有機農業はいま岐路にさしかかっている。幅広い一般的な認識を得て、不承不承ではあるものの公的に認知される以上の何事かをやり遂げるというブレーク・スルーを成し遂げた。だが、スーパー・マーケット文化に飲み込まれる危険な状態におかれている。まさにまた別のグローバル商品となりつつある。有機農業はもはやローカルなものではない。大規模のものだけが生き残るまで、生産者は圧迫されているし、これは英国や米国、その他の工業国でも起こっていることだ。
有機食品が、消費者から当然のものとされ、政府が熱心に支援しているのは、世界広といえどもただ1国しかない。キューバでは、有機農業の実践の世界一流モデルが進展している。そして、ほとんどの食料が、それが食べられる場所、すなわち、都市部で生産されている。共産党政府によるこの企ては、もともとは、ソ連崩壊後にキューバが化学肥料、農薬、トラクター用燃料を輸入できなくなり、経済的な孤立と戦うために計画されたものである。だが有機のメンタリティーは根づき、キューバは欠乏状態が続いているにもかかわらず、暮らすうえで最も健康な国のひとつとなっている。
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ハバナ市で生産され、食べられる食べ物-写真ウォルター・シュワルツ |
キューバの農村部では、有機栽培の砂糖やコーヒー、オレンジが、政府の支援によって確立されつつあるが、最もスペクタルなサクセス・ストーリーは都市農業である。その成功は驚くほどで、キューバの野菜の60%を生産している。ハバナのエレガントで壊れた植民地時代の舗道、街角、そして建物のストリートの一角に、ベジタリアン主義の一仕切りが見受けられるのだ。都市内では、化学肥料とほとんどの農薬使用が禁止されている。住居の間のごく狭い空間でも食料は生産されている。パティオ(もしくはhuertos)は最小ユニットであり、キューバでは、100万以上のパティオが登録ずみだ。もっと大きな市場向けの都市菜園は、高くしたベッドの上で野菜を育て、その場でそれを売っており、オルガノポニコと称されている。それは、以前の水耕栽培を適応させた物だ。
リカルド・サンチェス(Ricardo Sanchez)氏は有機菜園に熱心である。氏は、野菜にはキッチンからの堆肥を、ナマズには虫と幼虫を、ウサギには菜っ葉とハーブを与える。氏は自分の農生産物を保護するため、天然の殺虫剤を作っており、トマト、グアバ、アボカド、マンゴー、ハーブと薬用植物が、美しくて役に立つヤシの木の影で競争しあっている。リカルド氏の菜園は、食料生産に特化した800平方メーター未満の都市内の私有地、すなわち、ハバナに62,000あるウエルトス(huertos)のまさにひとつなのである。全菜園は、洗練された公的支援を享受している。氏の自宅の外側には、菜園が3つの別々の機関から支援を受けていることを宣言しているサインがある。エコ有機生産のための人民パティオ運動、農漁業ネットワーク、そして市食料開発委員会である。
ハバナのプラヤ区には、パセリ、レタス、ホウレンソウ、トマトが栽培されている1ヘクタールのコミュニティ菜園がある。私がたどり着くと、菜園のメンバーたちが、賃金労働者と並んで、ボランティアで作物の世話していた。技術マネージャーであるアンドレアス・ベルデシア(Andreas
Verdecia)氏は、政府の都市農業機関、グランハ・ウルバーナ(Granja Urbana)に常勤雇用されており、農産物は100%有機だと語った。
「私たちはミミズで作った堆肥を使っています。菌類には他の菌類を使います。私たちは、自然な方法を見つけようとしているのです」。
有機革命がスタートした時点で、政府が耕作を望む誰しもに未利用地を提供し、第一世代の多くの都市住民たちは、農村での幼年期を思い出した。開発部局の職員は、種子や農機具を供給する国営ショップを促進した。
「その秘密は、小規模な都市農業のユニット単位の生産性が高いからなんです」。
熱帯農業研究所のネルソ・コンパニオーニ(Nelso Compagnioni)博士は、工業的農業の背後にある一般通念を否定し、私に伝えた。
「狭い土地で1ドル生産するには25セントかかります。ですが、面積を増やすと直ちに、もっと高コストになるのです。もっと複雑な潅漑やもっと多くの労働者が必要となり、産出はもっと低くなるのです。そして、私たちは輸送の必要がありません。消費者は仕事の帰りすがらに自分たちの食料を集めるのです」。
都市農業運動は、政府から支援を受けているだけではない。有機農業は草の根の住民運動でもある。そのパイオニアのひとりは、化学者・動物栄養学者のビルダ・フィゲロア(Vilda
