山口の伝説
武士や姫の話
大内人形 〜山口市〜


  今から六百三十年ほど昔のこと。

そのころ、周防・長門(山口県)、石見(島根県)の三ヶ国は、

二十四代めの大内弘世(おおうちひろよ)がおさめていた。

天皇の信頼もあつく、陽禄門院三条氏(ようろくいんさんじょうし)という公家の、

たいそう美しい姫を妻にいただいていたほどである。

  ところでこの姫は、みやこから遠くはなれた山口の地へ来たので、

いつもみやこをなつかしみ、さびしげであった。

弘世がいくらやさしくしても、姫の気持ちを引きたてることはできなかった。

弘世は、なんとかしてこの姫をなぐさめようと思い、

はるばるみやこからたくさんのむすめをまねいた。

そして、むすめたちを姫のそばへつかえさせ、話しあいてをさせた。

また、みやこや人びとのすがた形ににせた人形をたくさん取りよせては

姫のへやにかざって、姫の気持ちを引きたてようとした。

  人形はどんどんふえていって、人形を集めてかざった姫のへやのあるやしきは、

やがて人形御殿といわれるようになった。

そのやしきは、大内御殿といわれた弘世のすばらしいやしきの中でも、

とくに美しいことで有名になった。


  それから何年かたった。

みやこでは、足利将軍のいきおいがおとろえて、

多くの武将がたがいに相手の国をほろぼそうと争うようになった。

この争いは、やがて応仁の乱(おうにんのらん)とよばれる、

十一年にもおよぶ長いいくさに発展した。

日本をふたつにわけたこのいくさで、京のみやこも、焼け野原になった。

このため、みやこの身分の高い人びとや有名な画家や歌人などは、

みやこをのがれ、大内氏の山口にうつり住んだという。

そして、その人びとも、姫と同じようにみやこをなつかしむ気持ちから、

大内の人形御殿の人形にいろいろくふうをくわえた人形を作っては、

自分をなぐさめたという。

  のちに、この人形は、大内人形とよぶようになり、

みやこ風の上品さのなかに山口の土地がらのよさが生かされ、

かわいらしいことで有名になった。

今でも、山口県の名産として、大内塗りとともに人びとに愛されている。

      文:佐々木賞   絵:中川猪太郎

  

  ・山口の伝説 目次へ戻る

  ・豊徳園トップページへ戻る