右上がりの経済が行き詰まる中、従来型の組織マネジメントでは、優秀な職員も「負け組」の職員もやる気を失うだけだ。タテマエを捨て、本音の健全な利己心を発揮するとき、そこには意外にも良い意味でのパブリックが見えてくる。仕事人理論を提唱する太田肇はこう主張する。
■社会主義的な平等主義が産む組織病
中小企業の経営者や外資系企業の社員には意欲がある。研修に参加する場合であっても、何でも盗んでやろうと、目を輝かされている。だが、大企業の社員からは意欲が感じられない。大組織に属する従業員の働き方は、受け身だし、内側から湧き出るモチベーションが伝わってこない。 この意欲の差は、なぜ生じるのだろうか。それは、知識や情報を得て、自分の能力を高めることが、即自分の利益につながるかどうかから来ている。
日本の企業の特徴は、社員を組織の中に囲い込んで管理することにある。
(1)終身雇用、年功序列、企業別組合の三種の神器
(2)寮・社宅、企業年金、退職金、家族の福利厚生・レクリエーション
(3)強大な人事部、曖昧な評価制度と情意考課
(4)兼業の禁止、職務専念義務
日本型企業は、仕事の成果で処遇に格差をつけず、全員を平等に扱う平等主義を目指してきた。このため、能力や業績による格差を給与でも昇進面でも付けなかったのである。
■集団組織型のマネジメントはモラルが高い場合だけ機能する
高度成長時代は、組織と職員は文字どおり運命共同体だった。プロジェクトXのように、組織メンバーが一致団結して目標に向かって邁進する。組織の実態や働くものの本音を知らない学者や評論家は、そのように濾過された組織増や人間像をもとに経営や労働の問題を語る人もいる。だが、集団主義の下で個人の力が結集され、組織として責任がある行動を取ることができるのは、メンバーのモラールやモラルが高いときだけである。それが、低下した場合は、個人の匿名性を逆手に、組織を隠れ蓑にした規範意識なき、私益の追求が横行してしまう。
組織的犯罪や不祥事はこれまで、組織に忠実なある意味で模範的な組織人によって引き起こされると考えられてきた。だが、サラリーマンの大半は、組織に対してそれほどコミットしているわけではない。とくに、近年はリストラや能力主義の影響もあって、本当の意味での組織に対する一体感や忠誠心は失われてきている。
組織が将来の保障を担保できなくなり、リストラが強化され、従業員の関心が仕事の内容から離れ、上司の顔色ばかりを気にしなければならなくなったらどうなるか。当然のことながら、仕事の質も生産性も低下していく。
■管理マネジメントにそっぽを向く優秀な職員
こうした大企業病を克服するため、様々な「組織活性化」対策が打ちだされている。例えば、90年代に普及した「目標管理」がそれである。これは、課、チーム、個人と組織段階で目標を設定し、個人を動機づけ、組織活性化を狙った制度である。
だが、組織の論理と個人の論理との間にズレが残されたままでは、いくら改革を行なって表面上、それを糊塗してみても、期待したどおりの成果はあがらない。
むしろ、従業員の異動が閉じられた中で、限られたポストをめぐって仲間同士のゼロサム型の競争を激化させるだけに終わる。
「コンピテンシー」というマネジメント手法もある。高い業績をあげる優秀な営業マン。創造性の高い技術者たちは、多くの情報チャンネルを持ち、異質な専門分野の人々とも頻繁にコミュニケーションを取っている。こうした人々にインタビューを行ない、行動特性を抽出し、組織成果に活かそうというノウハウである。
だが、そこで組織から探られるのは、個人にとって何よりも大切な仕事やキャリア形成上の財産なのである。技術情報や顧客情報が大きな価値を持っていることを誰もが知っている。それを誰が気前よく他人にオープンにするだろうか。いちばん大事なコツや勘所はよほどの見返りがない限りは教えようとはしないであろう。
まして、転職や独立を考えれば、自分の情報をどこで使うのが最も得かを計算する。いくら組織が情報の共有を呼びかけても、それに見合う対価をもらえなければ、情報を出しおしみするようになる。実際、「自分のノウハウを仲間に教えるかどうか」という質問に、「そうだ」と答えるものは、アメリカの企業よりも四割も少ない。
これは、個人の知的な貢献をきちんと評価する制度が整えられていないこと。部下が手に入れた情報を横取りする上司や、他人が持ち寄った情報にタダ乗りする同僚がいるためである。日本では仕事は組織でするものというタテマエがある。自分の名前を出してアピールすることははしたないという文化もあった。そこで、成果があがれば、それは組織の業績か、組織を束ねる組織長の功績になってしまう。
ОJTも教える側が教え惜しみをするようになってきたため機能しなくなってきている。教えてもらう側には「教えてくれて当然だ」という意識が残り、心血を注いで教えても恩義を感じる人が少ない。これでは、教える側はますます教える意欲を失ってしまう。
QCサークルも日本を代表する組織運動だったが、最近は参加が低下し、不満が高まっている。
それまでは勤務中に認められていた自由時間も削減され、規則が強化され、人間関係もギスギスし、協力的な姿勢を失うようになった。
■管理マネジメントにそっぽを向く負け組の職員
帰属意識が低下し、組織への帰属意識は低下し、個人主義が進んで、もはや組織は一枚岩ではなくなってきている。組織が唱えるタテマエ論に従業員がそっぽを向いているうちは、まだいい。そして、実際に行動として組織離れをしてしまうのであれば、問題は簡単である。だが、日本では転職をしようにも、超えなければならないハードルが高い。多くの人は転職を思いとどまる。
いわゆる価値組と負け組とがはっきりしたとき、負け組の社員が開き直って組織に居座り、無責任な行動をとる可能性も出てくる。むしろ、組織にぶらさがることで自分の生活を守り、利益を得ようとする功利的組織人が増えている。日本型雇用を逆手にとったモラルハザードと言えるだろう。
