古文書

 印西市平岡の鳥見神社に伝わる古文書。
 (印西市教育委員会所蔵)

@鳥見社神語 鳥見社(朱印)

 総州印旛郡平岡の郷に鎮ります鳥見大神は饒速日尊、御炊屋姫命、A可美間見命の三坐也。然るに此国は斎主神天照皇大神の勅りをうけて東国楫取(香取)に天降りし地なり。東国の楫取はかみ有りて余の国はなし。中にも印旛郡は其の地高からず低からず平なる国なれば平岡の郷とぞ云伝えける。また吾家代のB御倫旨にも平岡の郷こととありたる。
 鎮守鳥見大神は天津神の子、天の盤楫舟(磐船)に乗りて諸(もろもろの)の国を見給いてC大日本日高見の国と宜(のたま)いし也。御炊屋姫命を娶りし子あり可美間見命云う。又、D正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊E栲幡千々姫ありて饒速日尊を生ましめ吾勝尊、葦原の中洲に天降りますべきを御子生れ給いければ、彼を降して天上に留りまして饒速日尊を下し給いし時には高皇産霊尊、F十種の瑞宝を授け給う。然るに此尊はやく神たりければ国の主とはなり給いざりしや。吾勝々速日天忍穂尊くだり給し時、天照皇大神、G三種の瑞宝を伝え給う。其後に饒速日尊と伝え給うとも得給わず。然れば日嗣乃神には、ましまさぬなるべし。H此事、旧事本記の説なり
 人皇第一神武天皇は、神日本盤余彦命と神代よりの御名なり。神武とは中古よりの事にして唐(もろこし)の詞(ことば)に定め奉るなり。皇居の地名を以て橿原天皇とも申すなり。此天皇十五才以て太子に立ち、五十一才にてを父の神に替わりて皇位につかしめ給ふ。I今年癸酉、筑紫の日向の宮崎の宮にて兄(こ)の神たち及び群(臣)に勅りして東征の事あり。
 此大八州は王地なり神代幽昧なりしによりは西偏の国にて年序を送りけるにこそ。天皇舟楫(船)を調え甲兵を集め大日本の国に向い給う。道の序(順)の国々を平らぎ大日本入りませんとせしに可美間見命の外舅長髄彦の軍を起こして防ぎたれば殆ど皇軍利をを失う。邪神毒気を吐しかば、士卒悉く病に罹りぬ。*天照皇太神J健甕槌命を召しK葦原の中津国騒いた音の聞こえければこれを鎮めよとの勅りし給うにも、昔し国を平らげし時の剣あり。是を下さば鎮め給ふべしとし紀伊国名草村高倉下命に示し其剣を奉りければ、士卒の病みふせるけるも皆お起きぬ。神魂命の孫、武津之身命太鳥となり軍の御先に事る。天皇悦び八咫烏と誉給う又、金色の鵄下りて皇弓のユハス(弓先)に居り其光の大きなる輝きけるによりて皇軍忽に勝ぬ。可美間見命舅の辟(ヒャク)めし心を知りて殺しぬ。天皇悦びて天より下りし神剣を授け其の勲に応う。此剣を豊布都の神と号して初めは大和国のL石上にましまし後は鹿島の神宮にましまして、彼宇麻志間見命饒速日命天降りし時、外祖高皇産霊尊授け給いし十種の瑞宝を持ち伝えけるを天皇に奉つりける是鎮魂の瑞宝なるをよりて其祭りを始め可美間見命に預け給いて石上にましまして又布留とも申也。此瑞宝を一つ宛(づつ)唱ひて呪文を唱ふるに験あり。天下悉く治りたれば橿原に皇居を定めて其制度天上の儀の智る事なり。三種の神器を大殿に置き床を同じくして皇宮神宮一つならしめ諸国の御調物をも斎蔵に納め官物神物のわきだめなかりき。又天津児屋根命の孫M天種子命、天天(太)玉命N天富命ら神事を掌る神代の例に呉しめ又O霊畤P鳥見山の中に建て天神地祇を祭りしめ給いけるもって鳥見大神と号し奉りける。
 今は此平岡の郷も村々多くなりになれば一むらのやし(ろ?)に楚なしめ後世仏法流転してQ結縁寺R安養寺S竜腹寺な●●●めるも村の名も氏神の社も村毎にありても古きは此御社に●●●を。

