内村 鑑三の愛(神)

内村鑑三の愛(神)を発見しました!
 内村鑑三は1861年2月13日生
〜1930年3月28日没(69歳)

明治、大正、昭和初期のキリスト教伝道者で、人生の後半思想家でもあった。

「文明の解」
文明は蒸気にあらず、電気にあらず、憲法にあらず、科学にあらず、
演劇にあらず、美術にあらず、

「人の心の状態なり」!

人間の文明、文化、幸福は、お金ばかしでは無い、
バブルのはじけた現在の日本、日本人の多くが、生活に困らない、
裕福に成った今こそ、経済一辺倒では無く、人間の誠の幸せは、

  
「愛の心の満足である」

内村鑑三は約100年前に頭や科学で解けない「心」を解き明かしている。

2007年5月24日(木)書き込み

何故?・・・内村 鑑三が魂と遭遇体験者か?・・・内村 鑑三「聖書の研究」の一部から抜粋

{天国とは、どこのことでもない、人が人を愛するところである!・・・人が人を愛せないところには
その他の事がどうであろうが?・・・そこは天国ではない・・・音楽があろうが、説教があろうが熱心が
あろうが?・・・慈善が行われようが?・・・そこは天国ではない?・・・天国を作るのはまことに易い。
【自己を捨て、人を愛すれば】、それで、天国は即座に成就(でき)るのである。なにも特別に教会を
組織する必要はない。何も特別に、神学論を、戦わす必要はない。人がキリストにならって、人を愛すれば、それで、天国は成就するのである}。かくも易きことをなさないで、論じたり、計画(たくら)んだり
奔走(ほんそう)したりする人々の愚かさは、聖国(みくに)を来たらせたまい。しかり、われをして人を愛さしめたまえ。しかして、今日、直ちに、この罪の世にありて天国を出現せしめたまえ。
1891年1月9日

< 普遍的真理 >
私は普遍的真理を探る。 これを私の家において、私の書斎において、【私の霊魂の内に探る】私は
これ(魂)を得たがために、広く世界を遍歴(むぐ)る必要はない。また大会と称して集合するにあらざれば、知恵者にあたわざる(世界をまわり信仰心を学ばなくとも知恵者となれた)。男女の集会に列するに及ばない。私は何びととも適合する真理を探る。すべての人を照らす真の光を求む。
人種・民族・宗教・教派の差別なく、すべての人に当てはまるべき真理を探る。普遍的真理は、それがあるだけ、それだけ、深くある。実在の中心に達する人の霊魂だけ、それだけ深くある。
まことに人生の価値は、ここ(魂)にある。すなわち人の生命においてのみ宇宙の中心的真理が現れるからである。そして人は、おのが内に、これを発見し、自身、宇宙人物となりて、自己ならびに世界に超越することが出来る。1928年10月「聖書の研究」(信22/147)

1912年内村 鑑三は、娘 ツルの死で、ツルの魂(神)と、見事に遭遇しているのです!・・・

内村 鑑三の人生は前半(1861年〜1912年)の51年間と、
後半(1912年〜1930年)の18年間に分けられる。
私は内村 鑑三の後半、娘ツルの死後の人生、
思想家としての人生を私の感じたまま詳しくお話し申し上げます。

* キリスト教伝道者としての内村鑑三

自分は日本の為に、日本は世界の為に、世界はキリストの為に、凡ては神の為に。
(I for Japan;Japan for the World;The World for Christ;And All for God.) 
お墓に英語で刻まれている。

この頃の鑑三は、自分は公人で有り自分には、
世を救う使命が与えられているという、自覚が強かった。

しかし誠のキリストの愛を理解していなかった。
1871年(明治10年)、札幌農学校(北海道大学の前身)に、
第二期生として入学、W.Sクラーク博士の「イエスを信ずる者の契約」に署名。

翌年、M.Cハリスより洗礼をうけました。
札幌農学校を卒業の時、気の合った三人で、「二つのJ」将来、
一身をイエス(Jesus)と日本(Japan)とに捧げることを誓い合った。

内村鑑三は大変真面目な、素直な心の持ち主で、
師の教えをまともに信じ、将来の目標をイエスに置いていた。

その後1885年渡米して、アマスト大学でW.Sクラークと再会している。
更にアマスト大学で新島襄との出遭いや、
J.B.リチャーズや、シーリー総長の助言等によって益々キリスト教、
イエスに対する信頼が深まって行ったと思われます。

