1999年9月

キューバの有機への転換経験

 1989年、キューバは史上最悪の経済危機に直面した。この危機は、その主な貿易相手国であったソ連やその東圏同盟の崩壊に続いたものだった。その上、キューバの農民たちは、引き続く米国によるキューバの輸出入の経済封鎖に苦しめられた。キューバは食料と農業投入ともに、その貿易量の85%を失った。農薬と化学肥料の輸入は80%落ち込み、石油供給は半減された。食料輸入も50%以上も落ち込んだ。結果として、キューバは深刻な食料不足を経験したのだ。

「キューバでは誰もが、食料の大幅な削減に直面しました。そして、その食事を突然に変えなければならなかったのです。危機は、全人民の日々の暮らしに影響したのでした」。ハバナにあるマルチン・ルーサー・キング・センターのエスタール・ペレス(Ester Perez)さんはこう語る。

 国家はただちに食料危機に応じた。キューバは、全国規模で、大規模な工業的な農業から小規模な農業への転換をはじめたのだ。家畜が重農業機械を代用し、化学肥料は、堆肥、厩肥、間作、輪作といったオルターナティブな土壌管理手法に取って代わられた。化学農薬の多くは、微生物と植物性農薬に取りかえられた。

 伝統的な古農の技が見直され、キューバは、旧式の農法を再び学んだ。多くの農民たちが、サツマイモとトウモロコシを同じ畑に植えるといった伝統的な農法に戻った。また、その転換は都市農業の促進政策も含んでいた。消費者の近くでの食料生産は、輸送コストを引き下げた。

 キューバは、食料生産の水準を維持するため、化学的でない解決策を見出すことに、そのよく訓練された科学者集団と農業省の全力を注いでいる。今では、キューバは、生物農薬の分野では世界に先駆けており、200以上の小規模な工場が地元の農民たちに、安全な農薬を生産している。

「たとえ、ごくつつましい資源しかなくても、ひとつの政府が完全に持続可能な農業を支援できたということは、まことに驚きものです」

 フード・ファーストのマルチン・ボルクエ(Martin Bourque)氏はそう語る。氏は、持続可能な農業を視察するための多くの派遣団をキューバに送っている。

 最も重要な改革の一つは、多くの大規模国営農場を解体するというキューバ政府の決定だった。1990年以前は、農地の約80%は国営農場だったが、今では、こうした農場の大半が小規模な労働者が所有する協同組合農場へと分割され、農地の77%を占めるに至っている。労働者たちは、国に廉価の賃借料を支払う見返りとして、土地の永久利用権を手にしている。

 協同組合農場は、主要作物の生産割当を満たさなければならないし、同時に、国家配給システムやその他の補助金を上乗せした食料配給に農産物を供給するという契約も果たさなければならない。だが、その後は、協同組合農場は、余剰農産物を地元の農民市場で、一般市民に自由に販売できるのだ。そこでは、価格は政府によってではなく、需要と供給によって決まっている。ハバナのエウヘニオ・フステル(Eugenio Fuster)都市農業局長によれば、このこともあいまって、キューバでは、農業が最も所得を稼げる職業の一つになっているという。以前に農場から出て行った子どもたちが、いま手助けのために戻ってきている。なぜなら、子どもたちは、農業を、価値があり、かつ、経済的にもやっていける職業として見ているからだ。

 キューバは、化学的農業から有機農業へと大規模な転換を実施した世界で最初の国だろう。変革は容易なことではなく、克服しなければならない課題もまだある。キューバは、1989年の危機以前と同じだけの食料を生産しようといまだに苦闘している。とはいえ、その困難にもかかわらず、キューバは持続可能な農法を用いて、高額な輸入石油やその他の化学資材に依存することなく、その国民に食料を供給する方法を見いだしているのだ。

 キューバの転換は、国家や人民が達成できることの一つの例だ。今、多くの国々が、深刻な経済問題を抱え食料不足に直面している。キューバは、たとえ、国が経済危機に直面しても、首尾良く方向を変えることができることの証となっているだ。

Harvey Harman氏は、米国ノースカイナ州で有機農場を経営しているが、ごく最近、キューバへの農業視察ツアーから戻った。

(カナダのNGO、発展途上国のラジオ・ネットワーク、ボイスからの記事)
 Harvey Harman, The Cuban experience: the transition to sustainable organic agriculture,1999.

Cuba organic agriculture HomePage 2006 (C) All right reserved Taro Yoshida