■世界一効率の悪いアメリカ農業
ふつう農民は1カロリーの労力を消費するごとに、10カロリーの生産を行うとされている。だが、アイオワ州の農民は6,000カロリーも生産できている。また、アメリカのヘクタール当たりの平均穀物収量は4.8トン(1985年)だが、ナイジェリア、モザンビーク、タンザニア、スーダンの4カ国平均は0.57トンにすぎない。アメリカ農業が先進的と言われるゆえんである。
だが、エネルギー収支から見ると、アメリカ農業ほど非効率的なものはない。リーチとピメンテルのトウモロコシ生産分析を見てみよう。1970年のアメリカの生産量はグァテマラよりも4.8倍も多い。だが、エネルギー投入量は25.4倍もある。ことエネルギー効率で見てみると、アメリカ農業は、グァテマラ農業の5分の1以下でしかないのである。
国 名 |
投入エネルギー |
投出エネルギー |
エネルギー効率 |
グァテマラ |
2.8 |
38.2 |
13.6 |
ナイジェリア |
3.6 |
36.0 |
10.0 |
フィリピン |
6.7 |
33.9 |
5.1 |
アメリカ(1945) |
22.8 |
76.9 |
3.4 |
アメリカ(1970) |
71.2 |
183.7 |
2.6 |
単位 105Lカロリー/年間ヘクタールあたり
経済学者のM・パールマンは、アメリカ農業は、収穫される食物1カロリーに対して、機械・肥料その他で2.5カロリーの化石燃料をもやし、加工、包装、輸送も含めると、朝食用のセリアル加工品3,600カロリーに15,675カロリーを要し、270カロリーのトウモロコシの缶詰一個を生産するのに、2,790カロリーを消費しているとしている。
ラパポートも未開社会と比較してアメリカ農業をこう批判する。
「ニューギニアのツェンバカ・マリン族の焼き畑農業は、近代的な食料配送システムよりも40倍も効率的である。マリン族は、1のエネルギーを投入するごとに10の食物エネルギーを生み出しているが、近代農業はスーパーマーケットに10単位を配送するのに、45単位のエネルギーを消費している。ブッシュマンやアボリジニは、アメリカ人の75分の1から100分の1のエネルギーで一人の人間を扶養している。つまり、エネルギーフロー比率でみれば、採取・狩猟民は我々よりも75〜100倍も効率がよいのである」。
約100年前のアウストラロピテクスは一日一人あたり約3000カロリーを消費していた。現代も未開人は薪などの燃料を含めても5000カロリーほどしか使っていない。だが、アメリカ人の消費量は、食物を除いても24万5000カロリーに及んでいる。
チリの経済学者M・ニーフも、アメリカ農業をこう批判する。
「高度に機械化され、石油に依存しているため、カロリー生産あたりのエネルギー消費という点では、世界で最も非効率な農業である。それを巨額の利潤をあげ、GNP成長に貢献しているとプラスなものとして評価することは常軌を逸している」。
日本の状況もさしてかわりはない。農水省の宇田川武俊が水田ヘクタールあたりのエネルギー収支を試算しているが、この図を見るようにまさに日本のコメは石油で作られているのである。
年 |
投入(万カロリー) |
収量(万カロリー) |
算出/投入比 |
1950 |
915 |
1,160 |
1.27 |
1960 |
1,934 |
1,590 |
0.82 |
1970 |
3,708 |
1,730 |
0.47 |
1974 |
4,707 |
1,770 |
0.38 |
さて、世界資源研究所の分析によると、有機農法や輪作を取り入れたペンシルベニアのある農場は、化学肥料と農薬の使用を中止した結果、5年間で生産コストを25%も削減し、土壌浸食も50%以上減少し、収量もかえってあがったという。様々な要素を総合的に評価すると、アグリビジネス型の高投入農法よりも、純経済価値ではほぼ2倍になったという。こうした点から、いま有機農業が評価されている。だが、有機農法で中心となるテクノロジー、段々畑、輪作、混作、マルチ作物の栽培、アグロフォレストリー、有機物リサイクル、最小耕起といった方法は、すべて「新石器時代」に開発され、実用化されていたものだったのである。