しかしその後鑑三はキリスト教に対する信頼を少しずつ失っていきます。
「愛の実践というサービスにもチップを要求され、アメリカの現実、
人種差別、キリスト教の宗派分裂、分派の多い事、
ローマカトリック主義対プロテスタト主義」等を視て大変嘆きました。

東洋で仏教の宗派が多いのと同じで、
西洋でも神との遭遇を体験した人の神、仏によって宗派が異なるのです。
時には仏教や、キリスト教の宗派による戦争が起こってしまうのです。

イラク、アラーの神のシーヤ派も同じです。神、仏の一番嫌う、
戦争が宗派の争いで起こってしまうのです。

この事は内村鑑三が後に自分で体験して理解出来るのです。
内村鑑三は娘ツルの死によって、神との遭遇を体験するのです。
内村鑑三の人生後半、51歳〜69歳までの鑑三は?・・
「神が心に宿る」体験をして、思想家に成って行くのです。

人生の後半の鑑三であれば、「相手が有って自分がある、
妻が有って自分が有る、家族が有って自分が有る、
会社が有って自分がある、社会が有って自分がある、日本が有って自分が有る、
グローバルな時代、世界が有って自分が有る」。
まずは「一番身近な人を大切にする。」と言って居たかも知れません。


しかし内村鑑三は真面目で、明治、大正、昭和初期に生きた人で、
国の為、イエスの為という公人としての、使命感に大変努力した人でした。

彼の人柄はその鋭い顔つきとか、きびしさ、
激情、雄弁、が目立ち公人としての意識が大変強かった。

時にはあまり家庭や、家族を省みず、公人としての職務に没頭したとおもわれます。

結婚も1884年3月、浅田タケと結婚するが、
半年後に破局を迎えることになる。また
、約5年後の1889年7月、横浜加寿子と結婚したが、
1891年1月9日「不敬事件」等もあり、離婚して結婚に失敗している。

その後1892年12月、岡田静子と結婚して、
長女ツル、長男、祐之(ゆうし)さらに次男が生まれている。
鑑三31歳の結婚でした。

しかしこの時でさえも、
「おれと、シズ(妻)との二人のうち、一人だけしか助からないという場合には、
(public good)凡ての神の為に、おれが助かる事にする。」
等と良く言っていたそうである。本当に神イエスキリストを信じていたのです


* 思想家としての内村鑑三

しかし公人に専念していた、あまり家庭を顧みなかった鑑三でも、
時には息子祐之くんをつれて水上、湯檜曽あたりに、出かけていたようです。

(息子祐之さんの言葉より)公務に忙しい鑑三にも、
家族愛、親の愛が有ったのでしょう

。そんな幸せな鑑三に突然の不幸が訪れます。
1912年1月、娘のツルが、20歳を前にして突然亡くなります。

突然の鑑三を襲った不幸は、鑑三の心に絶望感、虚脱感が発生して、
生き甲斐を無くしてまいります。

日頃公務に忙しく、あまり家庭のことを気にしていなかった鑑三も、
さすがに娘ツルの死は、人生の中で一番の不幸感を味わうことに成るのです。

娘ツルの死によって、鑑三の心には強い「煩悩」が発生、します。
怒りや、恨み、が非常に強く心に発生します?・・

人の言葉が、何を聞いても、腹立たしいのです?・・すぐ怒るのです?・・

毎日心がいら立ち、絶望感や、挫折感が、襲います?・・・

柳田邦男さんは、息子さんを亡くした時、「世の中が灰色に見えた」と、
言っております。宮沢賢治は「修羅の心」と言っております。

あまり公務に忙しくて、家庭をかえり見なかった内村鑑三は?・・・・
この時だけは、ショックで、取り乱したことでしょう?・・

こんな状態が
約1年間続きます?・・
「自分は何故娘ツルを助けられなかったのか?・・」良心の呵責?・・
で、むごく責められます?・・1年間が大変永く感じるのです!・・・

1年〜1年6ヶ月経って、内村鑑三の心に、悟りの言葉が浮かんでまいります。
続く?・・



人間の誠の心の満足を願う!    袈裟 感洞 (大井 今朝雄) 

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