由来と地理的条件

 神社を新しく祀る場合、他の土地にある神社から分詞(神様を分けて来ていただく)する勧請型とその土地に新たに祀る創建型があるようだ。鳥見神社の場合も同様に勧請説と創建説の2つに分けて考えてみたい。


 勧請説は現在の奈良県にある等弥(トミ)神社(桜井市)及び登弥(トミ)神社(石木町)のどちらかを勧請したか、もしくはこれ以外の神社を勧請したかとする説で、@Aは、どちらも等弥・登弥≒鳥見と考えるものである。どちらの神社も式内小社(延喜式掲載神社)であり既に10世紀には存在していた神社である。(延喜式:907年完成の宮中行事や事務制度など関する事項を収め、特に最初の10巻は神祇制度に付いて詳述されており、その9巻と10巻は神名帳で全国3132座(2861社)を列記し、それに列する神社は式内社と呼ばれ社格を権威づけるものとなっている。)Bは、それ以外の物部氏関係の神社を勧請し分布したとする説である。
 創建説は、印西の地で新たに祀られたとするもので、地名説は「常陸風土記」の一首を有力な論拠としている「鳥見の丘」説、また古代の行政区である言美郷・鳥矢郷の言美・鳥矢≒鳥見とする説が考えられる。白鳥由来説では、現在でも見られる「白鳥」が物部氏等と何らかの関係を持った可能性から見た説である。。

@等彌神社勧請説

 奈良県桜井市の鳥見山北西麓に鎮座する神社.。上ッ尾社(祭神:大日メ貴命)(オオヒルメムチノミコト)と下ッ尾社(春日大社・八幡大社を祭る)に分かれている。かつては饒速日命を祀っていた可能性があるとする説もあるが、その根拠としている「特選神名牒」には「登美連の名前から饒速日命となるので、今決めて記す。」とあり、根拠としてものすごく弱い。(なにせ今決めた!だから・・。)「鳥見山に鎮座する等弥神社」で鳥見神社と結びつけるキーワードとしては面白いが論証に欠けている点と鳥見山は奈良県内にもう一箇所(宇陀郡榛原村)存在する点から見てややパンチに欠ける。 しかし、もう一つ重要な事実がある。等弥神社から北東方向に宗像神社が鎮座することである。等弥(鳥見)神社と宗像神社、それに鳥見山(岳)、このトライアングルは印旛との関連はあるのだろうか。

 等彌神社(奈良県桜井市)

桜井市大字桜井小字能登に鎮座。境内は広く上津尾社(天照皇大神)と下津尾社(春日大神・八幡大神)、境内社(弓張社・恵比寿社・金毘羅社・黒龍社・鳥見山稲荷神社・猿田彦大神社・愛宕社)と護国神社がある。鳥見山稲荷神社入口から霊畤拝所の碑に向う。
以下等彌神社パンフレットより抜粋。由緒:神社は延喜式の式内の古社にして旧奈良県の県社であります。桜井駅の南東になだらかな山容をみせる鳥見山の西麓に鎮座し150基余の石灯籠が竝立する。上社(上津尾社)より鳥見山々頂へ道が続いている。この山は神武天皇御即位の後四年春二月鳥見の山中に霊畤を立て大孝を述べ給うた大嘗会の舞台で毎年五月十三日鳥見霊畤顕彰会により、お山の拝所で大祭が斎行されている。

A登弥神社勧請説

 奈良市石木町に鎮座。皇紀四年(紀元前657年)創建とするのは、日本書紀の「皇祖天神を大和鳥見山に祭る」からか。奈良市と大和郡山市が接する富雄川東岸のなだらかな丘陵の先端にあり、一帯は奈良時代に「登美郷」、和名抄に「鳥貝(見?)郷」、中世には「登美庄」・「鳥見庄」と記されている。本殿は東西に並立し東に高皇産霊神(タカムスビ)・誉田別命(ホンダワケノミコト)を祭り、西に神皇産霊神(カミムスビ)・登美饒速日命・天児屋根命(アメノヤメノミコト)を奉祀する。また神事として2月(元は小正月)に筒粥祭が行われる。石上神宮旧記には、「櫛玉饒速日命大和国鳥見明神、河内国岩船明神是也」との記載があり、登弥神社は木島明神・鳥見明神とも呼ばれていたことから当社の事を指すものであろう。古代からの地名が「トミ」であること、白庭山近くであること、地形的な類似点が見られること、祭神に不自然な点が無いことなど、より強い因果関係を伺わせる。しかし、創建を日本書紀からの引用はチトいただけないのだが。

