右上がりの経済が行き詰まる中、ラテンアメリカだけでなく、先進国日本の中でも、社会階層の二分化は確実に進んでいる。しかも、無責任で志を失ったエリートと未来への希望を失うブルーカラーという組合せは末期的だ。努力して成果をあげた誰しもが、自分の成果だと胸をはれる社会。そんなあたりまえの社会は実現できるのだろうか。
■誰もが立身出世を夢見れた高度成長社会
「実力ではなく努力で」。この姿勢や態度こそ、戦後日本のムラ社会の弊害で悪平等そのものである。それが活力ある競争社会、真の公平な社会の実現を妨げている。こうした声がいま主流になりつつある。実際、日本型ムラ社会の足の引っ張り合いは、大きな問題を引き起こしている。だが、はたして単純にこの論理を受け入れていいのであろうか。
戦前までの日本は、「努力をすればなんとかなる」は夢であり、「努力をしてもしかたがない」のが現実だった。だが、高度成長の中で、高い学歴さえ身に付ければ、労働者階級出身の子どもであっても、エリート・サラリーマンになれるという夢が産まれた。1970年の総理府の「国民生活に関する世論調査」では、国民の九割までもが自分の社会的地位が中ほどだと考える、一億総中流社会が出来上がった。
これを可能としたのは、経済成長である。高度成長時代から安定成長時代には、どの企業も右肩上がりの組織拡大を続けられた。専門職や管理職のポストも増え、多くの人間が上層ホワイトカラーになることができた。それは「努力してもしかたがないのでないか」という一抹の疑問を抱きつつも、「努力すればなんとかなる」と自分に言いきかせることができる社会だった。西洋的な感覚で言えば「ミドルクラス」になれる可能性を信じられる社会だった。だからこそ、学校や会社の選抜レースに自分も参加し、自分の子どもたちも参加させてきたのである。
■ノブレス・オブリージュという志を失ったエリートの誕生
だが、この開放性は、いま急速に失われつつある。所得や資産の面では80年代後半以降、ジニ係数が急速に増大している。社会の10〜20%を占める上層階層は、親から子へと継承される。既得権階級が形成され、戦前の時以上に、個人の努力が報われない閉鎖システムになっている。
このシステムの崩壊は、上流エリート階層、下層労働者階級ともに大きな弊害をもたらしている。
まず、上層エリート階層では何が起こっているのか見てみよう。ヨーロッパのように明確な階級社会であれば、不平等が目に見える。そのため、競争に勝ち残った人は、勝ち残ったという事実だけでは自分の社会的地位を正当化できない。自分がその地位にふさわしい人間であることを目に見える形で積極的に示さなければならない。そこで「ノブレス・オブリージュ」という概念が産まれる。
だが、日本の場合は、これが中途半端である。郊外の小奇麗な住宅に生まれ、有名私立小学校から進学校へと進み、一流大学を卒業し、大企業の幹部候補生やキャリア官僚になっていく今の若いエリート世代は、上流ホワイトカラー以外の世界を全く知らない。選抜システムを勝ち抜くためには、ペーパーテストで良い成績を取ることが必要だが、今は試験そのものが自己目的化している。
明治以来、試験は社会的に高い地位を得るための「手段」だった。その手段を手にするために、試験から解放される日を夢見て試験勉強に励んできた。だが、今は、何かをなすために選抜の壁を突破するのではなく、選抜の壁を乗り越えること事態が目的となっている。試験に戯れるエリートたちには、脂ぎった権力欲もないが、責任感もない。つまり、「高貴な義務」という観念を持たないエリート集団が作り出されているのである。
■夢を失うブルーカラー階層
選抜システムは、どうしても少数の勝者と多数の敗者を作りだす。敗者とされた人はそのままではやる気を失う。その結果、経済的な活力が削がれ、社会全体も不安定になる。敗者とされた人が、意欲と希望を失わないようにするには、何らかの仕組みが必要である。