(正確な訳文とは言い難い部分もありますのでご了承下さい。無断転載禁止です。)

 「鳥見社神語」のベースにあるものは、古事記でも日本書紀でも、また旧事本紀でも無く神皇正統記であった事は驚きである。序文及び結び文を除いた饒速日命の成立から神武天皇の東征及び霊畤の建立までは、ほぼ神皇正統記からの転記と考えてよい。本来、饒速日命とその子孫の説明に付いては特別の事情が無い限り旧事本紀をベースにすると考えるのが一般的だからだ。
 神皇正統記は北畠親房が延元3年(1338年)9月初旬、大湊から出港したが暴風雨のため常陸国東条浦(茨城県稲敷市桜川)に漂着、神宮寺城に入る。その後、阿波崎城、筑波郡小田城と転々としたがその小田城で神皇正統記は完成する。しかし、その間に後醍醐天皇は崩御し後村上天皇に神皇正統記を奉る。興国元年(1340年)、次男である北畠顕信の関東下向により写しが関東に戻ってきた。その後、南朝方武士に書写されて広まり、興国4年に修訂となるがその序文に(其後不能再見已及五稔。不図有展転書写輩云々。」とあり誤写誤記が多かったようでもある。
 印西市文化研究所の「郷土の文化財」には以下の記述がある。「平岡鳥見神社に伝わる獅子頭と獅子舞は嘗ては大森の鳥見神社に伝わるものだったと言う。延元3年(1338年)南朝方の北畠顕家の軍が和泉の国で北軍に敗れた際に南朝方の落人によってもたらされたと言う。」と。
 この獅子頭の落人伝承と古文書の内容、神皇正統記をベースにしている事と「綸旨」の記述から見ても室町時代初期の南朝方北畠氏一党による影響または創建の可能性が極めて大きかったと思われる。