仕事が忙しかろうが、客があろうが、お構いなしに休暇をとり、時間が来れば帰ってしまう。そんな若者が増えていると管理者は嘆く。結局、正直者が馬鹿をみることになり、それまで誠実に仕事をしていたものまでもが、功利的・打算的に行動するようになっていく。
実は平等主義は、人間に優しいようで、優しくはない。成果があがらない人間には「あの人が足手まといになっている」「給与泥棒だ」と陰口をたたかれ、プレシャーもかけてきた。一方、成果をあげる人間からも、給料はもっと少なくても良いから、自由な時間が欲しい。いくら給料をもらっても、それを使う時間がない、という本音が聞かれる。
■公務員を攻撃する市民
大企業の組織やマネジメントの原型は、公官庁等の行政組織である。この行政組織は典型的なタテマエ組織である。
例えば、ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーによれば、官僚的な職務活動には徹底した専門トレーニングが必要であると主張している。
だが、実際に公務員はプロとしての実態を備えていない。脈絡のない人事異動は、専門的な知識や能力を身に付けることは困難である。だが、全く経験のない部署に配属されても、着任されたその日からプロとして責任を果たすことを求められる。また、年功序列がかなり純粋な形で残っており、専門的知識や革新性など以前よりもいっそう重要な能力が求めらてはいるが、地位にふさわしい能力を身に付けているというタテマエが現実と乖離している。むしろ比例しないといった方がいい。いくら有能な職員を抱えていても、それを活用できないし、それが原因で機能不全に陥ることもある。
また、公務員では志しが高く、打算的には行動しないということが前提になっている。待遇を下げても手抜きをしないし、転職もしない。市役所の入口にはオンブズマンと称する人たちが立っていて、職員の働きぶりを一日中監視していることもある。だが、公務員の出世意欲・昇進志向は、民間企業の社員には決して引けをとらない。公務員の中でも高級官僚たちが退職後に天下りをすることが批判の的になっている。
マスコミは右から左まで公務員に対して厳しい。ごく些細な不祥事やスキャンダルまでその餌食とされる。公務員=強者、一般市民=弱者、という前提で、マスコミは弱者である一般市民の立場を代弁するという構図が描かれている。そして、市民派を自認する一部知識人や文化人たちも、こうした立場に立つ。これは一種のオピュリズムである。
おそらく、彼らも公務員が本気で強者だとは思っていない。公務員が恵まれた立場にいるという虚像と、批判に対しては反論の手段を持たない弱者だという実像のギャップが大きいからこそ、攻撃するのに好都合なのである。政治家、大企業社員、銀行員等、強者に祭り上げられている者を攻撃する側には、「公」の名を借りた「私的感情」が見え隠れする。市民派や市民団体を名乗るグループのなかには、責任ある立場についたとたんに自壊するものが少なくない。
■求められる健全な利己心の発露
経営者は、人生は金ではないとか、これからはポストではなく仕事だといった教訓を垂れる。そして、若者の志しのなさが繰り返し指摘される。だが、若い学生やサラリーマンも意外に自分の生き方や将来について真剣に考えている。
今必要なのは、健全な利己心である。とかく、利己心は良くないものだと決めつけられる傾向があるが、利己的な活動を否定した共産主義の実現が、結局失敗に終わったのは、人間の欲望を抑えることがいかに難しいかを物語っている。
これまでは、この欲求を表に出すことを自制し、仕事の目的を自己実現や自分の成長というあたりまえの答えで逃げてきた。だが、本当は若者も目立ちたいのである。有形の報酬はいうまでもなく、金とモノだが、無形の報酬である他人や周囲からの評価。いわゆる名誉欲や自己顕示欲が人間にとっては重要なのである。だが、日本のように年功序列や長幼の序を重んじる風土のもとでは、職業人生の後半にならなければ、地位や名声は手に入れられない。
もちろん、人には色んなタイプがいる。周囲の人間との人間関係の中で平穏な生活を送ることに満足している人も少なくない。与えられた環境の中での単調な仕事を行なうことも幸せだし、同じ人でも時期によって違っていい。
組織改革が成功するかどうか。それは本音が共有できるかどうかにかかっている。情報の共有についても、楽をして他人の情報をタダで手に入れたい、というだけでは単なる利己主義になってしまう。だが、価値のある情報には相応の見返りを与えるべきだ、という本音は、同僚や組織利益とも調和する。共有できない本音は、短期的にはともかく、長期的には通用しない。身勝手な行動に対しては相手も必ず対抗措置をとるからだ。それはゲーム理論からも明らかである。つまり、健全な利己心は、自分のエゴだけを押し通すのではなく、他者との共存を図る本当の個人主義につながる可能性がある。共有できる本音は、本当のパブリックであり、タテマエの方は、本当の意味でのパブリックでないからである。
■外部評価を受けて独立自営を目指そう
不正や不祥事はいわゆる組織を隠れみのにして行われたり、いわゆる密室人事と深く関わっている。そこで、一種の情報公開によって、個人の仕事ぶりとそれに対する評価の正しさを世間にチェックしてもらうことが必要である。重要なことは、評価される場を組織外に置くことである。組織の中で認められたい、注目されたいという意識が強くなりすぎると、嫉妬や足の引っ張り合いなど、非生産的現象も起きる。だが、広い外の世間ではそれが起きにくいし、会社という狭い世間の中で認められるだけでは物足りないという人は多い。組織に属していても、半分は独立自営のように働くことが求められているのである。
引用文献
太田肇『ホンネで動かす組織論』(2004)中公新書
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