登弥神社(奈良県奈良市石木町)

東本殿:高皇産霊神・誉田別命 西本殿:神皇産霊神・登美饒速日命・天児屋(ママ)命。
摂社: 大日命・豊受比賣神・天宇受女神・大山祇神・庭高津日神・大物主神・菅原道真公・猿田彦神・大己貴神・八重事代主神・瀬織津姫神・速秋津姫神・速佐須良姫神・気吹戸主神・表筒男神・中筒男神・底筒男神、併せて十七柱の神々を五社殿に合祀さる。
御由緒:皇紀四年、春二月二十三日神武天皇が、この地に於いて皇祖天神を祭祀されたのがそもそもの淵源であり、その後、登美連が祖先である天孫饒速日命の住居地−白庭山であった、この地に、命ご夫妻を奉祀したのが当神社のご創建であります。(境内碑文より)
登弥神社祭神饒速日命:通称木島明神といい、延喜式内小社で物部氏の祖神饒速日命を祭神とし、神域幽玄神殿もきわめて壮大であり太古大部族の祖神を祀るにふさわしいたたずまいである。又付近丘陵は弥生時代遺物の散布地帯である。(境内大和郡山市・同観光協会掲示板より)

 登弥神社は鳥居から細長い参道を登った奥に拝殿と東西本殿、摂社多数が鎮座しているのだが、本殿はカラスに襲われて見学できなかった。(T_T)
 数年前にお手紙で伺ったところ、神社に関する古文書は明治期の神社明細帳他には見当たらず、また総代さんにもお話をして下さったそうであるが、「千葉(下総)に関係する等の情報は残念ながら無い」とのご丁寧な返信をいただいた。
 また、昔こちら(千葉)からお話を伺いに登弥神社行った某氏のお話によれば、「昔は東西本殿の御祭神は両方とも春日神だった」と聞いたとも。さらに、別方面からは「ここらへんでは長髄彦が祀られていたらしい」との伝承も。
 さて次は矢田坐久志玉比古神社であるが、登弥神社から直線で2q足らずの距離にある式内大社で、「登弥神社は、元々は矢田坐久志玉比古神社から分祀された」との説がある見逃せない重要な神社である。

矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市矢田町)

式内大社、旧県社。御祭神:櫛玉饒速日命・御炊屋姫命
櫛玉饒速日命は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の御名で崇敬されております。命は天津神の詔により、御弟神の降臨(天孫降臨)に先立ち、豊葦原中津国を仮平定するために天磐船を操られ降臨されました。天津神は命の降臨に際し、天璽十種神寶をお授けになり「若し痛むところがあれば此の十種をつかい一二三四五六七八九十と唱えて打ち振りなさい。そうすれば死人も甦ります」と申され、合わせて天津神の御子の璽の天羽羽矢と御乗り物の天磐船をおさずけになりました。初めに河内国の河上の哮峯に天降られ、大和国鳥見の白庭山(境内)に遷り住まわれました。初めに降臨された哮峯では祭祀を営まれましたが、お住まい(宮居)とされず再び天磐船にお乗りになり大和の天空を駆け巡られながら「吾が宮居の地に導き給え」の祈願とともに天羽羽矢三本を射放たれました。境内に二の矢が、一の矢は五百メートル、三の矢は北五百メートルに落ちました。この地を「矢田」と呼び、当神社を「矢落神社」とも申し上げるのはこれから来ています。三十二従神並びに部人を率いて天降り、土豪長髄彦の妹 御炊屋姫を娶り、御子神宇摩志麻遅命をお産みになります。当地方最大の古社として御創建当初より六世紀前半期に至る間は畿内随一の名社として栄え、御社殿は宏壮美麗を極めましたが、仏法の興隆とともに御神裔の雄族も物部氏は四散し、御社運は衰退したと伝えられています。(由緒略記より抜粋)

