山口の伝説
人にまつわる話
岩穴鬼衛門 (いわあなおにえもん)〜長門市〜


  長門市駅をおりて市街地をぬけると、なだらかな深川(ふかわ)地区の平地がひらける。

この平地を316号線にそってしばらく行くと、観月橋(みつきはし)の手前いったいに

江良部落(えらぶらく)の青々とした広がってくる。

  いまから200年前のことである。

江良部落は水が少なく、村人たちは毎年水不足になやまされていた。

村人たちは、部落からほど近いところを流れる深川川(ふかわがわ)の水をなんども

部落に引こうとしたが、そのたびに失敗した。

長さ約160間(約290m)の岩盤が川岸にせまっていて、水を引くのを

こばんでいたからだ。

このため、村人たちは、長い箱樋(はこひ 箱がたの水を通すとい)をつなでつって

水を通すしかなかった。

箱樋は水もれが多く、とれる水も少ない。

それにつなもくさって落ちてしまう。

毎年、田植え前になると、出費のかさむ箱樋づくりが江良部落の人たちの

大きな悩みであった。

  その日・村の男たちは、総出(そうで)で箱樋づくりにせいを出していた。

村人たちは、口々に、

「くる年、くる年も箱樋づくりじゃ。ほんとに難儀(なんぎ)なことよのう。」

「こねえして苦労して箱樋をつくっても、あんまり水もひけん。

けっきょく、雨水にたよっちょるようなもんじゃあないかよ。」

「川にゃあ、こねえに水が流れちょるちゅうのに。

いうてもせんないことじゃけど、ほんとにくやしいのう。」

と、ぐちをこぼしながら仕事をしていた。

そのとき、

「わははははは・・・・・・。」

と大声でわらう者があった。

見ると、図体(ずうたい)の大きな久助(きゅうすけ)であった。

「こら、久助。おまえ、何がおかしい。」

久助と呼ばれた男はまだわらっている。

みんなは腹をたてた。

「ええい、やめんか。みんあがこまっちょるときに、そんあ大口あけてわらいだしやがって。」

「おまえ、どねえかしたのかえ。」

すると、久助は、

「おかしいじゃないか。毎年田植え時分になりゃあ、きまって箱樋のぐちばかりじゃ。」

と言った。

「そりゃあそうだ。箱樋づくりは、難儀じゃからよ。」

「そいじゃあ久助、おぬしゃあ何ぞいい知恵でもあるあるちゅうのか。

あったら言うてみい。」

「この大岩がじゃましちょるけえ、どねえもならん。

おまえ、体がでっかいけえ、この大岩でも動かすちゅうのか。」

もうひとりの村人が尻馬(しりうま)にのって、

「体のでっかい久助のことじゃ、この160間の大岩に穴でもあけて、

水を通そうちゅう考えかもしれんどな。」

と、からかった。

村人たちは、どっとわらった。

けれども、久助ひとりはわらわなかった。

「その通りじゃ。水をたっぷりと引くにゃあ、どうしてもこの大岩をくりぬいて

通すしかしかたなかろうて。

なあ、みんな。ここはひとつ力を出しあって、大岩をくりぬこうじゃないかのう。」

久助は、真顔になって大声で言った。

「そねえなことできるかいや。」

村人たちは、さもばからしいといわんばかりであった。

  そんなことがあって間もないころ。

たちはだかる岩盤(がんばん)にむかって、つちとのみをふるっている男の姿がみられた。

久助だった。

それからは、雨の日も雪の日も、久助は岩穴をほりつづけた。

久助の田畑は草がはえ、あれはてていった。

もともとびんぼう百姓の久助の家は、ますますびんぼうになっていった。

年老いた母親や女房の苦労は、なみたいていのものではなかった。

「百年たっても、岩穴なんかできるもんか。」

「ばかにもほどがある。」

村人たちは、久助をあざけりわらって、おもしろはんぶんに見ているしまつだった。

親るいの者でさえ、急助を見はなしてしまった。

  岩穴は、なかなかほり進まなかった。

やがて1年がたち、岩穴は、やっと久助のすがたがかくれるほどになった。

その年もまた、村人たちは、箱樋づくりに岩盤のところに集まってきた。

村人たちは、髪をふるみだしてつちをふるう、ひげ面のやつれはてた久助のすがたをみて、

「たのみもせんのに、ばかな男じゃのう。」

「キツネにでもとりつかれたんじゃないか。」

と、聞こえよがしにかげ口をたたきあった。

久助は、聞こえぬふりをして、カッカッと、いっそう強く岩肌にのみを打ちつづけた。

  やがて、2年たち3年たつうちに、

のみの音はしだいに岩穴のおくからひびいてくるようになった。

久助を、気ちがいあつかいにしていた村人たちも、久助のしんけんなすがたに

しだいに心をうたれるようになっていった。

村人の中には、岩穴の入り口にそっと食べ物をおいて帰る者もあった。

「久助、元気かあ。」

と、声をかける者もあった。

鍛冶屋(かじや)が、何も言わずにのみを焼き打ちなおしてくれもした。

久助ののみにも、いっそう力がこもっていった。

  4年目。

岩穴はまだ開通しなかったが、岩質はだいぶやわらかくなっていた。

久助はつかれると、自分をはげまますために歌をうたうようになった。

久助の歌う声は岩穴の中にひびいて、外の人びとにも聞こえた。

  こうして5年目をむかえた。春もまだ浅いある日のことだ。

「えいっ。」

と、一打ちを打ちおろしたとき、のみの先がすっと前に走った。

のみをぬくと、細い光がいなずまのようにとびこんできた。

目の前にぽかりと穴があき、まばゆいばかりの日の光が、

ひげぼうぼうの久助の顔をてらした。

とうとう岩穴をくりぬいたのだ。久助はぺたんとこしを落とした。

なみだがとめどなくほおを伝って流れ落ちた。

久助は、岩穴をとびだすと、わが家へ走った。

  やがて、貫通を伝え聞いた江良の村人たちが、ぞくぞくと岩盤のあたりに集まってきた。

みんなかたをたたき合い、手をとり合って喜びの声をあげた。

その年、村人たちは、田植えまでにりっぱな水路を作りあげようと、

久助のほりぬいた岩穴をさらに切り開き、石垣(いしがき)をきづいて

りっぱな水路を完成させた。

いよいよ水路に水を通される日がきた。

村人たちは、総出で水路を通って流れてくる水を見まもっていた。

「来たぞうっ。」

だれかがさけんだ。水はごうごうと音をたてて近づいてきた。

「わあっ。」

村人たちは、いっせいにどよめきの声をあげた。

水はたちまち江良の平地に流れ出て、水田いっぱいに満ちわたっていった。

村人たちのどよめきの声は、江良の里にいつまでもひびきわたった。

  村人たちから気ちがい久助といわれていた久助は、この日から

義農(ぎのう)久助とよばれるようになった。

また、最後まであきらめないで岩穴をほりつづけたことから、

岩穴鬼衛門(いわあなおにえもん)ともよばれて、村人たちからたたえられた。

久助は、文政13年(ぶんせい13ねん 1830)10月、83歳でこの世をさったという。

現在、江良部落の西のはずれ、深川川を澪見下ろす小高い丘の上に、

岩穴鬼衛門の碑がひっそりと建てられている。

その碑は、いまも江良部落の水田や深川川の水を見まもっているかのようである。



      文:村田 敦子   絵:山本 哲司

  



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