Figueroa)さんである。彼女は連れ合いホセ・ラマ(Jose Lama)は、自分たちの郊外の住宅と菜園を、棚上のラベルを張ったビンやベッド上の作物、そして家中をポットや乾燥させたパックのハーブで、デモンストレーション・センターに変えた。
「有機栽培は、キューバの伝統ではありません。私たちは、バッグ中に有機食品をつめこんで、あちらこちらをまわる宣教師に似ていました。私たちは、経済益とあわせて、ライフ・スタイルも促進しています。砂糖を少なくし、多くの生鮮野菜をとることで健康になります。ビルダさんとホセは定期的にラジオやテレビのトークショーにゲストとして登場し、一年に何千もの手紙を受け取っている。
キューバの有機農業の実験は、1989年にソ連が崩壊した時に、必要性から誕生した。当時、キューバはすでに米国から経済封鎖を受けていたが、残された供給源すらも失ったのだ。ソ連時代のキューバ経済は、資本集約的なソ連圏の化学農業と堅く結び付いていたが、1989年以降は、ほとんどの輸入品が遮断されてしまう。
「我々は問題を、飼料、肥料あるいは燃料なしに解決しなければならない」。1991年、フィデル・カストロはこう主張し、キューバのオルターナティブ・モデル、すなわち、科学に基づく、低投入型の持続可能農業が打ち出されたのである。このような転換は人類史上最大規模のものだった。キューバ農業は、高い生産意欲を持つ生産者や都市及び都市近郊での食料増産によって、小ユニットでの無化学肥料・無農薬農業の研究所となったのである。
キューバは人口ではラテンアメリカの2%を占めるにすぎないが、科学者の割合では11%もいる。卒業したばかりの裸足の農学者が、有機肥料やバイオ農薬を発明するため、農村の協同組合農場で働いている。農民たちは、持続可能な間作の技術を再発見し、必要に応じてトラクターを牛に切り替えた。実験は発展し続けている。200以上のバイテク・センターが、土着菌に基づく無害なバイオ肥料や殺虫剤を生産・分配しているし、農地改革も食物主権を進める重要な要素だった。改革によって、40%の農地が、国営農場からインセンティブに基づく協同組合農場に切り替わり、農民たちは、国よりも高価格の農民市場で売れるようになったのだ。残りの国営農場もUBPC(基礎的生産単位)へと分割された。土地所有権は国にあるが、経営はメンバーが管理している。そして、都市ではパティオの菜園者たちは、認められた区画内の余剰農産物物を売ることができる。
「新自由主義へのチェック・メート」
熱帯農業基礎研究所のポスターにはこんな宣言が書かれている。キューバの政策は世界の傾向には反している。キューバの食料は「有機栽培された」と称することができるものではあるが、我々の土壌協会のような有機認証機関はまだない。
「我々にとって重要なことはその持続可能性なんです。ラテンアメリカで何が起きているのかを見てください。有機コーヒーはある。ですが、教育も、医療サービスもありませんし、住宅事情も悪い。我々にとっては有機栽培は文化の一部なんです」。
小規模農民協会のアシスタント・ディレクター、レオナルド・チリノ(Leonardo Cirino)氏はこう語る。いつの日にか、米国の経済制裁は撤廃されることだろう。キューバは化学肥料や農薬やトラクター用の燃料を輸入できるようになるだろうし、海外投資家は価値ある農地を買いあさりたいと思うことだろう。そして、都市の土地は、ただの菜園にしておくには価値がありすぎるようになるかもしれない。だが、有機農業に努力してきたキューバ人たちは、彼らの革命の本質的な部分は保全されるだろうと確信している。ビルダ・フィゲロアさんも、都市農業が生き続けるだろうと信じている。多くの女性を含め、2001年には都市農業だけで、20万人もの雇用が創出されている。
賃金を支払うのは、家族協同組合だが、組織規定で大きな力を持つАNАPのマビス・アルバレス(Mavis Alvares)理事長はこう語っている。
「はるかに低コストではるかに高収量が得られることからして、有機栽培はより経済的です。都市農業は1996年には1人当たり7gの野菜を生産していましたが、今では450gになっています。もし、米国人が経済封鎖を撤廃すれば、困難な交渉があるでしょう。政府の政策はただ廉価な食料を輸入すれば良い、というものではありません。我々は持続可能性のために教育に大きな努力を注いでいるのです」。
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