語句解説
@現在「鳥見神社」(トミジンジャ)と呼ばれている社は、かつて「鳥見社」と号していたと思われる。
A可美間見命:日本書紀に「可美真手命」、古事記に「宇摩志麻遅命」、旧事紀(天孫本紀)に「宇摩志麻治命またの名を味間見命、また可美真手命と云う」とある。ここでは旧事紀の味間見命と可美真手命を混同している。だが神皇正統記では宇麻志間見命とある。
B御綸旨:綸旨(リンジ)とは役人(蔵人)が天皇の意を受けて発行した文書。本物の綸旨かどうかは別として、綸旨と称されるような貴人からの文書が別に代々存在していた可能性がある。
C日高見の国:日本書紀景行天皇の項に「東に日高見国あり」と。狭義では北東北の1部地域とされるが、広義では大和国より東の国とされ、東国一般も含まれる。常陸風土記信太郡条にも日高見国とあり、また大祓詞(祝詞)の中にも「大倭日高見国」と出てくる。
D正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコト):天照大神の子で日本書紀と旧事紀ではこの名であるが古事記では正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命となる。
E栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ):日本書紀では高皇産霊尊の娘で正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の妻、天津彦彦火瓊瓊杵尊の母。古事記では高木神(高御産巣日神)の娘萬幡豊秋津師比売命と書し日子番能邇邇藝命を生む。旧事紀では高皇産霊尊の娘、萬幡豊秋津師比姫栲幡千々姫となり饒速日尊を生む。
F十種の瑞宝(とくさのみずのたから):十種の神宝(とくさのかんだから)とも言う。
奥都鏡(オキツカガミ)・辺都鏡(ヘツカガミ)・八握剣(ヤツカノツルギ)・生玉(イクタマ)・足玉(タルタマ)・死返玉(マカルガエシノタマ)・道返玉(チガエシノタマ)・蛇比礼(ヘビノヒレ)・蜂比礼(ハチノヒレ)・品々物比礼(クサグサモノノヒレ)の10種。旧事本紀には「痛みなどあれば、この十宝を奉じて、一二三四五六七八九十と言って、布瑠部(ふるへ)、由良由良止布留部(ゆらゆらとふるへ)と。さすれば、死人も生返る。これはいわゆる布留の言本(ことのもと)である。」と記される。古神道玉振りとも言われ、鳥見神社の護符の図案にも使用されている。
G三種の瑞宝:三種の神器と一般に言われる。八咫鏡(ヤタノカガミ)・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)の3種を指す。
H「此事、旧事本紀の説なり」:神皇正統記文中に同一の記載あり。
I今年癸酉:神皇正統記に「コトシ辛酉」、日本書紀には「其の年の冬10月丁巳の朔辛酉」と記される。癸酉は書き間違いか。
*天照皇太神:北畠親房の著作に見られる表現。二十一社記・元元集など「太」の文字を充てている。前段の2ヵ所に「天照皇大神」の記載があるが「大」の文字であることから、平素は「天照皇大神」と記しているのが、この古文書の資料として神皇正統記を参照しているうちに「天照皇太神」と書き入れてしまったのであろう。
J健甕槌命:古事記では「建御雷神」「建御雷之男神」、日本書紀では「武甕雷神」「武甕槌神」と記す。健甕槌ノ神とするのは神皇正統記である。
K葦原の中津国
:諸説あるが一般には日本国土を指す。
L石上:石上神宮、奈良県天理市にある式内社。布都御魂大神他、布留御魂大神・布都斯魂大神・宇摩志麻治命を御祀りする。物部氏との関係が深く本宗家滅亡後も物部系である石上宮司家は存続する。
M天種子命:天児屋根命(中臣氏祖)の孫。古来より神事を司る氏族であるが奈良期以後強大となり藤原姓を賜る。
N天富命:天太玉命孫。忌部氏祖、天種子命と共に神事を司どるが衰退。一族の斎部広成が古語拾遺で忌部氏の正当性を主張したのは有名。
O霊(マツリノニワ):奈良県宇陀市鳥見山山中に在り。→
P鳥見山:Oリンク参照して下さい。
Q結縁寺:印西市結縁寺にあり真言宗豊山派。御本尊は不動明王で国指定重要文化財、創建は神亀年間(724〜729年)行基による開基と伝わる。
R安養寺:印西市武西、天台宗の寺院で開山創立不明だが永禄3年(1530年)の説あり。御本尊は阿弥陀如来。
S竜腹寺:本埜村竜腹寺。天台宗寺院で玄林山勝光院と号する。開山は慈観、本尊釈迦如来である。最盛期には二十五坊にも及ぶ規模を誇ったと言われている。龍神降雨伝説の内、龍の腹部が落ち竜腹寺と改める。中世には千葉胤直によって五重塔が建立されたが、小田原北条氏との兵火で焼亡した。天台宗、大同2年(807年)創建と伝わる。

