040606 今、現在の幸せ


あれぇ、雨が降ってきたよぉ。久しぶりの雨だなぁ。でも、私は今治療室に行くために外に出ようとしていたところなんだよぉ。
雨が降っていると、右手に白い杖を持って、左の手に傘を持ち、それからその傘の手元に、毎日持ち歩いているかばんをぶらさげて歩かなければならないよ。かばんが重いから左の腕がくたびれて、もう雨の日は大変なんだよね。
なにも今、雨は降らなくてもいいのにね、夜中に寝てる間に降ればいいのにねぇ、と不足を言っているこの私がここにおる。水の恵み、ありがとうとも言わず、不足を言いながら出かけて行く、今朝の私です。
外に出てすぐに、知り合いの奥さんと出会いました。この奥さんは、花が大好きな方で、植木鉢を沢山庭に置いて、植木を楽しんでいる。
その奥さんが言われました。とってもありがたい雨ですね、久しぶりの雨です、植木鉢の花が生き生きとしていますわ、ありがたい雨ですと、喜んで声をかけてくれました。
雨は雨なのに、人はそれぞれの思いによって、この雨をにくく思う者あれば、喜ぶ者もいる。
幸せとか、不幸せとか、運が良いとか、悪いとか、決め付けることは、自分の思いで決めているんですよね。また、その思いで、私達は苦しんでいるんです。
雨が降ってきた、自分の都合で、良いとか、悪いとか、言わないと気がすまないこの私、これだからいつまでたっても楽にはならんのですね。
今、現在の自分を正しく見なければいけないのよね。つまり、贔屓目では見ないようにしたいもんです。雨が降ってきたら、その雨を、良いとか、悪いとか言わない。
雨が降っておれば、今日は雨だなぁ、雨の日には、雨の中を、風の日には風の中を、晴れの日には晴れのなかを、悲しい日には悲しみを抱いて、楽しい時にはうきうきとして生きていく。
つまり、いただいている今、現在の境遇をそのままいただいていく明るい生活でありたいもんです。それは、いただきかた一つなんですよね。人は心で生きているのだから。
そこで、次の大島先生のおことばがいただけてきます。


幸せ求めた者に、幸せは来たことがない。
幸せはなまずを素手で捕まえるようなもの、ツルツルと逃げていく
幸せは掌で受けるものです。



私は自分の足元をしっかりと見て行く人生でありたいと思っています。もし、自分が不幸せだと思った時は、それは思い込みと言うことですよね。自分の重いが不幸せにしているんです。
大地の恵み、水の恵み、太陽の恵み、酸素の恵み、と私が生きていく最低限必要なものはすでに与えられている。
しかし、与えられても、与えられても、ありがとうと言えないこの私、本当に私はザルのような人間ですよ、謝り続けるしかないようです。
でもね、このように申し訳ありません、ごめんなさい、と言う心を持てた人をナムの人と言うんだよと、大島先生から教えていただきました。
今、宇宙いっぱいが全力で、この私を支えてくれている。この、今日の命というものに、ありがとうと言えない人間が、幸せを求める資格はない、と言うことを自分に言い聞かせているんですよ。
雨が降れば、なんで今、ふるんだよぉ、と水の恵みのご恩を忘れて、不足を言っているこの私、水なしでは生きられないこの身が、更に不足を言っている。
こんな、私が幸せになろうなんて、思う事事態が間違いだなぁ、人間は皆、幸せをボロボロこぼして歩いているようです。その先頭にいるのがこの私です。
でもね、世間で言う幸せとはちょっと違う幸せだけど、いただけますよ。
もし、幸せになりたかったら、飲めない海水を真水にしてくれて、降り注いでくれているこの天地いっぱいの恵みに手を合わせて深く頭を下げて、ありがとう、ナームと感謝すれば、幸せはただちにそこに集まって来ます。
そうなれば、やがて酸素を吐き出してくれる草木のご恩までも知って、草木に向かってナームと手を合わせる事ができますね。そうなったら不幸はなくなります。
また、その時こそ大いなる宇宙の無限の愛に包まれている時なんですよ。宇宙いっぱいに広がる永遠の愛にナームと言うことばによって触れ合う事ができたのです。
ナームと言うのはインドのことばで、手を合わせ、頭が下がる心なんです。人間は本来、手を合わせてありがとうと言いたいのではなかろうか?
片手にありがとう、もう片手にごめんなさい、合わせて合唱となるんですよ。宇宙の永遠の愛の光に照らされれば、非は私にあり、間違いは私にありました、といつも気付く人間になれるのよね。
そして、どんな時でも、おかげさまと気付いて、ありがとうと言える人になれるのよね。この、ありがとう、ごめんなさい、と言うナムの心を持つことによって、世界は変わるんですよ。
幸せに会いたかったら、頭の下がる心を身につけることです。大島先生は、朝目が覚めたら、朝一番の幸せに出会ってくださいと、次のように言われています。
今、一番欲しいものは、明日の朝また目をさまし、起きることです。金では買うことのできない朝の命です。
目が覚めて、奇蹟の朝をいただけたらまずそのまま、ふとんの上で正座して、今朝の命ありがとうと手を合わせて、ナームと頭を下げます。
その現在地は宇宙いっぱいに広がる永遠の愛のど真ん中です。宇宙の空間と時間の接点です。そこに、宇宙の愛は満ち満ちてきます。その時は、いかなる問題も消えて行く。
そして、一言、つぶやきます。


