040706 大島一声先生のご法話から(2) 生きる悲しみと生きる喜び

私たちの人生においては必ず生きる悲しみと言うものが付いて廻ります。
どれだけ華やかに明るく振舞って、外見上喜びいっぱいで生きていようとも、苦しみは例外なく備わっています。生きる悲しみはどなたにも例外なくあるのです。
でも、その苦しみと言うことがどなたの身の上においてもちゃんと備わっている、と言うことを心から納得すれば、苦は解けて行くものです。苦しい中でも明るく生きられるのです。
昔、マリリンモンローと言うものすごく美しい女優がおりました。ものすごくグラマーな女性で世界中の男性から注目されました。
人気が絶頂期にあったころ、その最高の女優も孤独だったと言われています。本当に心から打ち解け合える人が誰も近寄って来なかったそうです。
また、スターともてはやされる人たちは皆さん孤独になっていくものです。


高い所ほど、風当たりが強い。高い所ほど、日当たりも強い。
光のまぶしい所では、影が深い。光を浴びる者ほど、影が深い。



スターたちや肩書きの付く偉い人たちは大変なんです。孤独になると本当に悲しいものです。きっと、多くの涙を流していることでしょう。
でも、流した涙が多いほど光ります。泣き上手の喜び上手。人生、涙を大事にするのです。
悲しみをいただいて愛に包まれる。喜びよりも悲しみのほうが、人間は目覚めていくのです。もしかしたら、この悲しみは永遠の愛からのプレゼントかもしれません。


人生、何事も、終わった時から本当にはじまる、無くなったところから拾われる、失ったところからいただく。
悪いこと、悲しいこと、つらいこと、だけで終わるものではない。
悪いこと、悲しいこと、つらいこと、の中に光があるのです。



生きる悲しみと生きる喜びと、二つあるようですが、二つあると言っても、円を画いているのです。苦しみも、悩みも、円を画いています。
丸くなっているのだから、なんともない時には、苦しみは裏に隠れているのです。悲しみや苦しみが表に出ているときには、裏には喜びがちゃんとある。このように、輪になっているのです。
悲しみ、苦しみ、喜びは同居しているのです。だから、今いただいている境涯はこれで良いと言うことです。
蓮の花はどろぬまの中に咲く花です。これは、咲くはずのない所に咲くから尊ばれるのです。
どろだらけの、きたない、よごれた、どろぬまに真っ白な花が咲きます。汚れてもいなく、染まってもいないから、尊ばれるのです。
蓮の花はきれいな砂浜の上ではさきません。やっぱり、きたないどろぬまの中で、一番清らかに咲くから尊ばれるのです。この清らかな蓮の花は、よごれから咲いたのです。
このように、どろぬまのような我らの人間社会において、何者にも染まらない、清らかなナムの花を、一人一人の身の上に咲かすのです。
悲しみ、苦しみ、と言うものが深い命の永遠の喜びに変わるのです。けっして、悲しいことやつらいことだけでは終わるものではありません。ナーム合唱

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