 矢田坐久志玉比古神社に参拝した折にお話を伺った処、こちらも明治期以降の記録しか残っておらず、江戸期以前は矢田寺の管理下だったので寺にも問い合わせたが記録類はなかったそうである。(矢田寺:矢田山金剛山寺 奈良県大和郡山市矢田 真言宗 延命菩薩地蔵尊が御本尊 天武天皇勅願により智通が開基 創建は天武8年)
 登弥神社への分祀に付いては、古記録等によるものではなく、「ここらへん(矢田付近)の地域に伝承されているもの」との事だそうである。ちなみにこちらも毎年2月1日に筒粥占祭がある。
 またこの地域では最も古い旧家の一つである鳥見姓が数軒あるとも教えて下さった。矢田町は古くは矢田郷と呼ばれ物部氏系の矢田部氏(饒速日命7世孫大新河命之後:新撰姓氏録)の居住地に比定されているが、千葉から来たことを告げると茨城県つくば市谷田部との関係や千葉県の印西や旧本埜村に鳥見神社が多数あることなどご承知で親切に教えて下さった。

B鳥見霊畤(とみまつりのにわ)跡説

墨坂神社から見た鳥見山(奈良県宇陀市榛原区萩原)

奈良県の鳥見とは上記の等弥・登弥の他には桜井市の西、宇陀市に鳥見山がある(東吉野にもあり)。昭和初期には、この霊畤跡を巡り各市町村が我こそが霊畤の地として内務省・文部省を巻き込んだ論争に発展していました。特に昭和13年頃には紀元2600年祭典が近づき国会図書館に数点の資料が保管されています。記紀には神武天皇の宇陀での逸話が残されており、東征の折、難波で長髄彦に大和入りを阻止された後に熊野から迂回して宇陀の地で豪族の兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)と戦った場所であり大和を平定後に神武天皇は報恩感謝の為に霊畤(マツリノニワ)を建立し皇祖天神を祀った場所です。 下の図は「奈良県宇陀郡史料」を元に作成した図で、奈良県宇陀市榛原付近の図となっています。

 霊畤跡の東西南北にそれぞれ神社が配置され、現在確認されているのは北の鳥見社と南の墨坂神社(現在の地の前には天ノ森に鎮座)で、鳥見社は、元々天神社と呼ばれ皇祖天神をお祀りし墨坂神社に合祀された後に再度分祀されたとの口伝があると宮司さんからお伺いした。西の八重雲神社と東側の神社は確認できていない。尚、現墨坂神社の地は、天富命(忌部氏祖)の邸跡と伝えられている。
 この鳥見社もしくは墨坂神社が印西に分祀されたとする説なのだが、残念ながら確証は見出せない。しかし奈良県宇陀郡史料には次ぎのような記載が残されている。「近年発見せる記録は最も面白き事項を記載せり、それは下総国印旛郡小林郷萩原村鳥見神社は、古に宇陀郡萩原より分社せられたるものなる由、同神社社記にありと該社の分社年代及び理由は明らかならずと言えども分社せられたる社記及び現に萩原村鳥見神社の名称を下総の郡に呼称せるはまた奇と云う可し」と。

鳥見山公園

奈良県宇陀市鳥見山公園内にある勾玉池.。右奥に鳥見社(赤い鳥居)が見える。近鉄榛原駅から車で10分〜15分程で到着。公園内には霊畤跡碑や万葉句碑などがある。展望台からは南側の宇陀市の展望が広がりまるで箱庭によう美しい。初夏のツツジ、秋の紅葉が見所。なお、鳥見霊畤跡に付いては、その候補地が宇陀市鳥見山の他、桜井市の鳥見山、石木町の鳥見、天理市の桃尾山、東吉野などもある。
(写真提供:u zi さん)