それには、選抜機会の多元化という方法と選抜自体の意味を空虚化するという二つの手段がある。これまで日本が取ってきたのは、後者の方法だった。すなわち、「自分は試験成績を取るのが上手いだけであってエリートではない」というエリートであることの自己否定や学齢社会の自己批判は、制度を空虚化するための重要な約束事だったのである。
だが、学歴とは無関係にすべての仕事がひとしく重要であると、社会全体が本気で考えるのであれば、格差を縮めるか、具体的に縮める努力がなされるべきである。だが、現実にはそうではなかった。
ホワイトカラー出身ではないかぎり、どんなに頑張っても、結局は格差は縮まらない。つけるポストもたかがしれている。平等神話が崩壊し、現場の人間が自分の将来に希望をもてなくなれば、社会も組織も腐っていく。
エリートがどんなに立派な計画を立ててみても、どんなに完全なマニュアルを考案してみても、実行するのは現場の人間である。これまで、日本の社会や産業を牽引してきたのは、質の高い現場の労働力だった。たとえ、自分が駄目であっても子どもに夢を託せる。そういう社会への信頼感があったからこそ、真面目に働くことができたのだが、ホワイトカラーの上層階級へのルートは閉鎖される。同時に、自営業への道というルートも閉ざされる。
責任感のないエリートと将来に希望の持てない現場との組みあわせ。これでは会社が面白くないといって離職する若い世代が増えるのも無理はない。これからは、予想もできない事件や事故が起こり続けるだろう。
■米国型社会への移行は可能か
こうした状況を打開するために、いま盛んに提唱されているのが、米国に追いつき追い越せというスローガンである。だが、米国は、極めて特殊な労働市場を持っている。全世界から優秀な知的人材をかき集めると同時に、不法移民という形で安価な単純労働力を確保している。人口の約20%に及ぶ「貧困層」が、米国のシステムを支えている。米国流の市場主義は、この特殊な労働市場があってこそ、有効な解決策となりうる。逆に言えば、本気で米国型社会への移行を目指すのであれば、労働力移動の壁を取り払う必要がある。さらに、米国よりも移民にとって魅力的な国にならなければ、「米国に行けなかったから日本に来た」という二級の移民先にしかなれない。東南アジアや中国からの追い上げによって、衰退していくであろう。そのためには、公用語を英語に改め、エスニックを巡る激しい国内紛争も覚悟しなければならない。
そこまでやる気がなければ、市場原理の導入といっても、中途半端な規制緩和や自由化は、むしろ不公平や不平等をもたらすだけに終わるだろう。
■ヨーロッパ型階級社会を目指す
そこで、第二の道として、西ヨーロッパ型の階級社会を意識的にあえて目指すという方向がある。エリートはエリートらしく、労働者階級は労働者階級らしく、というわけである。そもそも西ヨーロッパの階級社会は中世の遺物ではなく、数百年にわたる近代化や産業化の果てにたどり着いた状態であり、それなりに現実的な回答なのである。
そして、現実的にも、私立の中高一貫教育によるエリート学生と非エリート学生との分化、二大政党制への移行など、日本はヨーロッパ型階級社会に近づきつつある。選抜システムが飽和する中でエリートが空虚化し、現場がやる気をなくすという状態が続くよりも、すでに階級化が起こっている現実を踏まえた上で、財や地位の公平な配分を考えた方が、まだましだとも言えるだろう。だが、いまさらまたヨーロッパを真似るしか術はないのだろうか。
■カリスマ美容師というシステム
90年代後半、「カリスマ美容師」が一大ブームを巻き起こした。それまでの美容師業界は、古い職人的な徒弟制度が残る世界だった。だが、カリスマ美容師制度は、業績主義を給与体系に導入し、美容師一人にお客がつけば、その分、美容師個人の収入も増える形にした。しかも、美容師個人ではなく、美容院をブランド化することで、新たな集客システムを作りだした。
