祭神と古代氏族

1)饒速日命(ニギハヤミノミコト)、宇摩志麻治命(ウマシマチノミコト)、御炊屋姫命(ミカシキヤヒメノミコト)の系譜

 ここで、鳥見神社の祭神である饒速日命、宇摩志麻治命、御炊屋姫命に付いて見てみよう。
 この3神は夫婦とその子供として文献上に登場する。
 古代の出来事を記した古事記・日本書紀(以下記紀)の扱いと先代旧事本紀(以下旧事紀)ではその扱いがかなり異なる。具体的にその系譜を述べている旧事紀に対して、記紀の記述は非常に簡素でありその系譜に具体性に欠けており、それが論議の的にもなっている。
 下図は旧事紀と記紀による饒速日命の系譜の違いを示したものである。
 旧事紀によれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、またの名を天火明尊、また天照国照彦天火明尊、また饒速日尊と云う。妻を御炊屋姫と云い、宇摩志麻治命、またの名を味間見命、また可美眞手命と云う。
 古事記では正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子を天明命、神武天皇東征中に邇藝速日命として登場する。妻は登美夜毘賣であり、その子を宇摩志麻遅命と記す。日本書紀では天照国照彦天火明命、後には櫛玉饒速日命、また?芸波椰卑と云う。妻は三炊屋姫、またの名を鳥見屋姫、また長髄姫、子を可美真手命、またの名を于魔詩莽耐と記す。

 分布する鳥見神社の御祭神の表記について千葉県神社名鑑を見ると、平岡・浦部の2社は古事記表記、他社は日本書紀・旧事紀の表記と2分されるところに注目したい。

*古事記:奈良時代初期(712年)に太安萬呂(オオノヤスマロ)によって編纂。
*日本書紀:同720年に舎人親王の下に完成。強い政治的意図と年代構成が大きくズレている等の不合理がある。
*先代旧事本紀:聖徳太子の編纂とされていたため長らく偽書とされていたが再評価されている。江戸時代の研究で9〜10世紀の編纂とされており物部氏関係の記述が多い。


 これまで系図の不明確な表記によって様々な憶測が語られてきた。旧事紀以外は正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子供と神武天皇東征の折の人物が同一であるか、また意図的に不明確な表記にされたのではないかなどの意見も多い。さらにはこの他の出自の不明確な神々(大物主等)との関連も取り沙汰されている。

2)饒速日命の従者と東遷

 旧事紀第三巻「天神本紀」(あまつかみのふみ)によれば、「三十二人を防衛(ふせぎまもり)と為し、天降共奉る」・「五部人を副従為て天降共奉る」・「五部造伴領と為し、天物部を率いて天降共奉る」・「天物部等二十五部人、同じく兵杖を帯びて天降共奉る」・「船長同じく共に、舵取り等率領て、天降共奉る」とある。これを簡単に言えば32人の親衛隊と25の部隊を率いる将と船頭他を従えてとなる。またその25の部隊の中に興味深い記述がある。鳥見(トミ)物部〔北九州遠賀町鳥見山〕・赤間物部〔宗像市赤間〕である。〔 〕内は出自地と思われる所である。饒速日命率いる部隊の中に鳥見を名乗る部隊と宗像出身の部隊とは。本件に何か関係があるのではと疑わずにはいられない。
 それら部隊を従えた饒速日命は河内国河上哮峯(かわかみのいかるがのみね)に天下り、そして大倭国鳥見の白(庭)山に遷座すると伝えている。また、同第五巻「天孫本紀」には饒速日命が亡くなって後、天羽々弓・天羽々矢・神衣帯手貫の三物を登美白庭邑を以て墓所としたとある。

磐船神社(大阪府交野市)

磐船神社御由緒:当神社は饒速日尊が乗って来られた天の磐船を御神体として祀り、古来より天孫降臨の聖地として崇敬されています。当神社の創祀年代は詳らかではありませんが磐座信仰という神道最古の信仰形態と伝承の内容から縄文から弥生への過渡期まで遡ると考えられております。その後、物部氏を中心として祭祀が行われていましたが、物部氏本宗の滅亡後、山岳仏教や住吉信仰などの影響を受けるようになり平安時代には「北嶺の宿」と呼ばれ生駒山系の修験道の一大行場として変貌を遂げるに至る。(境内由緒書から抜粋要約)
大阪府交野市私市9-19-1に鎮座し、交野市は肩野物部と称する一族の地とも云われる。生駒山系北部にあり枚方市の平野部と奈良盆地の境目にあたる場所である。御神体の「天に磐船」は巨岩であり、山や岩の無い土地に住む私にとっては、とても興味深く思える。

饒速日命墳墓(奈良県生駒市あすか野北)

生駒総合運動公園内のテニスコートから山中に分け入る。細い山道なので天候が良くないと厳しい。一般には判らないヒミツの場所にあるにもかかわらず、訪れる人もいるようで(私もその1人だが)供物などの痕跡がある。碑の後側には石を積んだ塚が見える。
上記の磐船神社の南約5q地点にある。