鳥見社本殿

三間社流造に千木・勝男木を備える。郷土史家のS氏によれば、現在の本殿は明治時代に飛鳥の社を移築したものだと言う。残念ながら神紋などは確認できなかった。参道入口のは朱色の明神型鳥居、公園入口には墨坂神社から移築した鳥居がある。
墨坂神社境内社の天神社が西峠堂ノ上(上の図で天ノ森付近)より合祀されたのが明治41年3月、その後この場所に分祀されたと考えるのがよさそうである。

 その他、榛原町史によれば10世紀初頭、物部系の県首氏が居住しており新撰姓氏録には「宇麻志摩遅命之後也」と記されている他に資料は無い。皇祖天神とは誰をさしているのであろうか、忌部氏祖の天富命の関連など宇陀の地に興味は尽きない。

Cその他神社説

 大和国には上記の様に鳥見明神・鳥見社等があり、音を漢字表現した他の名には文献上に桃尾や跡見なども伺える。氏族系では石上神宮なども物部氏が祭祀に関わっているのに加え、祭神は布都御魂神・布留御魂神・布都斯御魂神とし配祀神として宇摩志麻治命、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣を祀る。布都御魂神は建甕槌神(タケミカヅチ)が帯びていた剣であり、布留御魂神とは宇摩志麻治命が饒速日命から受け継いだ十種の神宝を、布都斯御魂神は素盞鳴尊(スサノオ)がヤマタノオロチを斬った剣とされている。また布留御魂神は経津主神(フツヌシ)とする説もある。建甕槌神は鹿島神宮の祭神であり経津主神は香取神宮の祭神である。鹿島・香取神と物部氏、下総の地にある鳥見神社と何らかの関わりがあるのだろうか。 

C地名説

a)鳥見の丘説

 常陸風土記(和銅六年(713年)五月に編纂命令が下った全国調査報告書)の「香澄の里」の項に以下の記述がある。『郡家から南二十里に香澄の里がある。古い伝誦によると、大足日子天皇(景行天皇)が下総の国、印波の鳥見の丘にお登りになられ、あちこちお歩きになり、遥かに遠くを望み、東方をふりかえられて、お供の臣下に申された。「海には、すなわち、青い波が漂っており、陸には、これまた、赤色の霞がたなびいている。国がその中にあると私の目には見える。」と仰せられた。当時の人は、これを霞の郷と言った。東の山には森がある。榎、槻、椿、椎、箭、麦門冬(やますげ)が各所各所に、たくさん生えている。この里から西の海の中に洲がある。新治の洲と言う。そう称する理由は、洲の上に立って、はるか北の方を望めば、新治の国の小筑波の岳が見えることによるのである。』 簡単に言ってしまうと、「景行天皇が印旛の地に来られて鳥見と呼ばれる丘に登って東の方を見ると、海が見えさらには陸地も見えた。」と仰せになったと伝えている。
 この常陸風土記の記述は、古くから歴史好きの興味をそそるらしく江戸時代の文献などからも伺える。利根川図示・下総国旧事考・大系本風土記。古風土記などが各鳥見神社と鳥見の丘の場所を推論している。

「鳥見の丘」の場所の推定
 現在鳥見神社が分布している台地は「下総台地」と呼ばれている台地で、西は江戸川、北は利根川に区切られ、東は太平洋に臨む低地に、南方は上総の国まで続く広大な台地である。地質的には海成の洪積層の上に関東ローム層が乗っかっている構造になっている。今から約1500〜2000年前の地形的条件はどのようであったのか、場所の推定の前段として調べてみた。現在と大きく異なる点は2つある。1つは、利根川が現在の様に銚子から太平洋に注ぐのではなく現在の江戸川流域を通って東京湾に注いでいたこと。もう1つは、縄文海進(海の水位が上昇し海が陸地へ進入していた)が終わり、海退期に入っていたが、それでも現在の海水面より約5m程海水面は上がっていた。その結果、現在の千葉県北東部から茨城県南部にかけておおきな「香取の海」が入り込んでいた。現在の北浦・霞ヶ浦・牛久沼・手賀沼・利根川南岸地帯を含む広大な地域だったと想定される。(下図参照)