本日をいただきます、本日を生きます、本日ただいまありがとう、
何が良かろうと、悪かろうと、今朝の命いただけたこと最高の恵みの朝です。
立てて、歩けて、手が動く、今日は大安。



このように言わせていただいて、頭が下がれば、皆輝いて見えてきますよ。
いつも、下から仰ぎ見る、自分になれば、毎朝、幸せがこぼれてきます。今日も尊い命をいただいて、生かしていただいて、今の私がここにいます。
こんなおおきなしあわせをいただいておりながら、ありがとうとも言わずにおるとは、わたしはなんと言うご恩知らずであろうか。
ご恩を忘れるばかりの罪の深い自分です、と言う事をしっかりと見つめて行きたいと思っています。
だからね、こんな自分だもの、どうして妻や子供を責められようか。幸せに合いたかったら、頭の下がる心を身に着けることですね。足元を正しく見つめて行く習慣をつけて生きたいもんです。
私の人生ってほんとうに暗い面が多かったように思います。今人生をちょっと振り返って見ても、明るい部分はほんのちょっぴりって感じなんですよ。
仕事に関しても、家族に関しても、身体に関しても、皆そうなんですよ。でもねぇ、この人生の暗さが、頭が下がる心を与えてくれたように思います。
このように思えた時、次の大島先生のおことばが聞こえてくるんですよ。


私の人生には闇がある。闇をかついできた人生だった。
でもこの闇があればこそ、宇宙の永遠の愛に包まれる。



このおことばで、私はいつも力づけていただいています。この闇があればこそ、と言うこのことばですよ、ずいぶん助けられました。
あさがおの花を引き合いに出して、大島先生はお話してくれます。
あさがおの花は朝日に照らされて咲くように見えるが、あさがおに光を夜中も照らし続けると、あさがおは咲かずに散ってしまうそうです。実は、あさがおは闇の深さに咲くのです。
私の生まれ持ってきた闇が動くから、騒ぐから、悩むから、つらいから、宇宙の愛に会えるんだよね。
だから、苦しい事は、悲しい事は、不幸ではないんだよ。この苦しみや悲しみが、幸せを蓄えているんですよ。
楽が三日続くと、三日分の苦しみが蓄えられていく。やがて、楽が退屈になり、不満が出てくるように、人間はできているんですね。
逆に、つらい事が三日も四日も続くと、つらさに慣れてくる。つらさに慣れてくると、食べられなかったご飯も食べられるようになる。
つらさに慣れてしまえば、どうってことはなくなる。そして、その苦しみの間、楽が蓄えられている。
人生は、苦しみと楽が同じ時間帯でやってくる。雨の日数と晴れの日数は、地球の歴史上同じ割合だそうです。
降れば晴れます、晴れれば降ります。人の人生は悲しみや苦しみばかり続くものではないですよね。
悲しい時は悲しんでおきましょう、明日悲しもうと思っても悲しめないこともありますからね。悲しみはつかまえておけないもんですよ。しかし、逃げることもできません。
また、幸せもつかまえておけません。去って行く時は敬って送り出すしかありません、いずれまた、来てくれますからね。
悲しみと苦しみを受け止めながら、人は大いなる永遠の愛に目覚めて行く旅をしているんだと思います。永遠の愛のシルクロードってわけです。
だからね、人生に不幸はありませんね。生活には不幸はありますけどね、長い人生には、その苦労があればこそ、と言うことがあるんですよ。
ある女性が47歳の時に、がんで死んで行きました。がんよ、ありがとう、と言う本を書かれ、ベストセラーとなりました。人はがんまでも拝んで行けるのですね。
やっぱり、人生は尊い学びの場所なんですね。幸せは現在のご恩を知って、ありがとう、と手を合わせ頭が下がる時に真の幸せが満ちあふれてくれます。ナーム合唱

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