041028大島一声先生のご法話から(3) 我が身知らずが鬼となる


地獄とは、他人を攻め続ける鬼と
自分を顧みない者の住む世界である。



自分を顧みない人と言うのは地獄をつくっているのです。
つまり、自分を知らない人間は他人を攻め続けます。
また、自分の運命を呪い続けます。また、人生を恨みつづけます。
それは、自分と言う者に会わないからです。
自分の目は、皆外に向いて、我が身を見る目を持たないのです。
自分を顧みない人は、どこに行っても、心は解放されません。
いつも、見る目が外に向かっているから苦しくてやりきれないのです。
どなたでも、一度は思う事であろう、
なんでこんな人と一緒になってしまったのだろうか。こんな、運の悪い事がどこにある。
しかし、このように思うと言う事は、その人の目は外に向いているのです。
目を内に向けて、それが本当に不幸な事か、どうか、顧みるべきなのです。
このような人生を歩む、と言うことは、わたしにとっては悪い事ではない、と言う知恵を持つことです。


ちっとも感謝できない自分に、一度、目を向けてみてはどうだろうか。
いつも腹を立てている自分に、いちど、腹を立ててみてはどうだろうか。
愚痴ばかり言っている自分に、一度、愚痴を言ってみてわどうだろうか。
外ばかり向いている目を、一度、自分に向けてみてはどうだろうか。



どうして、相手ばかりが悪いのか?
あいつが悪い、こいつがわるい、
社会が悪い、政治が悪い、総理大臣が悪い、社長が悪い、主人が悪い、
全部相手が悪くて、自分はちっとも悪くない。
これは大変な病気なのです。
だから、地獄の鬼とは、誰か?
自分を顧みない、我が身知らずの人です。
その我が身知らずが鬼となって、福の神を皆、追い払ってしまっているのです。
八十歳を過ぎたおじいさんが訪ねて来ました。
その、おじいさん言うのです、息子は競馬ばかりやっておる。
また、その嫁は朝寝坊で、なまくらで、料理はへたで、畑仕事もしない。
また、孫は悪い事ばかりやって、学校の先生に怒られてばかりおる。
この際、我が家をきちんとしなければいけないと思うんです。
だから、先生、うちの息子や、嫁や、孫が、きちんとした人間になれるようなことばを、
大きな紙に書いてくれませんか?と、頼まれたわけです。
そこで、私は言ってやりました。
それならば、じい様の方はどうなんだ?
あなたはどうしたもんでしょうか?と言ってやったのです。
すると、そのおじいさんは、私は何も問題ありません、どこもおかしくありません。
と言われるのです。
つまり、自分はどうもないから、人を治そうとするのです。そこで、わたしは書いてやりました。


そう言う、あなたはどうしたもんか?



このように、書いてやりました。すると、そのおじいさん、はっと、気付いて言われたのです。
八十年間、本当の自分に合わないで今日まで来てしまった。このように言われたのです。
そう言う、あんたはどうしたもんか、このことばで、気が付いたのです。
幼い頃、病気になって親を泣かせ、親に苦労をかけてきた。
自分のやってきたことが次から次に、頭にうかんできて、
あぁこりゃ、身から出たさびだなぁ。
親に、めいっぱい親不孝をしてきた、この私だったなぁ。
と言われて、このおじいさん、本当の自分に出会ったのです。
本当の自分に会えれば、恨みや不足はありません。


あいつどうにもならん、こいつどうにもならん、
人はどうにもならん、おらもどうにもならん。


そんなに怒るなよ、笑っていれば済むことじゃないか。
人には、あこなおせ、ここなおせ、と言うけれど
それじゃ、あんたはどこなおす。



東大を卒業し、出世した、ある大会社のエリートが、
ある日何らかの事情で、突然左遷されました。
すると、その人は、おれは地獄に落ちた、おれは裏切られた、おれは不幸だ、などと愚痴ばかり言うようになったのです。
それを見ていた息子は、東大を卒業したって、こんなことであれば、勉強などしたってしょうがない、
と言って勉強をしなくなりました。
すると、そのお父さんは、勉強しない者は人間のくずだ、と言って、
毎晩酒を飲んでは、息子を攻め続けたのです。
こんなことだから、毎晩親と子のいさかいが続いて、
ある日突然大きな事件となってしまったのです。
つまり、エリートとなって、出世しても自分の置かれている場所を、顧みることができない人間は、
自分の存在に、手を合わせて、ナムすることができないわけです。
ナム、と言うのは頭が下がる心であり、今、ここで生かされている自分に、感謝できる心です。
それは命の心です。ナムこそ命の花なのです。
そのナムのことばが言えなかったエリートのお父さんは、人殺しとなってしまったのです。
このようなことに近い人は沢山いるわけです。
だから、もう人を攻めることは止めましょう。
人を攻める前に、まずは、自分を顧みることです。
どんな立派なエリートでも、心が貧しければ不平と、不満しかありません。


悪口と、言い争いは忘れ去ろう。
争えばきりがない。
恨みは恨みを持っては終わらない。
勝っても負けても皆夢。
やがて、時間が解決してくださる。
私は人さんから悪口言われる。
でもそれは私の悪のほんの少々です。



自分自身をよく知ることです。知れば知るほど、ごめんなさいと、頭が下がってきます。
人を攻められる自分ではないことがつくづく判ってきます。
悪い自分ばかりが心に写し出されてくるのです。


良いことはおかげさま、悪いことは気付かしてくださる。
良いことも、悪いことも、手を合わせて拝むことができます。
それが、命の営みと言うことです。



人の一生において、何が残るのだろうか?
結局、何も残らないのです。残る物は、心のことだけなのです。
だから、喜んでもらうことを喜ぶ。
喜んでもらったことが、本当に心に残っていただけるのです。


おれの人生よかったなぁ、何が良かったか。
喜んでもらったことを、喜べる人生だったから。



金も、土地も、財産も、持ち続けることはできません。
結局は、喜んでもらったことだけが命の美しい後味なのです。
喜んでもらった、この道だけが永遠に不滅であります。
ナムの心をいただき、我が身を顧みながら、明るい人生を歩んで行きましょう。ナーム合唱。

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