鳥見神社縁起                    

鳥見神社・宗像神社の情報をお待ちしております。

所在地 境内由緒書 千葉県神社名鑑 印旛郡誌 その他
金山
(柏市)
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縁起記載なし

東葛飾郡誌に記載なし 金山地区の鎮守。創立不詳。泉地区の鳥見神社と祭神及び祭日が同一である。当地区は中世に泉と同じ相馬一族の城址と言われ、後に泉地区から分離したと伝えられていることから密接不離の関係にあったと推定される。また当社は円林寺と隣接した高台に位置しする。円林寺の山号は愛宕山であり愛宕神社を祀っている。ところが愛宕神社の祭りは当社で行っている事から円林寺とも深い関係を有している事が知られる。(沼南町史)

(柏市)
- 創建年代等は詳でないが安政三年の古文書を有す。 東葛飾郡誌に記載なし 泉地区の鎮守。創建不詳。「伊津美神社」の扁額と古軸が現存し、社殿の方角が旧泉村中央に背を向け、中世相馬氏の城址である「立て台」に向かっていることなどから古い歴史を持つものと推定される。本殿は明和六年(1769年)再建であるが旧本殿は火災で焼失したと言われている。再建の別当職は当地区の吉祥院であり竣工の導師は吉祥院の本寺である龍泉寺(我孫子市)住職であった。安政三年(1856年)京都吉田殿より鳥見神社の官位を受けている。(沼南町史)
布施
(柏市)
 経津主命及び饒速日命を祀り人皇42代文武天皇、文武二年(698年)九月一五日創立を伝えられる。文武二年六月は、大干害にて諸作物が皆枯死し地方の人々は嘆き、布施郷及び近郷の農民が大いに協力努力して当地に集合 氏神に祈願し忽ちにして甘露の雨を降らせ五穀豊穣を得たが故に同年九月該所に一宇を建立したのが始まりです。 寛永元年(1748年)京都嵯峨御所より当地松沢家出身の暁慧大僧正が菊の御紋章を受領し、香取鳥見神社に納め今日に至る。 東葛飾郡誌に記載なし 創立は文武二年九月一五日と伝えられている。後に中世には千葉氏やその一門の原氏による庇護を受け社殿・拝殿などが造営されたという。寛永元年七月二十七日には京都嵯峨御所から一六菊、五七桐の紋章、式刀、提灯、紋章付幕などが下され、殆どが現存している。下賜に尽力したのは布瀬村出身の高僧、暁恵権僧正(1731〜1803)である。現本殿は再建のもので、天保六年(1835年)起工、上棟は同九年であり、棟梁は香取郡笹本村の出身であった。(沼南町史)
富塚
(白井市)
- 縁起記載なし 川上英太郎祖先の氏神を一村の鎮守となす。創立年月不詳。十二神神楽の催しあり。 -
小名内
(白井市)
- 記載なし 記載なし -
名内
(白井市)
- 縁起記載なし 名内村字宮脇にあり、面足尊(*1)を祀る由緒不詳。 白井村誌(*2)にも同じ記述あり。祭神は面足尊。
平塚
(白井市)
- 縁起記載なし 由緒不明。 -
白井
(白井市)
- 縁起記載なし 白井橋本村字東郷にあり。由緒不詳。 本殿は富ヶ谷の個人宅にあった氏神を移築したもの。(白井市HP掲載)江戸初期頃か。
神々廻
(白井市)
- 慶長七年(1602年)鎮座、元文四年(1739年)再建、宝暦二年(1752年)拝殿建立。明和五年(1768年)社殿、寛政七年(1795年)拝所再建。安政二年(1855年)正一位鳥見神社日本武尊の神位を許可せられる。 鎮座年歴慶長七年、元文四年再建、宝暦二年拝殿建立。明和五年社殿、寛政七年拝所再建。安政二年、氏子並びに各村に至るまで五穀豊穣の為に出願し正一位鳥見神社日本武尊の神位を許可せられる。 -
