1999年12月


■はじめに

 ソ連との市場関係が崩壊し、キューバは近代的で集約的な農業を行う上で不可欠な化学資材や機械類を輸入することが、実質的にできなくなった。だが、そのかわりにキューバは、その土地の大半を有機化するという方向に農業転換を図る。そして、結果として「有機農業が非効率である」という神話をひっくり返したのだ。

 フィデル・カストロが権力を手にすることになった、1959年のキューバ革命は、キューバ近代史の中でも、将来性がある出来事だと考えられている。だが、ソ連圏崩壊に伴って1989年から始まった革命は、静かな出来事であるとしても、これと同じく重要である。

 1960年代の初頭、新たなキューバの革命精神を打ち砕くため、米国が史上最大の経済封鎖を試みたため、カストロのキューバは、生き延びるため、ソ連圏と強力な連携を鍛えなければならなかった。そして30年もの間、キューバがソ連から受けた支援は、カリブ諸島の中で、最も良く発展した島を創設する上で助けとなったのだった。1989年の世界開発委員会の「暮らしの物的質指標」(乳幼児死亡率、識字率、寿命を含む)によれば、キューバは米国の15位よりも高く、11位にランクされている(1)

 キューバが受ける援助は様々の形でもたらされていた。例えば、ソ連は市場レートの5倍以上の価格でキューバの砂糖を買い入れていたし、石油も廉価で購入でき、それは再輸出されていた。1959~1989年まで30年以上、キューバの貿易の85%はソ連圏とのものだった。

■ソ連崩壊 

 だが、1989年にソ連体制は解体をはじめる。石油輸入量は53%、全体では貿易量は75%も落ち込む。カストロ体制で公式に「平和時のスペシャル・ピリオド」として知られるこの時期に、キューバはその歴史上、崩壊への奈落の底を目にしたのだった。

 国際市場の崩壊によって暮らしの全局面がその影響を受けたが、最も重要だったのは食料への影響だった。キューバのカロリー摂取の57%は輸入されたものであり、蛋白質と脂肪では80%以上を他国に依存しているとの評価がなされている(2,3)。そして、ソ連崩壊で、直接的に化学肥料と農薬輸入量の80%の低下が引き起こされた。1989年以前には、キューバの集約農業のほとんどは、こうした輸入資材に依存していたから、その消滅は、農業システムにとって破滅的だった(4,5)

米国の封鎖の強化

 この事態は1992年の米国の過酷な「キューバ民主化法」の実施によって悪化した。そして、1996年の皮肉に満ちたタイトルがついた「キューバ自由民主連帯法」(ヘルムズ・バートン法)によって、それまでの経済封鎖がさらに強化されることになる。

 この封鎖の極めつけは、どんな米国人であれ、米国系企業であれ、食料や医薬品をキューバに販売することを禁じていることだ。ヘルムズ・バートン法は、経済制裁的での痛めつけや法的行為のもとに、外国からのキューバへの投資を思いとどませることで、経済が復興できないようキューバを窒息させる熟慮された試みなのだ。

 同法の創設者の一人、ジェセ・ヘルムズ(Jesse Helms)上院議員は、カストロ政権をもっと米国にとって好ましい別政権にすげ替えるという、法の全体目的にかなり信頼をおいており、法が上院で可決する際、こう語った。

「今年は、キューバの人々がフィデルに別れを告げる年にしましょう。フィデルが垂直に去るか、水平に去るかはどうでもいいことですが、ともかく彼は去るのです」。

 世界唯一の超大国からそうした行為をされたならば、常識的には破滅するはずである。だが、キューバほど才能が豊かで決意が硬い国家はない。打ち倒されて死ぬかわりに、キューバは新たな革命を助長しはじめたのだ。危機に対し、国は農業を再構築することで応じた。慣行的な高投入型のモノカルチャーの集約農業から、小規模の有機・順有機農場への転換を始めたのだ。

