山口の伝説
武士や姫の話
般若姫 〜柳井市〜
熊毛郡平生町と柳井市にまたがる神峰山(しんぽうざん)のいあただきにのぼると、
西におあだやかな周防灘、東に大畠の瀬戸を見下ろすことができる。
この神峰山に、豊後の国(大分県)の満野の長者が建てた般若寺というお寺がある。
石段の参道の近くには、二つのお墓がよりそうように立っている。
それが、用命天皇と般若姫のお墓である。
今から千四百年もむかしのことである。
奈良の都のある大臣(おとど:たいへん位の高い人)の子に、
玉津姫(たまつひめ)というたいへん美しい姫がいた。
ところがどうしたことか、十八のとき、姫の顔に、にわかにあざができ、
みにくい顔にかわってしまった。
そのため、およめに行くこともできず、悲しい毎日をおくっていた。
たまたま、大和の国(奈良県)磯城郡(しきぐん)三輪の里の三輪大明神(みわだいみょうじん)に
お参りすればあざがとれ、およめに行くことができると聞いた姫は、
さっそくお参りして、いっしょうけんめいいのりつづけた。
満願の夜のこと、姫のゆめの中に白はつの老人があらわれて、
「おまえの夫となる者は、遠くはなれた豊後の国にいる、炭焼き小五郎いうおろかな男で、
自分の名さえ知らぬ。
その者とめおとになれば、あざもとれ、大金持ちになって家もさかえるであろう。」
と、つげて消えた。
玉津姫は、これはきっと三輪大明神のおつげにちがいないと、両親のゆるしをえて、
一人で豊後の国へ旅だった。
豊後の国へたどりついた姫は、
どこで炭焼きをしているかわからない小五郎をたずねあるいた。
何日もたずねあるいて、やっと、とある山の中の炭焼き小屋の前で、
小五郎らしい男にめぐりあった。
男は、着物だけでなく顔も手も足もまっ黒によごれていて、
目だけぎょろぎょろさせていた。
姫はおそるおそるたずねてみた。
「小五郎どのではありませんか。」
男は、姫をまぶしそうに見ながら言った。
「そうじゃ。おれが小五郎じゃ。」
「まあ、よかった。」
姫はこれまでのわけを話し、小五郎の妻にしてくれるようたのんだ。
小五郎はびっくりして、
「ごらんのとおり、まずしい男です。とてもあなたをしあわせにすることはできません。」
とことわった。
けれども、姫とおし問答をするうち、姫のひたむきな気持ちに負けて、
とうとうめおとになることをしょうちしてしまった。
ところで、めおとになっても、小五郎は何も食べるものがない。
そこで姫は、ふところからきらきら光る石をとり出して、
「これを持っていって、町で米やなべを買ってきてください。」
と、小五郎にわたした。
小五郎は、言われるとおり町へ出かけたが、しばらくすると、何も持たずに帰ってきた。
ふしぎに思った姫がわけを聞くと、
「町へ行くとちゅう、池に水鳥がいたのじゃ。
とらえてごちそうにしようと思い、石を投げつけたのじゃが、
水鳥はにげて石は池の中に落ちてしまったのじゃ。」
という。
それを聞いた姫は、
「あの石は黄金(こがね)といって、何でも買えるたからの石なんですよ。」
と、残念がった。
「なあんじゃ。あんな石なら、わしの炭焼きがまのあたりにごろごろしているわい。」
小五郎はわらいながら言った。
姫は、まさかと思いながら小五郎についていった。
小五郎の言葉はうそではなかった。
炭焼きがまの下の谷間に、きらきら光る石があたり一面にころがっていたのだ。
ふたりは黄金をひろいあつめて家に持ち帰った。
家に帰るとちゅうに、小五郎が黄金を投げ入れた池がある。
その池のところまで来ると、姫は、池に入ってからだをあらった。
小五郎も飛び込んであらった。
すると、ふしぎにも、姫のあざはきれいに落ちて、もとの美しい顔になった。
小五郎も、たくましく、りりしい若者になった。
何年かたち、小五郎は、この地方いちばんの長者になっていた。
ある月夜のばんのことだ。
その夜、小五郎の家では、リュウがすんでいるという池をつぶして、
りっぱな田畑にしたおいわいの酒盛りをしていた。
酒盛りがたけなわのころ、ひとすじの月の光が姫のむねにとびこんだ。
姫はきをうしなってたおれた。
その夜、姫のゆめの中に、あの白はつの老人があらわれた。
老人は、姫の中に月の精がやどったから、やがて子どもが生まれるであろうとつげた。
それから何か月かたった。
はたして、おつげのとおり玉のような女の子が生まれた。
小五郎夫婦はたいへんよろこんで、女の子に半如姫(はんにょひめ)という名前をつけた。
その子の舌の先に、三日月のほくろがあったからだ。
半如姫は大きくなるにつれて、この世の者とは思われないほど美しい娘にしだっていった。
その美しさは、中国の絵師が、わざわざ美しい姫のすがたをえがきにやってきたほどだ。
「それにしても、半如姫という名はよくない。
ほとけさまの生まれかわりのような美しい姫じゃから、
般若姫(はんにゃひめ)と変えたほうがいい。」
といわれ、小五郎夫婦は、姫の名を般若姫と変えた。