 これらの条件念頭に「東に海が見える丘」を現在の鳥見神社21ヶ所から探してみたのが下の表である。尚、備考欄には他文献からの推薦地も記してある。

所在地 判定 判定理由 備考
柏市金山 × 金山落しの左岸にあり、東側は右岸台地により視界は遮られる
柏市泉 × 同上
柏市布瀬 東へ突き出た舌状地先端にあるので問題なし
白井市富ヶ谷 × 東西南北ともに台地がある
白井市富塚 × 金山落し右岸にあり、東側は台地が続く
白井市白井 × 神崎川南岸にあるも、北から東へ伸びる台地により見えない
白井市小名内 × 低地にあり水没と判定
白井市名内 × 手賀沼北岸台地と東に印西市亀成地区の台地が塞がる
白井市神々廻 × 神崎川北岸にあり南側以外は視界が利かない
白井市平塚 × 手賀沼南岸で少し南に入り込んでいるた東方への視界は利かない
印西市浦部 東への視界は亀成地区の台地で塞がれるが北東方向に見える可能性は残る
印西市小倉 × 利根川から南へ進入する谷津の南端台地上のためNG
印西市和泉 × 同上
印西市大森 北方向への視界は利くが東方向は難しいか?
印西市小林 東から北への視界は利く 下総国旧事考推薦
印西市平岡 台地北東側に27mの最高点があり視界は利く 下総国旧事考推薦
印西市長門屋 × 低地にあり水没と判定
印西市中根 東側は遠くに印旛沼東岸台地(成田市・栄町)に塞がれるが北東方向に可能性は残る 大系本推薦
印西市萩原
(旧本埜村)
× 低地にあり水没と判定
印西市笠神 独立丘であり視界に問題はないが水位が上がっていた場合、丘より島になっていた可能性あり
印西市萩原
(旧印旛村)
台地先端に出れば視界は利くが東側は印旛沼東岸の台地に塞がれるが北方に見えた可能性あり 標注本・利根川図示推薦
栄町矢口 印旛郡栄町。番外編ではあるが下総国旧事考に「或いはこの場所とも」の記述あり。この地の一ノ宮神社は経津主が祭神。利根川南岸で展望は申し分なし。 下総国旧事考推薦

下総国旧事考:弘化二年(1845年)の文献 大系本:大系本風土記(秋元吉郎著) 標注本:古風土記(栗田寛著)


仮想展望図

柏市布瀬

布瀬から新治の洲を見た時の仮想展望図(古代湖水面上昇時)。実際には真東ではなく北(0度)から東へ64.7度方向なので東北東向きである。布施自体の標高は概ね9mであるが、直接「新治の洲」を見る事はできない。左側から中央にかけて半島状に台地が突出しているが、茨城県利根町から稲敷市にかけての現在の台地である。直線距離で約38q離れている。

印西市大森

同じく大森から見たときの仮想展望図。手前の右から延びる半島は、印西市平岡から木下に伸びる台地で先端付近に木下小学校がある。木下万葉公園から北側の台地と言った方が判り易そう。大森鳥見神社の標高は約20mではあるが「新治の洲」を望むことは難しそうだ。方向は東60.6度北東方向、距離は直線で約35q離れている。

印西市小林

小林からみた仮想展望図。但し、現鳥見神社地では無く伝承のように、所在の台地北側から展望した場合とした。右から伸びる印旛沼東岸(成田市・栄町)台地には邪魔されない。直線距離で約32q、現神社の標高は約26m。方向は東57.2度で東北東方向。目視上では水平線で「新治の洲」は見えないが、常陸風土記に記載されている条件には最も近い場所だと思われる。

印西市中根

中根から。方向は東51.6度 東北東、直線距離にして約32q、標高約29m。「新治の洲」は、印旛沼東岸台地によって明らかに遮られている。

印西市萩原(旧印旛村萩原)

