から月あたり550ペソを得ていると言う。それは、約25ドルに相当し、キューバの平均賃金の二倍である。

 変革は国全体にわたって、劇的なものとなっている。例えば、1991年以来、2,000ヘクタールに及ぶ27,000以上の有機菜園が、ハバナ首都圏で創設され、年間に100万トンにもなる食料を生産している。菜園は、菜園者の自宅の隣にはないとしても、たいがい同じ地区内の空き地や未利用地にある。農村では、1993年に、政府がキューバ農業の80%を占めていた大規模国営農場を解体する決定を下したことで、こうした農場のほとんどが、利益追求型の協同組合に転換している。結果として、1997年の収穫期には、国内の10~13の主要農産物でこれまでの生産水準の最高記録を出した。こうした改革と平行して、米ドル所有も法制化される。そして新しい協同農業組合は、国と契約した量を満たせば、余剰農産物をすべて、新たに創設された農民市場でドルで販売することを許可されている。

 また、キューバ政府は、有機農業を野心的に推進しはじめ、何百人もの農学者たちにその仕事を割り当てた。益虫や天敵を生産するために200以上の工場が創設され、専門家は、この政策転換は貧しい国にとってだけではなく、米国にとっても良事例になると語っている。

 例えば、オークランドにあり、フード・ファーストとして知られる食料と開発政策研究所の代表、ピーター・ロゼット氏はこう語る。

「キューバの有機農業への転換は、通常はそれしか適用できないと考えられているモデルを開発途上国が導入しなくても良いことを示しているのです。キューバの実験は、オルターナティブ・テクノロジーをベースに、化学合成農薬を使わずに小規模な農業モデルで全国民を養えること。そして、そうすることでもっと自給的になれることを我々に告げているのです」。

 フード・ファーストは、キューバの有機部局と様々な局面で協働し、米国の有機農家との交流プログラムも立てている。

 この変化は、カリブ地域最大の都市、国内人口の5分の1、約230万人が住むハバナで最も重要である。歴史的にも市内では食料が事実上生産されてこなかっため、首都の住民が1990年代初期の経済危機の打撃を最も厳しく受けたのだった。ピーター・ロゼット氏は、ここ数年、何度もキューバを訪れているが、その変革が目にできると語る。

「1993年と1994年には人々は痩せ細り、ほとんど衰えきっていました。ですが、今は誰もが多かれ少なかれ体重も平常に戻って、太鼓腹になっている人すらいるんです。もちろん、まだ問題はあります。例えば、新たに結成された協同組合農場の生産性には、とてもバラつきがあります。ですが、都市の農業者たちや新たに土地を手にした小規模農家が、経済不況を大いに引き締めているのです」。

 都市菜園は、経済危機により生じた生き残りのための必死の日々の戦いにひどく打ちのめされたコミュニティに、新たな意識も醸成している。燃料不足は、再生エネルギー資源への転換を引き起こしたし、原発建設も中断している。風力、ソーラー・パネルとバイオマスによる発電が増え、ごくあたりまえのものとなっている。国内の精糖工場は現在すべてサトウキビの廃棄物を燃やすことで稼動している。それに加え、自転車革命もキューバを席巻している。政府は最近、中国から100万台の自転車を輸入したが、ハバナや他の大都市では、自転車で混みあっていることが一目でわかるのだ。

 キューバで新たに芽生えたエコロジカルな意識にとって、唯一危険なものがあるとすれば、それはキューバに対する米国の経済封鎖が弱められる可能性だろう。キューバの有機農業を支援する人々の中には、「もしも経済封鎖が弱められたら、キューバが部分的にであっても、従来の化学集約的な農業に戻り、海外から食料をまた輸入し始めるのではないか」と懸念しているものもいる。だが、ワシントンのカストロに対する激しい反感からしても、ここしばらくは、この予想はありえそうもなさそうだ。つまり、ここ当面は、キューバは、自らは望まないとしても、マルキシズムによってではなく、環境主義において世界のリーダーに留まる運命にあるように思えるのだ。

(サンフランシスコ・クロニクルというニューズレターからの記事)
 Robert Collier, Cuba Turns to Mother Earth With fertilizers and fuel scarce, organic farming is in,1998.

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