2000年7月

ハバナの都市有機農業

コミュニティによる、コミュニティのためのコミュニティでの食料生産

はじめに

ハバナ市内のオルガノポニコ

「最悪時にはたった一椀のコメを食べられるだけで、それ以外は砂糖水しかなかったんです。危機を乗り切るには、とにかく創造的にならなければなりませんでした。ですが、誰一人として餓死しなかったんです」。

 ウンベルト・アルベルト(Humberto Alberto)さんは、1990年代初期の頃を想起する。東欧圏の崩壊によって、キューバはそれまで、800万トンの砂糖を輸出し、それで85%の輸入品を購入してきたのだが、その主要貿易相手国を失ってしまう。時を同じくして、米国は、国際貿易に関係する多くの者たちがキューバとの貿易に参入できないよう圧力をかけ、経済封鎖を強化する。2年もたたないうちに、食料、石油、家畜飼料、そして農業生産用の化学資材の輸入量は67%も落ち込む(Lage,1992)。ウンベルトさんはこう指摘する。

「エネルギー危機は、停電やガソリン不足だけではなかったんです。たとえ自転車があったとしても、食事が限られている中で、仕事場に往復するのに14キロも走るなんて、とても困難だったんです」。

 キューバの食事は、ずっと国際基準よりも上だったのだが、1994年には、カロリー摂取量では推奨値の65%、蛋白質では60%、脂肪では50%まで落ちてしまった。ある報告書によれば、キューバはマメ、小麦、食用油の90%以上、食物カロリーにして57%を輸入していたし(Deere,1992)、肥料、殺虫剤と飼料用穀物も事実上すべて輸入されていたのだ(Pastor, 1992)。そして、闇市が盛んとなり、食品価格は高騰する。食料の多くが、国の流通網からはずれて、闇市へと流れ、配給制度の物品不足を引き起こす。そして、たとえ、生鮮野菜や果物が大量に生産されても、交通システムが危機的状況におかれたため、畑や倉庫の中で腐ってしまった。一番良かった年でさえ、輸送、貨物保管や流通は、生産体制との連携が弱く、市場に運ばれるのは、生産された野菜のわずか50~60%だけだった。そして、多くがさらに悪い状態に陥ったののだ(農業省,1999年)。

「今では、食料はずっと手に入れやすくなっています。値段も下がり品質も上がっています。一人当たりの生鮮野菜と果実の量は回復しています。この多くはコミュニティ内での、コミュニティによるコミュニティのための食料生産。食物、花、薬草を生産するキューバのありとあらゆる社会階層での大衆運動のおかげなんです」(エウヘニオ・フステル,1999年)。

 日々飢える全世界の8億もの人民にとって、この運動の成功はきわめて重要だ。目立ちはしないものの、1990年代にキューバが経験したような危機は、いま全世界で日常の危機となっているからだ。キューバは政策と資源と技術革新を適切に組み合わせることで、飢餓や食料不足があたりまえである必要がないことを、発展途上国であれ、先進国であれ、飢える人々に対して、実証しているのだ。

■都市農業運動のルーツ

「同士諸君。我々は、都市農業を発展させることの重要性をずっと主張してきた。私は都市農産物こそが、私どもが自給できる第一のものであり、これが人民への食料供給問題の解決策上で重要なファクターになるだろうと確信している」― ラウル・カストロ、革命国防軍大臣、1998年

 新たな状況に応じて、キューバ全体の農業が変わった。トラクターの燃料や部品、農業化学資材がない中で、キューバ人たちは持続可能な技術を駆使しはじめたのだ。環境に負荷をかけない鋤を開発し、それらを牽引するため、30万頭の牛群を訓練した。補食性昆虫の大量放出や植物農薬を組み合わせた統合害虫管理を行えるよう農民たちは訓練される(Perez and Vazquez,2000)。土壌への菌の接種、緑肥の作付け、大規模なミミズ堆肥製造施設の設備、牛糞やサトウキビ副産物の堆肥リサイクルが確立される(Treto et al,2000)。この転換は、技術的なものであると同時に社会なものでもあった。大規模な国営企業から協同組合農場を創設するため、新たな農地改革が実施される。様々な利用権の下に何千もの新たな個人農家に農地が与えられた(Rosset and Benjamin, 1994; Figueroa,1998)。