利根川図誌と標注本推奨なので、一応作図してみた。予想通り、印旛沼東岸台地により遮られる。方位東48.7度 東北方向、直線距離約32.5q 標高約29m

 ここで先程の風土記の「丘に登って」(利根川図示では岳の字をあてている)の一節が重要になる。大和方面から鳥見の丘に来たとすれば考えられる主なルートは3本ある。
@西方ルート(江戸川方面)上記下総台地の説明で西の江戸川から最も近い富塚の鳥見神社までの直線距離は約13kmあり江戸川低地から下総台地を上がり「丘を登った」との表現とは考えずらい。
A南方ルートである上総方面から来た場合は、上総方面からの台地上の道から印旛沼の低地帯に一度降りてから再 度台地に登るケース、または東岸から船便で西岸に渡るケースが考えられるが、あえて丘に登ると言う表現を残すのか疑問が残る。
B船便ルート、東もしくは北側には印旛沼と香取の海の水路が続いており、船便で印旛沼低地か香取の海沿岸低地に上陸した場合に最も「丘に登る」と言う表現が妥当だと考えるのだが如何だろうか。

 上記の等弥神社でも述べたが、鳥見神社と宗像神社の位置関係と東方向に海が見える丘の地点で推定すれば(正確に東ではないが)旧印旛村萩原(鳥見神社)と同村吉高(宗像神社)間の丘と見られる。印旛沼に面した台地の標高はほぼ30mであり、この高さは旧印旛村・旧本埜村・印西市東部までは、殆ど変わらない標高である。さらに、この萩原〜吉高の中間地点には松虫地区があり、偶然にしては出来過ぎか。また、偶然と言えば奈良県榛原町にも鳥見山があり、その東南麓には萩原の地名が存在している。奈良県鳥見山と萩原、旧印旛村萩原と旧本埜村萩原・・・。偶然とは思えないのだが。

年代の推定
 景行天皇は第12代天皇で在位の期間は、記紀などからの文献で西暦71年〜130年と考えられており実際にも世界年表などの辞典にも掲載されている。しかし、日本書紀には垂仁37年(西暦8年)に[大足彦尊(景行天皇)を皇太子に定む]とあり、つまり景行天皇が誕生して崩御するまで少なくても122年間あることになりこの事からしても景行天皇期そのものに疑問があるのは言うまでも無い。
 魏志倭人伝には「その人は寿考(老)にして、あるいは百年、あるいは八、九十年。〜」とあり、当時の中国でも日本人の寿命は長いと伝わっていると思われる。しかし、稀には100歳まで生きたとしても歴代天皇は皆長寿である。祟神天皇168歳、垂仁天皇153歳に至っては絶対不可能であったと言ってよい。その謎を解くカギは、宋の学者、裴松之(はいしょうし)が魏志倭人伝のもとになった「魏略」を引用して本文中に書き込んでいる以下の文である。「魏略にいわく、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と。つまり倭では四季のある暦を知らず、春に耕し秋に収穫することで1年としていると伝えられている。つまり現在の1年は当時の暦では2年としているのであり、そうとすれば前述の年齢を半分として考えれば現在の常識の範囲内に納まってくる。この説を基にして干支などを勘案して修正された景行天皇の即位を306年、没年は325年とする説が最も説得力に富んでいる。
 考古学上、房総半島に古墳が出現するのが西暦250年頃、最古の前方後円墳が4世紀頃、古墳文化を畿内からの文化の伝播と考えれば、景行天皇の伝承とは矛盾はしていない。つまり文献から見ると景行天皇が下総の地に来られた年代は4世紀と考えることができる。 景行天皇自ら辺境地区に来たかどうかは別としても大和政権からやってきた皇族もしくはそれに類する近縁の豪族が下総の地にやって来て常陸風土記に記された可能性はあろう。

