朝のひととき 前編




あまり知られていないことだが、実は安積は朝に弱い。
とはいえ、何も刑事として致命的なほど極端に弱いわけではなく。
ただどちらかと言えば、目が醒めてから頭がすっきりとするまで普通よりは少々時間がかかる程度のことだから、安積自身あまり気にしてはいなかった。






…はずだった。








「……」

何やらいい匂いがする。
そう感じた嗅覚が思考よりも先に目を覚まし、そこからやっと安積の意識がいつものように爽やかとは言い難いぼんやり具合で覚醒して。


「おはようさん」


ぼんやりしたままベッドから起きだし、いつものように目を覚ますためにも顔を洗おうとふらふらと洗面所に向かったところで、キッチンの方から憎たらしくなる程に元気で爽やかな声に出迎えられた。

「………おはよう………」
「おいハンチョウ、本当に起きてるのか?」
「……ん……」
「ちゃんと目を醒ませ。まだ時間はあるが、だからといってあまりのんびりし過ぎると遅れるぞ」
「ん…わかっている…」

甲斐甲斐しいというか、まめまめしいというか。
朝の挨拶を交わしているにも関わらず、未だ何処か夢現つな反応を見せる安積に発破をかける彼がその手に持つ皿には、綺麗に焼けたハムエッグと、彩りに添えられたミニトマトとブロッコリー。
何時も朝食を抜いてしまいがちな安積とそして勿論自分の健康管理の為、普段はあまり使われることのないキッチンにも関わらず、勝手知ったるなんとやらでもってその男は手際よくテーブルの上に並べてゆく。

「こら、ぼんやりしてないでさっさと顔を洗って着替えて来い」
「ん…」
「ハンチョウ」

しかし何かを言うわけでなく、只その様をぼんやりと眺めているだけの安積に気付き、男は呆れ顔を隠さずに安積の顔を覗き込む。

「まだ寝呆けているのか?それとも朝でも格好いい俺に見惚れてるのか?」
「…………ん……………ッ、そんなわけがあるかっ!」

覗き込みついでに息も触れ合う程の距離まで顔を近付け、同性として憎たらしくなるほどに精悍で男らしい野性的な笑みを浮かべてやると、そこでようやく安積の頭が回転し始めたらしい。
ぼんやりとしてふわふわと頼りない雰囲気はなりを潜め、代わりに瞳にいつもの安積らしい力強さが戻ってきた。

「ようし、やっと起きたな。さあ今度こそ顔を洗って着替えて来い。その間にパンを焼いておく。何枚だ?」
「朝から何枚も食えるわけがないだろう。一枚だけでいい」
「それだけで足りるのか。…寝起きが悪い上に相変わらず食が細いな」
「うるさい」

覚醒すると同時に近付けていた顔を押しやるが、パンの袋に手を伸ばしながらもおかしさにくつくつと喉で笑う男に、安積は一睨みをくれてから今度こそきちんと洗面所へと向かう。
そしていつもの流れで身仕度を整えると、しっかりとした表情で現れ椅子へ手を伸ばし腰を下ろす。

「…いただきます」

自分一人ではこんなにきちんとした朝食をまず摂ることなどない安積は、甲斐甲斐しく面倒をみられることが気恥ずかしいと思う反面。
誰かと食事をすることの温かさと、その感謝の気持ちは忘れずに手を合わせてからパンに手を伸ばす。

「ハンチョウ、今日も遅くなるのか?」
「そうだな…昨日漸く水上署の帳場から開放されたし、何かしらの事件がなければそんなに遅くなることはないと思う」
「そうか」

新聞に目を通しながらパンを口に運ぶ安積へ男は他愛もない話題を振り、それに安積が答えるといった簡単な会話をしながら食事を進めれば、忙しい朝の時間はあっという間に過ぎてゆく。

「忘れ物はないか?」
「ああ」

いつもよりは多少早めながら、そろそろマンションを出るか…と腰を上げた安積に、男は新聞を取り上げ代わりにバッグを持たせてやって。
そうしてまるで出勤する夫を見送る妻なさがらに玄関までついていくと、靴を履くために狭い三和土に足を下ろしかけた安積がはたと動きを止めた。



「…おい」
「なんだハンチョウ」




起き抜けの寝ぼけている時ならまだしも、きちんと朝食を摂り、今々出かけようとしたこのタイミングまで何故気付かなかったのか。







「速水、どうしてお前がここに居るんだ?!」







あまりにも自然すぎて違和感がなかったが、ここは確認するまでもなく安積だけが暮らす上目黒のマンションだった。



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