■農業は生産性を向上させる
狩猟・採集から農耕へと移行することで、食料生産は飛躍的に増大した。例えば、1平方キロメートル当たりで、どれだけ人間が生存できるかを地理学者のK・バッザーの試算から見てみると、更新世の採集民で0.01人、更新世後期〜完新世前期(約1万年前)で0.05人、初期の農耕では10人となっている。多少数値は違うが、農業経済学者のE・ボスラップは、狩猟・採集と初歩的な農耕で0〜4人、焼き畑で4〜64人、一毛作の農耕と牧畜で64〜256人、集約農業で256人としている。人類学者M・ハリスは、エネルギーと食料生産の関係に着目し、次のような等式を考え出した。
E−あるシステムが年間に生産するカロリー量
m−生産者数
t−生産者当たりの労働時間
r−生産者の時間当たりの支出カロリー
e−生産された食料の支出カロリー当たりの平均カロリー率
この方程式で最も重要なのは、eである。この値が高いほど、生産性は高いことになる。なお、ハリスやその他の人類学者はe値として、次のような数値を計算している。
分 類 |
e値 |
備 考 |
カナダのインディアン |
4.6 |
人力だけに依存 |
サン族等狩猟・採集民 |
9.6 |
人力だけに依存 |
ザンビアの農耕民 |
11.3 |
鍬等を利用 |
ニューギニアのマリン族 |
18.0 |
焼き畑を行い豚も飼育 |
アシャンテ農耕民 |
36.0 |
ガーナ王国を設立 |
革命以前の雲南の農民 |
53.5 |
牛馬を使用 |
農業の方が、狩猟・採取よりも格段に効率が高いことがわかるだろう。同じ社会の中でも、農業のエネルギー効率がどれだけ高いかについて、アマゾンのマチゲンガ族について、詳細に調査した研究実績がある。この結果によると、菜園労働では1カロリーを投入すると17カロリーの食物エネルギーが得られた。だが、漁業では1.4カロリー、森林食物では0.8カロリーしか得られなかった。マチゲンガ族の平均労働時間は6時間だが、農業には4時間、他の1時間づつを非効率な探食活動に振り向けていた。それは、動物性タンパク質や脂肪を得るためであった。
■労働を強化させてしまう農業
こと生産性という面から見ると、狩猟・採取から農業への移行は進歩に思える。だが、そこには大きな落とし穴がある。農業にシフトすると、生産者数が増え、生産者の労働時間も増えてしまうという問題である。
例えば、サン族の場合、以前のままの古い狩猟・採取生活をしているグループは、週当たりの労働日数は2.3日で、観察期間中の33%しか働いていなかった。ところが、メロン、トウモロコシ等を栽培し、牛や馬、ヤギや羊の飼育も始めた地区では、4.2日、観察期間中の61%も働いているという結果が見られた。実に2倍もの労働強化である。
また、中国の雲南省の農民と比較して見るとこの違いはさらに大きくなる。サン族では年間に820時間働き、一人当たり約115万カロリーを産み出していた。だが、雲南の農民では年間1129時間働き、一人当たり906万カロリーを産み出していた。ところが、サン族では総人口に対して経済活動人口は50%だったが、中国では60%であった。つまり、雲南省の農民は、生産効率がサン族よりも5.6倍も高いにもかかわらず、労働時間が1.5倍も長く、2割も多くの人が働いていたのである。その結果として、雲南省の村では、コミュニティが必要とするエネルギーの6倍もの過剰生産を行っていた。自給自足のためだけの生産をしていたサン族は、必要量に達したら、そこで生産を止めてしまったのだが、中国の場合はそうはならなかった。余剰分は地代や税金として吸い上げられたり、地主や仲買人に安く買い叩かれ、商品市場に流れて行ってしまった。結果として、他人の分まで作るために農民たちはよけいに働かなければならなくなってしまったのである。
■余計な生産をしないという知恵