唯神道行事方


@稲荷五行禊
 高天原に神留り坐すA皇親神漏岐神漏美の尊を以て稲荷大明神の広前に恐み恐み申す。公祟仰神徳最高坐は水(ナガアメの注あり)旱りの災い疫病の憂い聞く事なく風雨随いし時、五穀のB種津物の豊に実らしめ天皇宝祈なり将軍武運長く久しく朝廷仕奉るもの官天下に所住百姓に至るまで安く平くC常磐堅磐に守幸賜ひと恐み恐み申す。 D掛けまくも畏きE稲荷大神の広前に恐み恐み於申す。
 今日吉日時を選び定めて遺風仰ぎ奉り五行神と顕れ坐して身体の長生を守賜う。F豊受皇太神宮は青色の幣帛を以ち肝臓を揖給う。稚産太神は赤色の幣帛を以て心臓を揖給う。倉稲魂太神、白色の幣帛を以て肺臓のを揖給う。太田の太神は黒色の幣帛を以て腎臓を揖給う。御饌の太神は黄色の幣帛を以て脾臓を揖給う。時に五色の幣帛者鬼魔退散の神具と成し賜いて十宝種濔情命成就神力加持、G普瑠部由良由良止普瑠部婆瑠部由良由良止婆瑠部加持悪魔を降伏怨敵を示し賜う。故に心神を抽て敬い奉れば咎も無く祟りも無く、夜の守り昼の護りに守幸い賜ひと恐み恐み申す。
 

H啓自禊
 掛けまくも畏きそれ大日本開闢I吐普加身依美多女J坎艮震巽離坤兌乾、祓い給え清め賜ふ有難くも天照太神我が葦原の水穂の国を安国と平らく吾日乃本と名づけ賜ふ。御恵扨(さて)又磐戸に引籠らせ給いて世界全夜の闇となる八百万の驚かせ賜いて神、集めに集め磐戸の前にて御神楽を奏し太鼓を打ち笙・篳篥・十二の鈴の御楽あり天照太神御意に感応坐して天の八重雲を打ち払い磐戸を開かせ給い天日月の光輝きて神々の面白き○たり。偽に丹誠を動かし神慮(旅)を鈴しめ給う。是に老若男女内外清浄K六根清浄L謹請再拝謹請再拝天照太神を始めとして八百万の神号を奇(よ)奉る、是勿体なくもM天津祝詞の事を以って学び社を諫め奉る。天下泰平、御世長久、N當経和隋、万民安全の祈念し奉め巳願くは八百万の神達に平らく安く聞こし召せと恐み恐み啓す。


                         敷伏之大事

                    
 
 幣帛八本八方に立て八神の八祓事
 東方に稲荷、南方に八幡、北方に諏訪、西方に鹿島、辰巳にO牛頭天王、丑寅にP日吉、未申に羽黒、戌亥にQ三方荒神、中央天照太神。
 伝に曰くこの八神は祈祷の第一世別してR蟇目の時致すもの也。昼七つ時より過ぎて仕る也。東より西に向かいて致す法也。先ず蟇目の始めには致すべし。

 S常陽新治郡下林邑●●左京藤原武繁七十一父行歳此書謹白
 門人下総国印幡郡平岡邑○○○○殿に是を伝う
 *(文化十五年三月)


 「唯神道行事方」は禊を行う際の斎場の敷設形式や祭祀作法、そのときに奏上する祝詞を記したものであり云わばテキストであったようである。
 前段の「稲荷五行禊」は五穀豊穣と無病息災を次の「啓自禊」では天下泰平を祈念するもので、各々に特色があるのだが特筆すべき点は3つある。1つは神皇正統記の特色である「太」の文字を「鳥見社神語」に引き続き使用していること。2つめは「布留の言本」を使用していること。3つ目は差出人が特定されることである。
 1つ目の「太」の文字のの使用に付いては前章でも述べた通りであるが、ただ前章では神皇正統記からの引用部分に「太」を使用しているようにも見えるが本文書ではそれ以外の部分でも使用している。また稲荷大神の「大」とその他の神の「太」を明らかに使い分けているように見える。
 2つ目の「布留の言本」は饒速日命を御祭神にしている鳥見神社には必須の祝詞でもあろうが、現代まで伝わる「十種大祓」ではなく稲荷祝詞の中に組み込まれている事が興味深い。
 3つ目の新治郡下林邑は現茨城県石岡市であり、室町時代初期の南朝方の色濃い地域であり神皇正統記との係りも伺わせる所でもある。
 勝手な推理をすれば、鎌倉時代末期から戦国時代末にかけて常陸南部を中心に影響力を持った小田氏と北畠親房の思想が何らかの影響を与えていたのかもしれない。

