山口の伝説
雪舟駒つなぎの絵馬(せっしゅう こまつなぎの えま)
〜山口市〜
山口市の湯田温泉から西へおよそ4キロメートルばかりはいった吉敷の滝河内(たきごうち)というところに、
龍蔵寺(りゅうぞうじ)という古いお寺がある。
龍蔵寺は、今からおよそ千二百年も前に建てられたと伝えられる寺である。
そのむかし、行基(ぎょうき)という僧が自分でつくた千手観音を安置し、龍蔵寺と名づけたという。
この寺に雪舟という名高い絵かきがかいたと伝えられる古びた絵馬がある。
これは、この絵馬にまつわる話である。
雪舟が山口に住んでいたころというから、今から五百年も前のことである。
「じつにみごとな絵じゃのう。まるで生きちょるみたいじゃのう。」
「さすが、日本一の雪舟さまがかいただけのことはあるのう。りっぱなものじゃのう。」
龍蔵寺の観音堂にかかげられた絵馬をみて、百姓たちは口ぐちにほめそやした。
ところが、それからしばらくしてからのことであった。
ある日のこと、たいへんなことがもちあがった。
その日、吉敷の里の人びとは、秋のとり入れのこととて、野良でいそがしく働いていた。
そこへ、ひとりの百姓が血相をかえてかけてきた。
「た、た、たいへんじゃ。わ、わ、わしの家のたんぼが、何ものかにあらされちょる。」
ところが、たんぼがあらされているのは、その男のところだけではなかった。
あっちの田んぼも、こっちの田んぼも、イネの穂は食いあらされ、ふみたおされていた。
「いったい、だれのしわざじゃ。」
「ほんとに、どこのどいつじゃ。」
「おや? こ、こりゃ、馬の足あとがある。どこかの馬がゆうべのうちにあらしたにちがいないぞっ。」
ひとりがさけんだ。
「そねえいうても、夜中に馬をはなすものはおらんじゃろう。」
百姓たちは、あれこれ話し合ったすえ、今夜からみんなで見張りをして、正体をつかもうということになった。
真夜中のことを丑三つ時(うしみつどき)というが、その時刻になると草木もねむり、
軒端(にきば)も三寸(約10cm)しずむという。
とにかくさびっしい時刻で、化けものもこの時刻に出るといわれている。
その丑三つ時とも思われるころ、月明かりの中をどこからともなく
一頭の黒いはだか馬(くらをつけていない馬)があらわれたかとおもうと、
ねずの番をしている百姓の前をつっぱしった。
百姓たちは、あっというまのできごとに息をのんだ。
それもそのはず、ついぞこの近くで見かけたことのない馬であった。
百姓たちは、われにかえると
「おいかけえ!」
「あっちだあっちだ!いけいけえ!」
黒い馬は、田んぼをふみ、畑をあらし、深い森をかけぬけて西へむかって走っていった。
「どこへいったあっ。」
「見失ってしもうたかーー。おしいことをしたのう。」
百姓たちは、馬のゆくえをみきわめようと、その足あとをたどって走った。
どれほど走ったか。百姓たちは、森をぬけ、坂をのぼった。
あせが背をぬらした。
息はきれ、足のつめからは血がにじんできた。
つかれはて、百姓たちはうっそうとした木立のあたりですわりこんだ。
みな、ぜいぜいとせわしい息づかいだ。
と、
「こりゃ、どうしたちゅうことかい。」
ひとりがとんきょうな声をあげた。
意外にもそこは龍蔵寺の山門の中だったのだ。
「おかしいのう。龍蔵寺様には、馬をこうちゃおられん(かってはいない)はずでよ。」
百姓たちは、そういいあいながら、寺のあちこちをくまなくさがしてみたが、
馬などみつかるはずもなかった。
あまりのふしぎさに、もう一度よくよくしらべてみようと、百姓たちは、また、馬の足あとをつけた。
足あとは観音堂の前までつづき、観音堂の絵馬の前でふっと消えている。
絵馬の馬が?
みんなは絵馬をみあげて首をひねった。
そんなばかなことはない。
だが、この足あとはーー。
雪舟のかいた絵馬があまりにもみごとなので、この馬がぬけだしてきたのにちがいない、
そうだそれにちがいないと、百姓たちはそう思わないわけにはいかなかった。
そこで、馬が絵馬からぬけ出さないようにと、雪舟におねがいして、
はだか馬に手綱(たづな)をつけてもらった。
それからというものは、吉敷の里には、田をあらす馬はいなくなった。
村人たちは安心して秋のとり入れにせいをだしたという。
龍蔵寺の山門のそばに大きな岩がある。
その表面に、ちょうど馬のひづめの形ににたくぼみがある。
それは、馬が絵馬からぬけ出したときにふみつけた足あとだと、
言い伝えられている。
龍蔵寺の絵馬は、今も龍蔵寺にあって、吉敷の人びとに大切にされている。
おわり
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