鳥見白庭山(生駒市上町)

鳥見白庭山の碑ですぐ近くには「長髄彦本拠」の碑も立っている。付近は丘陵地帯をを宅地造成し新たに「白庭台」の地名が付いている。この丘陵地域は西に北流する天野川と東に南流する富雄川に挟まれた分水嶺となっている。饒速日命墳墓より北約2qの集会所脇に立っている。

石切劔箭神社(大阪府東大阪市)

 今からおよそ700年前の足利時代の末に、兵火にかかり、社殿及び宝庫が悉く焼失したため詳らかではありません。しかしながら、「延喜式神名帳」の中には、既に「石切劔箭命神社2座」と記載されており、また「日本三代実録」には貞観7年9月に、本社の社格が正六位から従五位に昇格されたことが記されております。また、天文5年に当社社家の祖先 藤原行春大人の記した「遺書伝来記」によれば、神武天皇紀元2年、現生駒山中の宮山に饒速日尊を奉斎申し上げたのをもって神社の起源とし、崇神天皇の御代になって「下之社(現本社)」に可美真手命が祀られたとあります。(参詣のしおりより抜粋)
 この石切劔箭神社は生駒山系の西側に鎮座しており、上之社と下之社に別れてはいるが、いずれも生駒山系を意識したものと考えられ、饒速日命に所縁のある場所と思われる。(写真は上之社(宮))

 但馬故事記(但馬国志文書)には、饒速日命の大倭国白庭山に至るまでの詳しい伝承が残されている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。豊受姫命はこれを見て大いに歓喜びて曰し給わく「あなに愛やし。命これを田庭に植えたり」と。然る後豊受姫命は天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの御業を補佐けしめ、而して後高天原に上り給う。その後天火明命は五穀蚕桑の道を顕国(うつしくに)に起こし、大いに蒼生を幸い給う。この時国作大己貴命・少彦名命・蒼魂命は諸国を巡り視て高志国に駐り天火明命を召して曰く、「汝命、この国を領(うしは)き知るべし」と。天火明命は大いに歓びて曰く、「永世なり。青雲志楽国」と。故(か)れ此の地を名づけて志楽国と云う。(中略)天火明命は神功既に終り、徳また大いなり。美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡り視、田庭津国を経て、河内に入り哮峯に止まり、大和跡見(とみ)の白庭山に至ります。跡見酋長長髄彦の妹、御炊屋姫命を娶り、宇麻志摩遅命を生む。天火明命は高天原に在ります時、天道姫命を娶り、天香久山命を生む。天香久山命は天村雲命を生み〜以下略。」(但馬故事記:吾郷清彦著より引用)

 また秀真伝には「大濡煮(者火)尊の御世より150万1001年を経た年の3月、春日殿(天児屋根命の父)は年老いて祭り事を休まん。忍穂耳尊は、御子の奇玉火之明、諱(いみな)照彦尊を代わりに、お下しになろうと父自らの告文を香具山命雄鹿から天照神に奉った。その文には「自ら葦原の国を治めんと装うも民が集まりひたすら止めるので、照彦を下さん。」と御伺いを立てた。伊勢の御神はこれを許すべく雄鹿に返事をした。ここに外祖の天津神、十種宝を授ける。沖ツ鏡と辺境鏡、叢雲剣、うなる玉、魂返し玉、千足玉、道明玉、大蛇領巾、羽々霊染む領巾、木の葉領巾の十種なり。痛むことあらば一二三四五六七八九十まで数えて振へ、ゆらゆら振へ、かくなせば既にまかるも蘇る振るの詞ぞ。(中略)日高見を出て鹿島宮その道民出で迎え耕しを欠と聞し召し、伊勢に侍る御子の弟、清仁尊神に勅。汝と手力雄速船に行きて磐舟進むべし。よりて御孫尊と手力雄命鰐船に乗り上総の九十九浜に着きて香取宮、神詞宣れば火之明尊真占命を召して占問えば(中略)九十九浜より伊豆の岬に帆を上げて沖走る目は大空を遙かにかけり御熊野宮に拝みて浪速より鴨船にて至る。斑鳩の峰より鳥の白庭に天磐舟大空を駆け巡りて、この里のなおも空見つ〜以下略。(完訳秀真伝より要約抜粋)

*但馬故事記:いわゆる古史古伝の1つ。嵯峨天皇の勅命により天延3年(975年)に完成したとされる。完成までに約80回近くも改訂され、執筆者も多数とされる史料であるが真偽不明で批判も多い。

*秀真伝(ホツマツタエ):編者は三輪季聡(すえとし)。景行天皇時代に選録されたとされる。しかし発見は昭和41年古本屋でその一部を、残部を小笠原家で発見したと云う。秀真文字(神代文字)で記される。