語句解説
@稲荷五行禊: 陰陽五行思想(古代中国で成立した古代哲学。簡潔に言えば「原初の存在は混沌であり、そこから「陰」と「陽」の二気が生まれた。陽の気は明るく軽く天となり、暗く重い陰の気は地となった。この二気は相反する性質だが元々は同一の混沌から生じたので時に混ざり合い、木・火・土・金・水の五元素(五気)が生まれた。そしてこの五気が循環する事で森羅万象が生じるとする思想。)と稲荷信仰が混合したもの。稲荷信仰の五社(五神)と五行思想が合致し成立したものと思われる。五行にはそれぞれの気に応じた色・方位・季節などがある。以下の表にそれを記す。

方位 季節 内臓 十干
肝臓 甲乙
心臓 丙丁
中央 土用 脾臓 戊己
西 肺臓 庚申
腎臓 壬癸

A皇親神漏岐神漏美:皇親は「天皇の親しい」神漏岐は「男性の神」、神漏美は「女性の神」の意。また転じて「天父地母」の意とも。
B種津物:穀類の種子を指すものと思われる。
C常磐堅磐:物事が永久不変であること。
D掛けまくも畏き:口にすることも恐れ多い事であるが。

E稲荷大神:京都府伏見に鎮座する伏見稲荷大社を本源とする信仰。伏見稲荷では現在、宇迦之御魂大神(倉稲魂命)・猿田彦神・大宮売神・田中大神・四大神の五神を総じて稲荷大神と称す。
また、一般に稲荷神として宇迦之御魂神・豊宇気比売命・若宇迦売神・保食神・大宣都比売神・御饌津神などとされている。
 当時、稲荷五神を作者は豊受皇太神・稚産太神・倉稲魂神・太田神・御饌神としているところが興味深い。豊受皇大神は伊勢神宮外宮の祭神で伊勢皇大神宮の御饌都神(食物を司る神)として有名。本文書での「豊受皇太神」とは伊勢神宮の神を意識しているのだろう。稚産太神とは稚産霊神(ワクムスビノカミ)で豊受皇太神の親神とされ穀物の生育を司る神様とも言われる。ここに登場する神は何れにしても、食物、農作物の神様であって豊かな実りを祈願するものであったのであろう。また、稲荷大神には「大」の文字を、豊受皇太神などには「太」の文字を使い分けている部分にも注目したい。
(写真は京都伏見稲荷大社:写真提供uziさん)