1930年。パプアニューギニアの高地で、それまで文明と一切接触したことのなかったシアネ族が「発見」された。発見された当時は、いまだに磨製石器を使っていたシアネ族は、1945年まで文明との接触を断ってはいたが、部族交易を通じてスチール製の斧がもたらされ、石器は老人が使うだけになっていた。石器時代社会に鉄という新テクノロジーがもたらされたことによって、未開人社会にどのような変化が起こったのかをR・ソールズベリーが『ストーンからスチールへ』(1962)で描いている。
女性の場合、養豚、菜園労働、作物収集、料理、手芸などの生産活動に変化はなかった。一方、男性の場合は、伐採、垣根造り、家の修理など斧を使う機会が多かったため、この技術革新によって生産効率は3倍もアップした。
技術革新によって生産性が3倍も向上すれば、生産規模を拡大し、多くの生産物を作り、低コストで大量供給することによって、利益を得ようとするはずである。近代社会では、それが当然の常識である。ところが、シアネ族の場合は奇妙なことが生じた。生じたというよりも、より正確には、何も起こらなかった。畑は依然と同じ広さのままで、資本蓄積が行われなかったのである。そして、シアネ族は、労働量を減らす道を選んだ。
未開社会ではコミュニティ全員の必要性を充足させることが、何よりも生産の目標であったため、社会の基本的なニーズが保証されてしまうとそれ以上はムダなモノを作ろうとはせず、余った自由時間は、おしゃべり、祭り、旅行、シエスタ、スポーツ、芸術活動に向けられたのだった。
パプアニューギニアを含めた東部メラネシア史について、人類学者C・ベルショウもこう指摘している。
「物質的な富の供給増加のために時間が費やされるよりも、むしろ物質生産ではない活動により多くの時間が費やされた。メラネシア人たちは、より少ない時間で同量のモノを生産する方を好んだ。浮いた時間は、物質的な財を増産するためには使われず、閑暇、噂話、社会活動といった非物質的な活動に用いられたのである」。
モノの増産よりも、暮らしの質やアメニティの向上を優先する。必要を満たすのに必要な労働時間をどれだけ短縮するかを経済の尺度とすれば、シアネ社会の方が、アメリカよりもはるかに経済パフォーマンスがいいことになる。
■近代の進歩史観は正しいのか
人間は万物の霊長であり、その偉大さは道具を作り使うことにある、というのが文明の常識だった。つまり、作る人(ホモ・ファーベル)こそが人間の本質というわけである。だが、今では、道具を使う動物はいくつも発見されている。ラッコは腹の上に乗せた石で貝殻を割り、カラスは固い卵を岩に落として割って食べる。木の穴から虫を取り出すためにサボテンのトゲをくちばしで折って使うフィンチもいれば、チンパンジーは折った枝を歯でかみ砕いてささら状にしてシロアリを釣る。また、ギニアのボッソウのチンパンジーは、アブラヤシの実を台の上に乗せて石で割って食べているが、この台を安定させるために固定用の小石を挟んでいる。そして、この技術は集団全体が共有する文化になっている。おまけにキノコを栽培したり、アリマキやダニを飼育するアリの種もいる。モノづくりは、人類だけの専売特許ではない。加えて、農業革命は、人類進歩の一大飛躍だとされているが、道具だけを見てみると、狩猟民よりも農耕民の方が退歩している。近代では進歩、成長、発展はすべて良いこととされ、退歩、停滞、恒常は悪いこととされるが、進歩ははたして良いことであったのか。
いわゆる「進歩史観」がはやりだしたのは18世紀の啓蒙時代からであり、それ以前の人々の歴史観は違った。旧約聖書のエデンの園や中国の堯舜時代のように、始原(アルケー)にこそ楽園があり、そこから次第に退歩し、堕落したという「退歩史観」を抱いていた。古代ギリシアの詩人、ヘシオドスは「原初のクロノス時代の黄金種族は心に悩みもなく、労苦も知らず、神々と異なることなく暮らしていた。だが、銀の種族、青銅の種族と次第に堕落し、鉄の種族になると昼も夜も使役と苦悩にさいなまれ、その止むときがない悪い時代になってしまった」と嘆いている(続く)。
引用文献
山内 昶『経済人類学への招待』(1994)ちくま親書
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