 都市農業運動もこの危機から生じたものである。キューバは都市化が進み、1990年代以前には、都市農業は事実上存在しなかった。だが、経済危機が到来した時、燃料不足で都市への農産物輸送が困難となり、都市地域が最も激しい打撃を受けてしまう。結果として、数多くのコミュニティ住民は、ひそやかに空き地を占拠し農業を始めたのだ。こうしたオープンスペースで農業を行うことを地方機関に要請したものもいた。ごく初期の多くの菜園は、都市住民たちが、庭先、中庭、屋上に設けたものだった。店舗の棚が空っぽになったので、住民たちは自ら自給しようとしたのである。

■サンタ・フェ

 1991年には、ハバナの西端にある小さな沿岸のコミュニティで、コミュニティに根ざした運動が始まった。農業省のハバナ市地区の職員であるルイス・サンチェス氏は、地区住民の多くが、小規模ではあっても重要なやり方で農業を始めていることに気づく。最も危機が深刻であった時期に、コミュニティに希望と情熱をもたらしたもののうちのひとつが農業であることがわかったのである。サンチェスは自分の地区で都市農業の「コミュニティー・プロモーター」として働きはじめる。「ファミリー・ドクター」が全住民の居住区内にいるべきであるという発想から、サンチェスは、サンタ・フェのための「ファミリー・農学者」になることを決意したのだ。サンチェスは、地区住民に技術サービス、種子、助言を提供し始める。サンチェスは、もっと規模が大きな農業にも働きかけ、またもっと多くの住民にサービスを提供でき、グループとして生産上の課題を解決できるよう園芸クラブを組織化した。そして、地区の様々な機関からの住民が土地を入手する助けとなるよう、自宅の居間にコンサルティング・オフィスを開いた。農業省も直ちに、サンチェスが試験な取り組みに全力を注ぐことを許した。

 以降数年のうちに、サンタ・フェは、ハバナでも主要な農業地区のひとつとなった。1995年には、菜園者は400人にもなり、915の小さな農場や菜園ができ、計74ヘクタールを耕作する18の園芸グループに組織化された。こうした新規参入農家のほとんどは、コミュニティの定年退職者か、家族の助けを借り、仕事が終わった後や週末農業を行うものたちだった。菜園に従事することで、彼らは家族用に1人当たり日量700gの生鮮品を生産できた。年間では5540人の農家家族に年当たり708トン。それは、地区コミュニティ住民の約30%にあたる。さらに、こうした菜園は、幼稚園や小学校にも720kgの食料を供給した(Sanchez, 1995)。

 政策立案者たちもこの運動を目のあたりにして、その可能性を理解していく。サンタ・フェやその他の成功した多くのコミュニティを訪問、インタビューした後、都市農業は全国でも最優先事項であるとの宣言がなされ、国の最高権威の支援を受けたのだ(Gonzalez,2000)。新たな法や規則、そして、ゾーニング指定規制が都市農業を支援するため実施される。農業省は、全国都市農業プログラムも作成し、都市や小さな町での食料生産を支援するための重要な道筋を切り開いた(MINAGRI,1999)。

■都市農業の成長

 都市農家や菜園者たちにとってまず障害となったのは、土地の確保と経験不足だった。1993年、農業省は土地利用を簡単に申請できるようにする都市での土地利用権を再構築する。耕作を行う限りにおいて、遊休地の永久利用権が設定されたのだ。こうしてハバナでは菜園が花開いていく。だが、大半の都市住民は、農業体験がほとんどなかったし、農業のバックグラウンドとなる経験や知識を持っていた者でさえ、都市農業に必要な小規模な有機農業技術についての知識はほとんどなかった。そこで、菜園者たちを支援し、最新の技術情報を提供し、種子や道具を提供する支援として、都市農業グループは、サンタ・フェやその他の地区での経験に基づき包括的な普及ネットワークを構築する。普及員たちは、資源をわかちあうための園芸グループを組織化し続ける。多くの独立した都市農家が、クレジット農業組合(CCS)や農業協同組合(UBPC)という制度の下で新たな組合を組織化した(Companioni et al.,1998)。

