040806 大島一声先生のおことば まさかの坂
人生には三つの坂があります。登り坂に、下り坂、そしてもう一つの坂があります。それはまさかの坂です。
まさかぁ、こんなつらい目に合うとは思わんかったぁ、まさかぁ、ホレタ男がこんな人とは思ってもいなかったぁ。このまさかの坂があるわけです。
このまさかの坂を、大島先生は名付けて、アミダ坂、と呼んでいます。私達は皆、このまさかの坂をころげ落ちるもんだから、大島先生は、次のおことばをプレゼントしてくれているんです。
落ちてこそ浮かぶ蓮の花。
悲しみに永遠の愛が生きている。
永遠の愛の世界には、悲しみの深い者から救われて行くんです。人生、楽しいばかりの人は救われないですね。楽しくしていても、その裏には、悲しみがある、と言う事を知っておれば、てを合わせることができますね。
手を合わせ、頭を下げると言うことは、手を合わせずには、おれない、と言う悲しみがそこにあるわけです。これが、人生になかったら、人生はそれこそ、真っ暗になってしまいます。
お互いが好き合って結婚したけれど、十年もたたない内に、嫁さんが言われます。まさかこんな家だとは、知らなかったわぁ、あんたもこんな人とは、思わなかったわぁ。
このまさかの坂は、こんなはずではなかったのにぃ、と言うことですよね。これは皆、あてはずれ、と言うことではなかろうか?
実は、この私も、あてがはずれて、まさかの坂をころげ落ちている一人です。若い頃は、車を運転するほど、目が見えていたのに、今は全盲ですからね。
また、あの元気で、働き者だった家内は、交通事故でひとさし指を切断してからは、今は何の仕事も家事もできずに、家でゴロゴロしておるか、あるいはカラオケに行っておるか、どっちかですよ。
あぁあぁ、こんなはづじゃなかったのにぃ、と涙を流すこと度々なんです。このように、私の人生、あてにしていたものは、ことごとく壊れて、あてはずれ、となっていくんです。
まさかの坂をころげ落ちて、涙を流しながら、手をあわせていると、次の大島先生のおことばが聞こえてくるんです。
取られ取られて、はずれはずれて、壊れて行く。これがまさかの坂のアミダ坂。
この坂道を落ちきれば、思い切って悲しい身に会える。悲しみを大切に、と言う受け皿がそこにある。
その受け皿が人間になかったら、お先は真っ暗です。
何でもつらいことを言えてしまえば楽になる。その言える相手が永遠の愛でした。
永遠の愛に思い切って愚痴を言ってしまえば楽になる。その楽になることが、苦の中にある安心なのです。
この身はほんとうにつらいけどね、精神的には楽なんですよ。苦しみの中の安心を、しっかりといただくわけです。
お払いでもして、苦しみを無くそう、と言うのではありません。そんなことしたら、期待が外れた時、ますます苦しくなるだけです。
苦しみから逃げるのではなく、苦しみはそのまま受け止めて、手を合わせて、永遠の愛に包まれるんです。
その時は、この苦しみがあればこそ、永遠の愛に包まれる、と言うことになってくるものです。いただいた苦しみに、手を合わせて頭を下げることを、進められて行くことになるわけです。
これで、病気でも、災難でも、いかなる悲しみでも、楽になるんですよ。まずもって、心が楽になれば、身も楽になるものです。
生きる悲しみと苦しみを感じて行かねばならない人生は、誰も救われないんですよ。頼りにして来た物は、皆壊れて、皆去って行くもんなのです。
つい先日、私は思わず一言つぶやいてしまいました。その時、口にしたことばは、おれの人生、なんじゃったのかなぁ、と言うことばでした。
ちょっと、自分の人生を振り返って見た時、何か悲しくなって、さみしくなって、思わず出て来たことばだったんです。
家庭の事、仕事のこと、家族の将来のこと、あてにしていたものは皆壊れてしまうし、夢を画いていたものは、それこそ夢幻のごとく消えてしまうし、もう悲しくなるばかりだったからです。
でもよく考えてみると、このことばこそ最も深刻なことばではなかろうか?私達は、このことばを隠し続けて、ここまで来たのではなかろうか?