b)言美郷説

 和名類聚抄〔わみょうるいじゅしょう:承平年間 (931〜938年)に源順(みなもとのしたごう)が編纂。以下和名抄〕には、印旛郡内の11郷(一部写本では10郷)が記載されており、掲載順に八代・印幡・言美・三宅・長隈・鳥矢(鳴矢)・吉高・船穂・日理・村神・余戸の11郷である。この記載順に2郷を1ペアとして隣り合わせ(北南または東西の順)に並んでいるとも言われている。これら11郷の内現在の地名でほぼ比定できる郷が八代・長隈・吉高・船穂・村神であり、関係が推定できる郷は鳴矢・日理・余戸の3郷である。現在の地名から比定できないペアは言美郷・三宅郷だけで(余戸郷は単独)郡内で余白地域を探すとどうしても印西北部が不自然に空白化してしまい、そこに言美・三宅両郷のあった可能性は高いと言えそうだ。さらに下に郷の推定位置をマップに落としたものがあるが、ご覧の通りに各郷は香取海内海沿岸沿いもしくは比較的大きな河川流域に位置していることからも言えるのではなかろうか。(郷とは古代からの行政単位であり、当初の郡里制から郡郷里制には大宝律令(701年)頃に移行し郡郷制(里が廃止)には740年頃に移行したと考えられている。言美郷が出現した時期は8世紀初頭から中頃にかけてが最も早く、遅くとも10世紀には出現していたと考えてよいのではなかろうか。)
 言美郷説とはその内の言美郷を登美郷の誤りとして、また「鳥見の丘」の場所と関連付けて印西北部から北東部(印西市木下〜中根)をその地と推定し鳥見神社の由来とする説である。、東急本・高山寺本・名市博本共に言美郷、地名辞典・地理志料は登美の誤りとしている。尚、地名辞典及び地理志料は言美郷を印西市平岡と小林付近に比定している。和名抄の記述に言美郷には読みがなが記されていないのも1つの原因であろう。 


八代・印幡郷-成田市八代・地域不明
長隈・鳴矢郷-佐倉市長熊・佐倉市鏑木
日理・村神郷-佐倉市臼井・八千代市村上
吉高・船穂郷-旧印旛村吉高・印西市船尾
言美・三宅郷-地域不明・印西市小倉
余戸郷----佐倉市天辺

 鳥見(トミ)の読み方に付いては古くは日本書紀に既に記述があり、神武記には長髄彦を討った後、「金色の霊しき鵄有りて、飛び着たりて弓の弭に止まれり・・・・・・鵄の瑞を得るによりて、時人よりて鵄邑と号す。今鳥見と云うは、是訛れるなり」と。日本書紀には既にもう鳥見とは鵄が訛ったものであると論じているのである。
 「トビ」及びそれの転化した漢字表記は驚くほど多くあり以下にその幾つかを紹介する。
登美-古事記・続日本紀  鳥見-日本書紀  跡見-万葉集・日本書紀  等弥-延喜式  登弥-延喜式  止美-上宮聖徳法王帝説  富-金葉集  度見-今昔物語  止三-日本霊異記  鳥見庄-西大寺田園目録  外見(山・川)-地名  等が見受けられる。
 上記の常陸風土記(713年)の成立時期と郡郷里制(701年)には僅かに重なりが見られるものの、その他に積極的にこの説を支持する文献及び伝承等は現在の処見受けられないが諸説の一部として掲載しておく。

D白鳥説 

 もともと鳥見神社の祭神は饒速日命ではなかったとする大胆な仮説。その名の通り「鳥」を祭神とするもので、その鳥とは当時より特別な意味を持つ白鳥(オオハクチョウ)を指すものである。慶雲元年(704年)七月、「下総国から白鳥が献上される」と言う記述が続日本紀と扶桑略紀に見られる。印西地区は現在でも冬期にはオオハクチョウがシベリアから飛来し越冬する。その他にも手賀沼や印旛沼などでも見ることができる。今年の春、手賀沼でオオハクチョウを真近で見たがその大きさは相当迫力があり旧本埜村の白鳥飛来地は名所にもなっている程である。鳥の捕獲や飼育に関するものは記紀の中に鳥取部(捕獲)と鳥養部(飼育)がある。富雄町史には「鳥見は鳥貝(鳥飼)を誤写した結果生じたか」とあり、また日本地名伝承論では「鳥飼部を2文字化した鳥部(トべ)からトビ・トミに変化したのではないか」と推測している。印旛沼東岸には古代の官道が走り鳥取駅が設置されていたので、あるいはそれらが印西地区にも居住していたのだろうか。また、白鳥と物部氏との関係を指摘する説(白鳥伝説 谷川健一著)もあり、今後も調べていきたい。

    白井市清水口調整池