■都市農業

 石油が輸入できなくなったため、キューバの人々は石油への依存度を引き下げる方法を模索し始めた。農業においては、このことは、農業生産を再び都市に近づけることで、輸送や冷蔵・貯蔵コストを引き下げることだった。ハバナは、キューバ国民の20%、250万人が居住するカリブ地域最大の都市である。この人々をどう食べさせるのかが明らかに最優先事項だった。

 その解決策のひとつが都市農業だった。ほとんど全てに近い食料が農村地域から輸入されはじめる18世紀の産業革命までは、都市農業は、世界中の都市人口に食料を提供する上で重要な役割を果たしていた(6)。都市内や都市周辺の肥沃な農地は開発のために失われてきたが、1970年代以来、グローバル的には、このトレンドが逆転していることが判明している。今では全世界の食料の14%は、都市地域で生産されていると評価されているのだ(7)

 実のところ、1989年以前は、ハバナでは都市農業は耳にされることがなかった。国家の取り決めの甲斐もあり、全員のために適切な食料が保障され、だれも個人で食料を育てる必要がほとんどなかったからだった。だが、ソ連崩壊の危機は、ハバナの住民による、家の中や自宅の周囲での菜園づくりという大がかりな反応をひき起こす。これは、直ちにキューバ農業省によっても後押しされ、政府は、都市内の全遊休地を生産地にすることを目的に都市農業局を創設する。

 この政策の直接的な結果として、1998年にはハバナには8,000を越す公式に認定された菜園があり、30,000人以上の人々により耕され、可耕地の30%をカバーすることとなった(8)。こうした農場や菜園は、以下の5つの主なカテゴリーに分類される。それは広さではなく、労働の形態のひとつの指標である(9)

人民菜園(ウエルトス・ポプラレス) Huertos Populares ハバナ市内の狭い場所で、都市住民によって個人的に耕作されている菜園
集約菜園(ウエルトス・インテンシボス) Huertos Intensivos 大量の堆肥を土に入れ、高くした床で耕作する菜園。国営施設と個人の双方で取り組まれている
アウトコンスモス Autoconsumos 労働者に属し、労働者のために生産を行う菜園。たいがい職場の食堂に農産物を提供している
カンペシノス・パルティクラレス Campesinos Particulares 個人的な小規模農家で、市をとりまくグリーンベルトで大きく稼動している。
エンプレサス・エスタタレス Empresas Estatales こうした国営企業の多くは、より分権化、自律的に運営され、利益は労働者のあいだでわかちあわれている

 中で最も一般的なのは人民菜園で、その広さ数平方メートル四方から3ヘクタールにまで及ぶ。広い土地は、たいがい小さな個人用菜園に分割されている。菜園はたいがいは同じ地区内の空いた土地か、遊休地に位置し、自宅の隣ではないにしても、菜園者の住居の近隣にあり、地方政府が土地を割り当て、耕作用に使われる限りは無料で手に入るのだ(10)

■キューバ有機へ

 農業資材が輸入できなくなったことは、国内農業を多様化させた。トラクターの代替として牛が導入され、入手できなくなった農薬の代替として総合有害病害虫防除(IPM)が発展している。農民たちの間でも、コミュニティ相互間でも、よい協働が進んで、農村地域の人口維持奨励策もあいまって、過去十数年続いた地方からの人口流出が、逆転し始めている(11)

 とはいえ、最も重要であったソ連がなくなった後のこの農業革命は、化学的な松葉杖が失われたことへの対応である。すなわち、殺虫剤、除草剤の輸入ができなくなったことへの対応だ。そして、キューバは幸いなことに、この対応を行うにはよい条件を備えていた。キューバは人口ではカリブ地域の2%にすぎないが、例えば、科学者では11%がいる(12)。そして、多くの科学者たちは、エコロジー運動の影響を受けて、キューバの集約的な農業をすでに批判していたのだ。もちろん、管理職の中にはこれは嬉しからぬことであったが、彼らは、その後には彼らのものとなった化学依存型農業に対するオルターナティブも開発しはじめていたのだ(13)