私の人生、なんじゃったのぉ?何の為の人生だったのかぁ?この深い命の声を隠し続けてここまで来てしまったのではなかろうか?
今、ついに隠し切れなくなって、おれの一生なんじゃったのかぁ?と私は叫んでしまったのです。私の生きる悲しみの集約されたことばかもしれません。涙があふれ出て止まりませんでした。
そう言えば、私の治療室でも、何度も患者さんからこのことばを聞かせてもらいました。そして皆さん、涙を流しておられましたね。私も、このことばをつぶやきながら、真っ赤に染まった夕日に向かって、涙を流しながら、深く頭を下げてナームと手を合わせていました。
その時です、次の大島先生が心からプレゼントしてくれた永遠の愛の声なき声のおことばが聞こえてきて、涙の中で心からいただけました。
泣くだけ泣きなさい。泣くだけ泣いたら、手を合わせなさい。永遠の愛の手の中に帰りなさい。
人間に生まれて来たと言う事は、何も当てにならない、と言う事を教えてもらう旅であったのです。
そして、手を合わせ、永遠の愛に包まれる、まことと言う教えに会う旅であったのです。
人間はこの世に何の為に生まれて来たのだろうか?この問いにすぐに答えられる人は少ないですね。
料理の好きな奥さんなら、おいしい物を食べる為に生まれてきたのよ、と答えるかもしれませんね。また、お金が好きな人なら、金持ちになる為に生まれて来たのよ。と答えるかもしれませんね。あなたは、どのように答えますか?
私は、今はっきりと答えます。それは、本当のものに会いたくて、この世に生まれて来たんですよ。では、本当のものとは何か?それは、永遠の愛です。この、永遠の愛に会うための旅であったわけです。
その永遠の愛に、今会った私が、ナムの命と言うんです。そして、このナムの命の私を、包み込んでくれた永遠の愛を、インドのことばで、アミーターと言います。この、アミーターの愛に包まれたこの私です。
この包まれた命と包み込んだ愛とが一つになって、ナムアミーターとなりました。この、今まで離れ離れであった、親と子が出会えて、一緒になれたような幸せを知るために、人間はこの世に生まれてきたんですよ。
私の人生の中で、仮りの物やら、にせ物やら、たくさん見せていただいて、本当に私の中に流れてくださっている、宇宙の永遠の愛、つまりアミタの愛に会わせていただいて、心から安心できたんです。そしてその時に、次の大島先生のおことばおいただけました。
一人一人の約束の、泣いた涙の下からも
にっこりいただくお念仏、心晴ればれ生きて行く。
一人一人のいただいた運命、悲しい涙の下からも、にっこりいただく永遠の愛。もし、永遠の愛がなかったら、私は一人ぼっちの人間でした。
この命を支えてくれる永遠の愛がナムアミーターだったんです。まさかの坂をころげ落ちて、永遠の愛に会えたんです。人間に生まれて来た意味がそこにあったんですよ。
ちょっと待ってくださいよ、とたのんでも、容赦無く壊れて行く、失われて行く、破られて行く、巡り会いの人生です。この私の人生こそ、永遠の愛をいただいて行く道場でありました。
だから、何事も包み隠さずに、泣くだけ泣いて、怒るだけ怒って、言いたいだけ愚痴を言って、底が無いほどに深くなったら、手を合わせるんです。
蓮の花はどろぬまの中で咲くんだよね。落ちてこそ浮かぶ蓮の花、と言うこの大島先生のおことばが、ここでいただけます。
本当につらいことだけど、尊いものは、痛みの中から生まれてくるようです。永遠の愛、すなわちアミタの愛は、悲しみの中におられるのですね。悲しみに永遠の愛が生きている、と言うこの大島先生のおことばが、ここで聞こえてきます。
人生、悲しみに会いたくはないけれど、やむなく悲しみに会った時には、子がお母さんに抱かれるような感じで、尊い永遠の愛に包まれます。これで、いかなる悲しみも、苦しみも、病気も、災難も超えていけるのです。ナーム合唱
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