 以前は、購入される食料のすべては、政府の店舗か闇市で交換されていた。この事態を防ぎ、かつ食品価格を引き下げるため、キューバ政府は、農産物を人民に簡単に提供できるよう、農民が都市のあらゆる場所にあるスタンドや市場で農産物を販売半日することをすることを認める(Gonzalez,2000)。それは栽培されるその場所で売られるから、輸送経費も貯蔵経費もかからないし、常に新鮮でもある。いくつかの菜園では、自転車カートで販売する人を雇用した。さらに、多くの菜園が、地域コミュニティ・センター、学校、老人介護設備、病院その他の施設に食料を寄贈した(Murphy,1999)。

 政府のプログラムが柔軟で硬直していないことが成功につながっている。政策は、生産者や消費者のニーズに応じて変わる。例えば、菜園への投入資材の需要が増大すると、農業省は、小さな店舗やシード・ハウスが分散していた方がより効率的であろうとの判断を下す。そこで、各シード・ハウスは自立的に運営された。農業省は、財産目録を伝えはしても、取引価格は設定していない。こうした調整が、先例がない成長や改革にとって欠かせない柔軟性をもたらすことにつながったのだ。

■様々な農場や菜園

 ハバナの都市農業には多くの形態があり、菜園者たちは、広さ、場所、土地の質により、異なる方法を用いている。用いられる方法や社会的な組織によって、いまある形態の分類ができるが、まずやり方の違いで見てみると、集約菜園、庭やテラス、オルガノポニコ、そして様々な小規模農園がある。人口密度が高い都市地域では、菜園は小さく (2ヘクタール未満)、キューバ人たちは、集約菜園もしくはオルガノポニコのいずれかを使用している。土が健全で、排水不良でない土地では、種子や苗を直接土に植えることができ、集約菜園が行われている。

 土が痩せていたり、石が多かったり、締め固められていたり、汚染されていたり、あるいは土そのものがなく、とりわけ排水不良であるとき、あるいは、舗装された場所では、土をベッド状に高くし、その中に堆肥をいれるオルガノポニコ農法が用いられている。ベッドは、古い屋根瓦や石、セメント・ブロックの廃材等、手軽に手に入れられる資材から作られる。土はその場でのものを用いて、ベッドの中に入れるが、等量の有機資材と混ぜ合わせる。このオルガノポニコでは集約栽培がなされ、作付けが2日間以上空くこともないようにされ、普通、キューバ製のマイクロ・ジェット潅漑設備も備えられている。夏用の作物向けに遮光ネットでカバーされた場所もあるが、これらは堆肥やその他の有機質土壌改良材を大量に使っている(Gonzalez,2000、Murphy,1999、農業省,1999)。

 都市郊外では、もっと広い土地が使え、2ヘクタール以上の都市近郊農場がある。近郊農場は面積があるため、小規模菜園で見受けられる園芸作物に加え、畜産や果物、森林を統合できている。こうした農場は多様性も豊かで、面積的に制限がある小規模農場では非効率とされる育つのに時間がかかる作物も生産できる。でんぷん質の根菜類や穀類の多くは、こうした農場で生産されている。

 都市農場の組織化の方法も様々で、土地所有形態にも主に2タイプがある。以前から私有地を所有していた農家は都市にもと郊外にもいるが、これはパルセレロス(Parceleros)と称され、典型的には信用サービス協同組合(CCS)へと組織されている。だが、1993年に政府が、無料の永久土地利用権を通じて個人に土地を提供し始めると、Usufructuarioと称される新たなカテゴリーでの農民が生み出されることになった。これも次第にCCSに組み入れられてはいる。数人の農民たちが一緒に協同グループとして土地や資金を求める時には、UBPCが結成される。国は個人に対してよりも、さらに広い面積の土地を貸し与え、フェンス、販売キオスク、農機具小屋、潅漑施設といったインフラを提供し、経営立ち上げのための資金(協同組合農場は、後で返済する)も融資する。資金は低利率だし、土地の賃借料も無料だから、大半の国が返済時期になる前に、償還できるようになっている。