富ヶ谷
(白井市)
- 記載なし 復村字仲下にあり由緒不詳。 -
浦部
(印西市)
- 慶安元年(1648年)鎮座、元禄一六年(1703年)再建、宝暦四年(1754年)修築。旧地頭上杉家の祈願所とする。 慶安元年鎮座、元禄一六年再建。地頭、上杉家祈願所。 -
大森
(印西市)
大森の鳥見神社は、崇人天皇の御代に全国平定の基礎を固めた大和王朝の東国経略に伴い、有力豪族であった物部氏族がこの地方に進出開拓、経綸の勢威を示すと共に、その安全と繁栄を祈り、土地神として大森の地に先祖饒速日命の霊を祀ったのが創建の由来と承る。(大森鳥見神社の栞より抜粋) 創立は崇神五年(紀元前93年)と伝う。大同二年(807年)再建、貞観三年(861年)修繕、応安二年(1368年)再建、永禄元年(1558年)改造再建、寛永十三年(1636年)再建、延宝四年(1676年)修繕、文久三年(1863年)再建、大正二年拝殿、煉瓦玉垣を建築し現在に至る。 由緒不詳。大庄屋、宮嶋勘右衛門が代々諸帳面を管理していたが延宝四年火災により焼失し由来を詳にすることを得ない。棟札によれば、古来より人民一致の鎮守として祭祀し寛永十三年本殿再建、延宝四年修繕、享保十二年(1727年)には正一位鳥見大明神の宣旨あり。文久三年、村民及び隣村有志の寄附により再建し今日に至る。寛永以後明治まで大森の鎮守として神官を置く。 -
小倉
(印西市)
- 縁起記載なし 由緒不明。 -
和泉
(印西市)
 鳥見神社は印旛沼北岸内に集中して分布し、その範囲は古代の言美郷にも比定される。一説に大和国城上郡鳥見白庭山の鳥見大明神を勧請したとも言われ祭神には物部氏の祖神を祀る。八世紀初めに成立した「常陸国風土記」に景行天皇が下総国印旛郡の鳥見の丘より霞の郷を望んだとの古伝がある。慶安三年(1650年)九月14日再興、文化十三年(1816年)5月一五日建替え、弘化四年(1847年)修理。 創建年など不詳だが慶安三年(1650年)再興、文化十三年(1816年)建替え。 慶安三年再興、文化十三年再建、弘化四年(1847年)修繕。 -
平岡
(印西市)
- 延宝六戊午年(1678年)雪月吉祥日、隣村大森村より鳥見神社の御神璽を戴き、大森村の名主宮島猪左エ門外一同来り。平岡村の名主深山伊左衛門御幣を深山太郎兵衛奉持みこしのもと四郎左衛門藤左衛門甚兵衛五左衛門奉仕して来り、当社に奉斎」の棟札が現存している。 縁起記載なし 大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫命を妃として宇摩志真知命を生んだ。その後東征して印旛沼・手賀沼・利根川に囲まれた土地に土着したその部下が、祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。永禄年間城主千葉介胤高の崇敬が厚く、隣村の小林に崇敬社として鳥見神社を創建。このため印西に鳥見神社を産土神とする信仰が高まり、十数社の鳥見神社が創建された。(全国神社名鑑)
小林
(印西市)