 そのほとんどがユニークなものだが、キューバは、寄生昆虫をベースとしたエコロジー的な害虫防除プログラムを発展させ始めており、その取り組みは、天敵・昆虫腐敗菌生産センター(CREEs)の設立で強化されている。CREEは小規模・分散型で、協働組合生産によって生物防除資材を提供するためのもので、そのもの自体は革新的ではないが、200以上の設立によって、努力が強化されている(14,15)。そして、農薬の代わりに使うことで、農民たちは作物を保護できている。

 こうした避けられない改革の結果、以前は化学投入資材が卓越していたキューバの景観は急速に転換しつつある。そして、新たな多くの防除手法の方が農薬よりも効果があることもわかりはじめている。例えば、バナナの茎の断片を使って、蜂蜜を餌としてアリをひきつけ、サツマイモ畑におけば、天敵である蟻により、サツマイモの主な害虫、アリモドキゾウムシが完全に防除できるのだ。

 キューバでは国全域に173ヶ所のミミズ堆肥センターがあり、年間93,000トンの堆肥を生産している。いまでは、輪作、緑肥、間作、土壌保全とすべてが、あたりまえのこととなっている。計画担当者は、都市住民が農村部に移住することも推進しようとしている。一般的に言って、有機農業は、化学農業よりもより労働集約的で、労働需要があることが、オルターナティブ農業の発展の制限となっているからだ。都市住民が、ニ週間からニケ年にわたり、農村部の農場で働くことを奨励するため、計画担当者は、農村部に今よりも高サービスが備わった魅力的な住宅を建設することを目標としている(16)

■専門家のとまどい

 集約的な化学農業から有機農業に転換すると、結果としては収量が低下するというのが、経験上知られていることだ。だが、キューバの場合は違う。キューバは、国が農地の大半を管理してきたが、収量低下に悩まされていた。だが、小規模な農民たちは、その生産性を向上できていたのである。ピーター・ロゼット氏はこう語っている。

「多くの場合、小作農民たちが古いやり方を覚えていた。そして、それを再び適用したのだ。ほとんどすべての場合において、彼らは二つのことをやったと口にした。近代的な化学資材が現れる以前に彼らの両親や祖父母がやっていた間作や堆肥のような古い手法を思い出したこと。同時に生産でバイオ農薬やバイオ肥料を実施したことだ」。

 ちなみに、1989年以来、作物の酷い農薬汚染事件が著しく低下したと、多くがコメントしている。

 小規模農民や都市農民たちの成功で、以前の国営農場を再生することも期待されている。大規模農場にともなう課題の多くは、人を土地に配置しなおすことでかなり減る。そこで、それが、機能するかどうかは今後のことだが、政府は「人と大地との結びつけ」と称されるプログラムも設定している。

 キューバの集約農業からの転換は、他の場所でもうまくいくことが期待できるのには、多くのわけがある。イギリスのエセックス大学のジュールス・プレティ(Jules Pretty)教授は、アフリカの17ケ国で広まっている化学的でない45の取組みを分析しているが、それによるば、73万の農業世帯が、実質的にその食料生産や食料確保を高めているという。プロジェクトの95%は収量向上を目的とするものだったが、穀物の収量は50~100%改善され、農場全体の食料生産も全般的に増えているのだ(17)

 キューバが経験しているこの危機に対し、大規模農場はまだ、期待されたほどは上手く総合化されてはいない。だが、であるとしても、管理できないほどの規模は小規模化されていくであろう。1995年の半ばまでには、ソ連崩壊によってもたらされた食料不足は克服され、1996~1997年の栽培時期には、基礎的な10品目の生産で、最高収量をあげた。小規模農業を優先したことが収量増を達成したのだ(18)