個人は独立開業という経営リスクを負わずに高収入が得られると同時に、美容院側も腕の悪い美容師をブランド名でごまかすことはできない。ごまかしは一時的には効いても、やがては組織としての評判が悪くなり、腕の良い美容師は、お客とともに別の美容院に移ってしまうから、生き残れない。個人の腕と組織の信頼性。カリスマ美容師システムは、良い意味での両者の相乗効果を産みだしたのである。
現在の日本の閉塞状況を打ち破るには、ブルーカラーたちが希望を持てることが不可欠である。カリスマ美容師システムは、閉塞状況に追い込まれた若いブルーカラー世代に、夢と希望を与えたという意味でパイオニア的な価値がある。
学校で駄目でも、実社会に出れば、再チャレンジできる。学歴とは無関係に社会的に評価さえる。カリスマ美容師のように、学校に行かなくても成功できる道が再びできれば、逆に学校に行く意味も、何のためかがより明確になる。カリスマ美容師を目指す20代の若者を大企業の中高年管理職が、やっかみ半分でさげすみ批判するという図式は、飽和した選別システムの病理以外の何ものでもない。有名大学の学生がインターネットで起業家を目指すよりも、はるかにリアリティがあるし、社会的にも役立っている。
もちろん、成功の保証はない。はっきり言えば、目標を実現できないことの方が多い。だが、本当に大切なのは、将来の地位の保証ではない。今、自分が目指していることが、何のためなのかを本人が納得ができることにある。
成功が保証されるしくみの中では、人は失敗を何よりも恐れ、リスクを冒すこと避けるようになるし、成功の保証を求めれば、失敗すらできない社会ができあがる。それだけに、冒険するためには失敗してもいいという社会的保証、すなわち、年金や失業保険等のセーフティ・ネットが重要になってくるのである。
■求められる専門プロと視野の広い管理職の育成
日本ではホワイトカラーの専門職の育成はずっと実現されず、中途半端な専門職しか作ってこなかった。仕事ができる派遣社員は、能力があっても補助労働しか使われず、仕事のできない正社員を基幹業務にあてるというムダが行われてきた。これは、はなはだ非効率なことだし、社会的にも不公平である。
少人数であっても有能な人間を選抜し、専門職にするとともに、外部に任せる仕事は、アウトソーシング化するべきである。カリスマ美容師システムを真似する形で、「専門職とはこういう生き方だ」というリアリティを想像できれば、大きな突破口になる。
では、そうした専門職が多く誕生してくると、組織の管理職はどうなるのだろうか。専門職に派遣や外部委託を導入し、アウトソーシング化すればするほど、その業務を束ねて、全体を見ながら調整する人間が必要になってくる。こうした管理職は多くの人間を扱うし、専門職ほど市場メカニズムに任せられる部分は少ないから、管理職には長期安定雇用の方が向いている。ただし、生活保証があるのだから、その分だけ専門職よりも給与が低くても良いということになるだろう。
とはいえ、管理職には、組織全体を見渡す視野と経験の広さが求められる。組織外の人間をスタッフとして使いこなすには、組織全体だけではなく、組織の外の世界まで見通せる視野や経験も求められると言えるだろう。
ひとつの組織でずっと生活を続けていれば、どうしても世間が狭くなり、発想も縮んでいく。自分の組織以外は知らないという意味では、現在のホワイトカラーは、「会社人間」と揶揄された昭和ヒトケタの猛烈サラリーマン以上に、会社人間である。そして、自分が会社人間であることすら自覚できないことが問題である。こうした閉じた会社人間の弊害を克服するには、組織を一時的に離れる機会が必要である。ボランティアの社会活動であれ、大学での再教育であれ、組織から離れる機会を積極的に与えていくことが必要なのである。 引用文献
佐藤俊樹『不平等社会日本』(2000)中公新書
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