◆愛恋傍観者 その壱




日織の場合、何か腹に据えかねることがあったとしても、それを誰かに八つ当たりすることが滅多にない。
滅多にないけれど、その数少ない(八つ当たりをされる)対象はきちんと存在するわけで。




「帰ったぞ」
『にゃー』


撮影を終えた磯前が帰宅した時、お帰りなさいと出迎えたのは日織が飼っている猫だけだった。

「?」

構って欲しいのか、長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら纏わりついてくる猫を抱き上げて、磯前は何とはなしに日織がいるだろう台所へ足を向けて…何処にも寄らずに真っ直ぐ帰宅したことを後悔した。

「ああ、お帰りなさい旦那。今日は久々に蕎麦を打ってますから、もうちょいとだけ待ってて下せえな」

何故ならそこで出迎えた日織が、実に爽やかな笑顔で蕎麦を打っていたからだ。

「…蕎麦なのか」
「ええ、蕎麦ですよ。旦那お好きでしたよね?」
「そりゃ好きだが。…お前の打った蕎麦か」
「おや、何かご不満でも?」
「蕎麦に不満はねえよ」

仕事やバイトがない日の日織が、磯前の帰宅を見計らって夕飯の支度をするのは何時ものこと。そしてその支度をしている間構ってもらえない猫が、代わりに磯前に擦り寄ってくるのも何時ものこと。
日織は普段の食事は勿論のこと蕎麦を打つ腕も中々のもので、舌の肥えている磯前でさえ、下手な店で金を払って食べるのが馬鹿らしくなるくらい美味いと認める所なのだが。

「ちょいとばかし、こう、内に溜めておくには嫌なことがあったもんで」

と、清々しい(磯前からしたら黒々しい)笑顔ではっきりと答える時、その鬱憤を全て蕎麦に籠めている事を知っているせいで、味はともかくその後のことを考えて少々鬱々としてくるのだった。

「蕎麦は美味いんだが…」
「だが、なんです?」
「何か言いたいことがあるなら、俺に食わす蕎麦に八つ当たりしねえで直接言いやがれ。ま、大体は坊主のことだろうってのは予想がつくがな」
「…………」

詳細を聞かされる前にずばりと言い当ててやると、日織は菊練りを終えて手際良くへそだしへと移ろうとしていた手を止め、じっと恨みがましげな視線を磯前に向ける。

「…だって、旦那に八つ当たりする訳にゃいかねえし」
「一応気を遣ってたのか」

日織らしいずれた気遣いに呆れつつ、それでもどのみち鬱憤の理由を聞かされることには変わりのない磯前としては、最初からはっきり話してもらった方がまだ気が楽だと嗜める。

「えーと、ですね」
「なんだ」
「和さんから、俺相手じゃドキドキしねえと言われました」

が、蕎麦を打つ手を再開させながらの日織の言葉に、流石の磯前も何をどうツッこんで良いのか判らない。
…それどころか、今回は完全に地雷を踏んだかと、猫を抱いたまま心の底から嫌そうな渋面になってしまう。



「成瀬さんじゃないから無理なんだそうですよ」
「いつも言ってるだろうが。まず、きちんと説明しろ」
「ですから…」



日中、和が遊びに来ていたことから始まって、成瀬との関係を悩んでいることを相談されたこと、それに対して日織がどうアドバイスしたかまで。


余程話を聞いてもらいたかったらしく、磯前に相槌を打つ間さえ与えずに語りだす日織だが、その間にもしっかりとへそだしからそば玉を作り出し、そのまま地のしへと作業を移して手を休める事はなかった。


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