F青・赤・白・黒・黄の五色の幣帛:利根川図志(赤松宗旦著・安政5年(1858年))4巻、雨祈の項に次の記載あり。「文政初の頃(1818年)、印西の辺に名を卜童と呼ぶ禅宗の僧あり。(中略)印旛江の中なる佐久知穴(さくぢあな)に龍神住めり。われ是を頼み祈りなば忽ち雨降るべし。(中略)佐久知穴の傍らに室を作りてあたへぬ。卜童これに注連(しめ)を張り、四方に青白赤黒の幣を建て云々」。江戸時代後期には、東西南北に青白赤黒の幣を中央に黄の幣(上記五行の方位・色の表参照)を敷設する方法は確立され一般に行われていたのだろう。
G普瑠部由良由良止〜:原典は先代旧事本紀(天皇本紀)に記載あり。現在では「十種大祓」(石上神宮)に伝わる。
H啓自:啓示の事か?啓示とは、「人間の力では知ることのできない事柄を、神が人へ伝えること。」である。
I吐普加身依美多女:遠祖神笑給ヲ。「先祖神よ笑みを垂れたまえ。」の意。
J坎艮震巽離坤兌乾:「寒言神尊利根陀見」と記すこともあるのだが基本的には八方位を表す。転じて国土を意味。前の「吐普加身依美多女」から後ろの「祓い給え清め賜ふ」で三種大祓と呼ばれる祝詞である。
K六根清浄:六根とはそれぞれ視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚と心(精神)のこと。人の根幹であるそれらが欲望などで汚されること無く正しい行いができるようにとの意。元は仏教から伝わり般若心経・法華経に掲載される。神道に至って六根清浄大祓(祝詞)となる。
L謹請再拝:「敬って申す」の意。
M天津祝詞:天津祝詞乃太祝詞、延喜式祝詞式中の六月晦日大祓詞の中のある文言で古来より様々な解釈がある。
N當経和隋:當経は「当時既に」の意。和隋は現在の隋和で「宝物・優れた才徳」の意か。
O牛頭天王:疫病関する神、歴史的にインド中国から伝来。元々はチベットの神とも。中国で道教・密教の影響を受け、伝来後は陰陽道とも交わる。スサノヲ、大己貴神ともされ、民間では防疫神・方位神として広まる。
P日吉:比叡山に鎮座する日吉大社の神。元々は大山咋神を祀るが後に大己貴神を迎えたと伝わる。
Q三方荒神:三宝荒神とも云う。本来は仏・法・僧の三宝を守護する神の意であった。屋内にあっては火の神、竃(カマド)神として後には農業神として、屋外では地神、山の神、転じて屋敷神として民間に広がる。
R蟇目:引目とも。魔除けの弓引き神事。日光二荒山神社の引目は有名。
S常陽新治郡下林邑●●左京藤原武繁:新治郡下林邑とは現在の茨城県石岡市下林である。新治郡は市町村合併により2006年春に消滅している。下林村の神官であったと思われる●●左京藤原武繁氏であるが、現在下林地区には鹿島神社が2社鎮座しており、その内のどちらかの神職であった可能性が高いと思われる。

鹿島神社(村社)

元亀2年(1571年)旧記に本社神領の記がある。初め藤山に祀り、藤の宮と称した。現在地への遷宮は詳かではないが、遷宮後鹿嶋神社と改称した。慶応元年焼失。同年2月再建。明治に至り村社に指定。御祭神は武甕槌命。御神体は幣である。鎮座地は茨城県石岡市下林1306-3
(茨城県神社庁新治支部神社データベース神羅より)


鹿島神社(非法人)

神体、幣。創建不詳。社殿老朽のため集落の人たちが相議り、御即位の礼を記念して平成元年秋改築した。(茨城県神社庁新治支部神社データベース神羅より)
この社は上記鹿島神社より分祀されたとの伝承がある(逆の説もあり)。尚、この付近には上林地区にも鹿島神社が鎮座している。

 ●●家は、この地域に現存し歴史を持つ旧家であると云い、先祖が神職であったかどうかは確証がないのだが伝承及び現況からみてその可能性は高いと思われる。 
 千葉県印西市平岡から茨城県石岡市下林まで直線距離にして約50km離れている。鹿島神宮までは直線距離で約60kmであるが隣の印西市木下は鹿島詣での船便の発着点でもあり鹿島神宮への交通の便は極めて良かったと思われるのだが、何故わざわざ本社たる鹿島神宮では無く、下林村の神職の門下となったのであろうか。当時他国へ聞える程の高名な神職であったのか、また他に理由があったのか・・・。また1つの興味深いテーマである。

 *石岡市下林地域の情報に付いては、「茨城県神社庁新治支部様」・「石岡市教育委員会様」に情報の提供をいただきました。特に「茨城県神社庁新治支部様」からは当方の愚にもつかない質問に、わざわざ調査の上、親切丁寧なご回答を頂戴いたしました。改めて御礼申し上げます。

*文化十五年三月:文化年間は1804年から1817年であって文化15年は存在しない。翌文政元年への改元は1818年2月5日であるから文化から文政への改元の知らせが届くのが遅れていた可能性がある。