姫の美しさは、やがて遠い奈良の都までつたわった。
天子の四番目の皇子、若宮橘豊日皇子(わかみやたちばなのとよひおうじ)は、
ぜひ姫をきさきにしたいと思って、たびたび長者のもとに使者を出した。
しかし、小五郎は、
「かわいいひとりむすめでございます。このことばかりはおゆるしください。
そのかわりに、お望みのものはなんでもさしあげます。」
と、姫をさし出すかわりに、黄金やたからものをおくりつづけた。
やがて、天子にも小五郎の気もちが通じて、「豊後三重の里(ぶんごみえのさと)、
満野の長者(まののちょうじゃ)」と名のることをゆるした。
いっぽう、若宮は、般若姫をきさきにむかえたい気もちが、
日ごとにつのるばかりであった。
とうとう、若宮は、都をこっそりぬけ出して、姫のいる豊後の国へ入った。
そして、みすぼらしい牛かいに身なりをかえ、名も山路(さんろ)とかえて、
長者の家に住みこんだ。
ちょうどそのころ、姫はふしぎな病にかかった。
小五郎は、あれやこれやと手をつくしたが、ちっともよくならない。
そこで、夫婦して、日ごろ信じている三輪大名人へおいのりをした。
ある日のこと、白はつの老人が妻の夢の中にあらわれてつげた。
「笠掛けの的を矢でうちぬくことができれば、姫の病はなおるであろう。」
次の日、長者のふれをきいて、うでじまんの者たちが、長者の家におおぜい集まってきた。
いよいよ的うちがはじまった。
ひとり、ふたり、三人・・・・・・と、弓に満身の力をこめて矢を放っていたが、
だれひとりとしてうちあてる者はいなかった。
「だれか、みごとに的をうちぬく者はいないか。
ほうびはなんでもとらすぞ。だれかいないか。」
小五郎は、いらだって、集まっている村人にさけんだ。
そのとき、
「わたしがやりましょう。みごとにうちぬいたら、姫をいただきますぞ。」
と名のり出た者があった。牛かいの山路だった。
山路は広い庭のまん中に立つと、的をめがけてきりりと弓をひきしぼった。
矢がつるをはなれた。一直線にとんで、矢はみごとに的をうちぬいた。
どっと歓声があがった。
このことがあってから、姫の病はみるみるうちによくなっていった。
ある日、長者は
「ただの牛かいではござるまい。なにかわけがあるお方では。」
と山路にたずねた。
山路は身分をあかし、じぶんの気もちを長者に話した。
長者は、若宮の思いつめた心におそれ入り、ふたりのために、りっぱな家まで建ててやった。
いっぽう、都では、若宮のすがたがみえなおので大さわぎをしていた。
若宮をさがしもとめて、八方手がつくされた。
しかし、なんの手がかりもなく二年の月日がたった。
ある日、都に出入りする豊後の商人が、
若宮らしい若者が満野の長者の家にいることを役人に知らせてきた。
天子は、さっそく豊後へ使者をおくった。
若宮はまよった。ふたりの間には、もうすぐ子どもが生まれる。
般若姫をのこして都へ帰るのもつらい。
おなかの大きい般若姫を、きけんな船旅につれ出すことはできない。
あれやこれやとなやんだすえ、若宮は決心した。
つぎの日、若宮は、使者とともに船で豊後の国をあとにした。
般若姫と別れるとき、
「生まれてくる子が男ならいっしょに都にのぼれ。子どもは皇子としてあとをつがせたい。
女の子なら長者のあとをつがせ、姫だけ都へ上るように。
そなたをきさきとしてむかえよう。」
と、かたいやくそくをして都へ帰った。
やがて姫に女の子が生まれ、玉絵姫(たまえひめ)と名づけられた。
般若姫は、若宮とのやくそくどおり玉絵姫を長者夫婦にあずけて、
百二十せきのおともの船と都へ上った。
般若姫一行は、おい風にのっておだやかな周防灘(すおうなだ)の旅をつづけていた。
大畠の瀬戸を通りぬけようとしたころ、風向きが急にかわった。
強い風がふきはじめ、大しけになった。
雨雲が空をおおい、いなずまが雨雲をひきさいて光った。
船は木の葉のようにもまれた。
般若姫は、ひっしにお経をとなえ、あらしがおさまるのをいのった。
だが、あらしは強くなるばかりである。
ともの船のほとんどは、みるみるうちに大波にのまれていった。
般若姫は、
「これはきっと、竜神(りゅうじん)さまがおいかりになっているのにちがいない。
わたしが海に身をなげて、竜神さまのおいかりをしずめよう。
わたしのなきがらは、都の見える神峰山のいただきにほうむってください。」
と、おとものものにたのんで、あれくるう海へ身をしずめた。
風はまもなくしずまり、うねりもやわらいだ。
空もはれて、おだやかな瀬戸の海にもどった。
それからしばらくたって、このことが、天子(用明天皇)に伝えられた。
天子はひどく悲しんで、姫のなきがらをほうむったという
神峰山(平生町・柳井市)のお寺を建てさせた。
寺は、姫の名をとって神峰山般若寺と名づけたという。
文:吉田清 絵:中川猪太郎
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