此の地開拓の祖神として祟神天皇御宇五年に創建されてと伝えられており、安産子育学問の神として遠近の崇敬が厚く、永禄十一年(1568年)三月十九日千葉家に於いて天下泰平五穀豊穣祈願の為、本殿拝殿を改修された伝わり、後元和年中に再建され現在の社殿は安永六年五月に造営されたとある。千葉布川臼井城主等の祈願もあり明治十二年印西の郷社に列し、昭和五十五年に千葉県神社庁より規範神社の指定を受ける。 創立は崇神五年(紀元前93年)と伝えられ、印西十八ヶ村の総社とされる。永禄十一年三月一九日千葉介胤富が本拝殿を改築。千葉城主・布川城主(豊島氏)・臼井城主(原氏)等も天下泰平・五穀豊穣を祈願され、現存の社殿は安永六年(1777年)造営。 永禄十一年千葉之助(原文ママ)平胤富再建。明治十二年、郷社許可。町史に云う、祟神三年(紀元前95年)創立と伝える。元還座大和国城上郡鳥見白庭山鳥見大神御分勧請す。永禄十一年大旦那千葉の城主千葉之介平胤富の造営にして、臼井城主、原大蔵丞平胤晴、三河国神村隼人等の寄附あり。18ヶ村の郷社にして千葉城北方入冠鬼門除けの社と伝える。昔、景行天皇ご巡幸のおり、当社地にご休憩なさり遥かに常陸国を御展望され丹霞云々とお読み給わることは所々に註せり。大神の苗裔利民の業を興したるにより、当地方の開拓に功績あるを持って18ヶ村の鎮守と奉祀されたと言う。 北門開拓の祖神として遠近の崇敬厚く千葉家では永禄十一年天下泰平、五穀豊穣祈願のため本殿拝殿改造。(全国神社名鑑)
笠神
(印西市)
- 縁起記載なし 由緒不詳 饒速日命を祀る由緒不詳社殿は文政十年竣工、石工は姉崎石工久兵衛、棟梁は千葉郡武石の忠蔵、彫刻は後藤某の作なり。本社は小林・平岡・中根と同じく印波十八鳥見の一にして壮厳なる者なりしか。村里大火の為、共に類焼し棟札由緒書等を鳥有に帰し詳かにできず。また文政十年に至り期熟し協議なり再建とも云う。(本埜村誌・原文ママ)
中根
(印西市)
- 創立は崇神五年(紀元前93年)と伝えられ、治承四年(1181年)源頼朝が印旛浦遊覧の折に参拝、良田三町を給う。現在の本殿は宝暦九年(1759年)再建、拝殿は昭和三年改築された。 縁起記載なし 景行天皇四十年(110年)東夷反す。大皇日本武尊東夷を征せしむ。尊、この地に神霊を奉祀し大和鳥見山に因み鳥見神社と称し東国の鎮神となし給う。六国史所載にして延喜神名帳に登載せられ式内社に列し(*3)後世武人の崇敬すること深く鎌倉幕府の祖、源頼朝は鳥見社を崇拝敬意すること浅からず、治承年間の如きは祭田三町歩を寄進し、また千葉介常胤は本殿拝殿當の改造費を奉納し深く信仰していた。宝暦年中廃頽著しく同九年改築落成し現在にいたる。(本埜村誌(*4)・原文ママ)
萩原
(印西市)
- 縁起記載なし 由緒不詳。面足命を祭神と記す -
長門屋
(印西市)
下井鳥見神社の由来
印西地方には、祭神、饒速日命奉祀する鳥見神社が数多く鎮座する。当社の由来は詳らかでないが、寛文年間(1661年代)に埜原村長門屋字土手通りに、新田開発に伴って勧請されたといわれる。。爾来、家業繁盛、家内安全の守護神として広く崇敬されてきました。明治16年本殿建替えの棟札が現存する。(要約抜粋)
縁起記載なし 由緒不詳。面足命を祭神と記す -
萩原
(印西市)
- 縁起記載なし 萩原村辺田谷にあり。勧請年月不詳。古老の口碑によれば大和国城上郡灰原(旧萩原)鳥見神社分霊勧請す。千葉介清胤の寄附によって本殿拝殿鳥居再建、その後相馬郡布川城主、豊嶋主膳正依寄附あり。(中略)新撰佐倉風土記には常陸国風土記の云う鳥見の丘とは本社である。 萩原村鳥見神社の「由緒書」に、「当社の勧請、五代孝昭天皇の御代大和国城上郡萩原の鳥見山神々の霊を下総国印旛郡萩原の地へ遷座し奉り、往古大破し、千葉介清胤、本社・拝殿・鳥居等を寄進、その後、相馬郡布川城主豊嶋主膳正依寄付、寛永八年九月建立し奉る。その後、安政六年建立し奉る。」とある。(印旛村史)