■地平線の上の雲

 キューバは、大規模な協働組合農場や国営管理農場をなくし、化学的な投入資材なくし、自給に向けた壮大な転換に取り組んでいる。そして、海外食料援助だけが食料不足に対する唯一の選択肢ではないことを示している。だが、これはアルカディアの理想ではない。キューバが世界のモデルとたりえたとしても、そこには、ジュールス・プレティ教授が「The Empire Striking Back'」と記述するリスクが残されている。また、カストロの古い監視体制のすべてが、この「緑の未来」に向けて転換しているわけでもない(19)。加えて、キューバはバイオテクノロジーの開発を行っており、すでに、それはローカルなレベルで用いられている。少なくともキューバでは、科学をどこでも傷つけている集団遺伝子操作をやってはいないものの、キューバが遺伝子組み換え生物なき世界への呼びかけに参加するかどうかは定かではない。

 そしてまた、皮肉なことだが、もし米国が経済封鎖を取りやめたら、どうなるのかという懸念もある。あらゆる貿易が自由化される時代の中で、キューバはためらいがちながらも、環境的な持続可能性に向け歩んでいるのだが、それは「土地も住宅も以前は俺たちのものだった」と主張して亡命キューバたちが戻ったり、米国企業がキューバにもたらす商品の洪水で踏みにじられてしまうことだろう。

■国際的な認識

 だが、そうした懸念は、キューバでなされた仕事が、国際的に賞賛されることで認知されたというニュースによって、おそらく一時的には脇におかれるであろう。キューバ有機農業グループ(Grupo de Agricultura Organica)の「オルターナティブ・ノーベル賞」のプレゼンテーションが1999年の12月にはスウェーデン議会でされるのだ。有機農業グループは工業的な農業から有機農業に国が転換する際、つねに最前線に居続けた。

 その代表、フェルナンド・フネス(Fernando Funes-Aguilar)博士は、受賞について「化学依存の慣行農業だけが国を養う唯一の方法ではないことを、私どもの努力が他の国々にデモンストレートとなることを望みます」と語った。


参考文献

1. Rosset, P. 'Cuba: ethics, biological control, and crisis', Agriculture andハハ HumanValues, 14: 291-302, 1997.
2. Rosset, P. 'Alternative Agriculture Works: The Case of Cuba'. Monthly Review Vol.50, No. 3, July/August 1998.

3.Murphy, C. OCultivating Havana: Urban Agriculture and Food Security in the Years of Crisis', Institute for Food and Development, Report No. 12, May 1999.
4.Op.cit. 1.
5. Altieri, M. et al. 'The greening of the 'barrios': Urban agriculture and food security in Cuba', Agriculture and Human Values, 1999.

6. Smit, J. OUrban Agriculture and the 21st Century', City Farmer, 1997.
7. Op.cit. 3.
8. Op.cit. 3.
9. Op.cit. 3.
10. Chaplowe, S.'Havana's Popular Gardens: Sustainable Urban Agriculture,' WSAA Newsletter,ハ a publication of the World Sustainable Agriculture Association, Vol. 5, No.22.
11. Pretty, J. Regenerating Agriculture, 1995.
12. Op.cit. 1.
13. Rosset, P. and Cunningham, S.'The Greening of Cuba'. Earth Island Journal. Vol. 10 Issue 1, Winter 1994
14. Op.cit. 3.
15. Op.cit. 1.
16. Op.cit.11.
17. Pretty, J. 'Can Sustainable Agriculture Feed Africa? New Evidence on Progress, Processes and Impacts', Paper for Environment, Development and Sustainability, Special Issue on Sustainable Agriculture, 1999.
18. Op.cit.2.
19. Pretty, J., personal communication

Hugh Warwick氏は、フリーランスのジャーナリスで雑誌「Genetics Forum」の編集者である。
(The Ecologist (Vol. 29, No.8, December 1999)からの記事)
 Hugh Warwick,Cuba's organic revolution,1999.

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