 都市を取り囲む大規模国営農場は解体され、新しい農民になった者たちに土地(20ヘクタール以内)が与えられていくと、多くの国営企業も新たな状況で実験をはじめた。国営企業が以前から生産してきた作物を生産し、もっぱらその国営企業に産物を売り続けなければならないという点を除けば、それらは多くの点でUsufructuariosに似ている。生産割り当て量に基づいて契約がなされ、作付け前に価格は決められる。そして、割り当て量以上に生産されると、農民たちは購入価格を増やしてもらったり、さらに高価格で消費者に直売できるのだ。

 これは、果物・野菜生産公社カルティボス・ヴァリオス(Cultivos Varios)の果樹園でとくに顕著だ。そこでは、今から20年も以前に植えられたマンゴーやその他の果樹の下で、ハバナ周囲の400人もの農民たちが、野菜、花卉、穀類と薬用植物を栽培している。ハバナでのこの経験から、5年前には年間に1000万ペソもの赤字を出していた公社カルティボス・ヴァリオスを今では年間に100万ペソ以上の利潤をあげるように変えたのだ。ここ3年で、全国の都市近郊農地はすべてこのシステムに転換されつつある。転換は進んでおり、牧場や乳製品生産のようなそれ以外の部門でも試みられている。

 政策、資源、土地、市場改革、そして政府とコミュニティのメンバーとの献身の結果、都市の農業運動は爆発した。菜園数、耕作面積、生産量や産出量の合計数値は、この傾向を実証している。


ハバナの都市農業1997年(Companioni et al.1997)
生産形式
合計面積(ha)
集約菜園 92 17.00
オルガノポニコ 96 23.80
ハイドロポニコ・ゼオポニコ 3 111
郊外農場 2,138の個人農家
285の国営農場
7,718
市民農園 5,000カ所、26,604人の参加者 1,854
企業や工場のアウトコンスモス 384 5,368
家庭菜園 不明
合計 7,998 15,092

■都市農業のメリットを得る

 都市農業プログラムは、栄養や食料を確保するうえで、ファンタスティックなまでの効果をもたらす。都市農業プログラムでは、野菜だけでなく、ハーブ、薬草、コメ、果物、食用油、蜂蜜、豚、鶏、ウサギ、観葉植物も生産されている。潅漑システム、ミミズ堆肥、家庭生ゴミのリサイクルに応じる特定プログラムもある。都市住民が自ら食料を作る方法が都市農業によってもたらされ、生産も急上昇したため、既にカロリー摂取量の30%を生産している地区もある。都市農業プログラムが目標としているのは、都市住民一人あたり日量300gの野菜を生産することだが、それ以外の多くのサブ・プログラムも急速に進展している。とりわけ、市場政策の支援だけで、コメは指数関数的に生産が急上昇している。また、都市農業のもうひとつの重要なインパクトは、生産量が増えたことで、まだ高額ではあるものの、農民市場の食料品価格を引き下げていることだ。

■グローバルな食料危機

 キューバの食料危機は、全世界の何百万もの人民がおかれた状況を反映している。世界中の飢えた人や貧しい人々は、別の種類の経済封鎖の犠牲者なのだ。食べ物を買う金がなかったり、食料と住宅のどちらかを選ばなければならないとき、彼らは十分な食を得るという基礎的な権利を否定されているのだ。

 キューバの転換は、政府の政策がいかに早く、かつ、いかに有効に都市農業の推進を支援しうるかの完璧な事例といえる。適切なインフラ、社会組織、そして政策があれば、たとえ資源が制限されていたとしても、どのような都市であれ飢餓を根絶できるのだ

(オランダのHP都市農業マガジン7月号からの記事)
  Martin Bourque & Kristina Canizares, Urban agriculture in Havana, Cuba,2000.

Cuba organic agriculture HomePage 2006 (C) All right reserved Taro Yoshida