*1面足命(オモダルノミコト):神世7代中、第6代の神。古事記伝には「大地の表面が完成し満足を意味する神名」
*2白井村誌:大正4年白井村発行、印旛郡誌は大正2年発行
*3式内社:延喜式神名帳に掲載された神社のことであるが、鳥見神社は掲載されていない。
*4本埜村誌:大正5年本埜村役場発行



宗像神社縁起

所在地 境内由緒書 千葉県神社名鑑 印旛郡誌 その他
清戸
(白井市)
- 印西内郷の総鎮守。宗像大明神が当下総に鎮座されたのは当社が最初である。貞観十八年創建後、慶長八年再建、天保二年建替現在に至る。 貞観十八年の鎮座なり。下総国印旛郡印西内郷総鎮守奉祟第一最初鎮座。創建後、慶長八年再建、天保二年、三度建立現在の社殿なり。慶長八年より毎年九月に谷田村清戸村立会いの上、神輿を出して祭典を行う。以後隔年の当番となる。当時の領主、柳原八兵衛、荒川長兵衛、伊藤右馬丞の三家より年々祭典料を下される。明治一六年、両村の寄附により鳥居を建立せり。 千葉県(下総国)印旛郡には、元宗像村(現印旛村西部)と言う村があり、ここには6社(師戸・吉田・造谷・岩戸・大廻・鎌苅)の宗像神社が鎮座し、いづれも三女神を奉斎する。この村にはこれらの宗像神社の他には他の神を奉祀していない。この宗像神社の影響を受け隣村の六合村(現印旛村東部)には4社(瀬戸・山田・平賀・吉高)がある。同白井町(市)清戸には、元村社宗像神社(由緒不明)があり、印西市船尾・戸神に2社の以上13社が存在する。一郡内に分祀13社の鎮座する所は他にその比を見ないところである。神社明細帳によってその由緒を窺うに鎮座を古代に係わり付けているものもあるが、印旛沼開拓・治水の神として奉祀されたのであろうことは、いづれの社にも同じであろうとと考えられる。(宗像神社史)
戸神
(印西市)
鎮座年暦不詳。創建以来、幾度か改修されたと思われますが。大正十一年三月不慮の火災により書記録を焼失してしまいました。約一千年程前、印旛沼・手賀沼・利根川・牛久沼・霞ヶ浦等この一帯がまだ内海であった頃、印旛沼・手賀沼沿岸に宗像神社13社、鳥見神社二十社、麻賀多神社17社が、全国的にも類を見ない特異な形態で配祀されました。こうした状況から「3神社」共ほぼ同一年代に鎮座されたものと考えられ、当地宗像神社も9世紀後半期に創設されたものと推定されます。更には、この地に集落が出来た上代に遡るとも考えられます。以来、戸神武西両区の産土神社として崇敬され、代々に亘り氏子崇敬者の生活の安全と繁栄を見守って来られました。 大正十一年三月、不慮の火災で社殿古文書等を焼失し由緒不明、昭和五年再建。 由緒不詳。元文三年七月、京都吉田殿より宣旨あり。
船尾
(印西市)
- 創建年代不詳。元文二年に正一位宗像大明神を給わる。印西八ヶ村の総社と言われる。 由緒不詳。文久二年七月、京都吉田殿より宣旨あり。(*1)
吉田
(印西市)
- 創建年代等詳細は明らかでないが、この地方は古くから利根川印旛沼の水の氾濫が多かったので、治水・水運の神として筑前国宗像から宗像三女神を勧請して創祀したと伝えられる。 由緒不詳
岩戸
(印西市)
- 旧記を失い確証となすべきものなし。 旧記を失い確証となすべきものなし。当社を宗像神社と称する故は、三柱姫の神を鎮祭するが故なり。この宗像神社は大和国春日神社に鎮祭する鹿島香取平岡の神に府座と言うも、鹿島香取は神名式の大社にして実に神代の鎮座なり。この姫神の本社は筑前国なれども鹿島香取の神に府座せる故に、当地に鎮際祭せられたり。と言うのもこの印西の土地たる印旛沼の西方に位置して沼の東方を左とし南方面とし西方を右として半島をなしたり。この神を鎮祭するに最も適した土地なるが宮所をこの地に相(招)したりと見えて、東南西に位置して沼水を展望する村落に皆この神を祀られたり。この神に仕える神家は皆、香取を姓として社伝にも古代先祖は香取から来れりと云う。今は寒郷の村落なれども古代は名神大社の香取に府座する実にやんごとなき郷分社に座しける。
大廻
(印西市)
- 縁起記載なし 由緒不詳
造谷
(印西市)
- 寛永九年(1632年)の創立。 由緒不詳
師戸
(印西市)
- 縁起記載なし 由緒不詳
鎌刈
(印西市)
- 縁起記載なし 由緒不詳
瀬戸
(印西市)
- 寛和元年筑前国宗像から宗像三女神を勧請して社殿を創建したと伝える。以来宗像大明神と称せられ治水・水産の神として尊崇された。天保十二年宗像神社と改称された。文政十年改築の際、堀田藩主より寄進あり。 寛和元年九月筑前の国宗像郡田嶋より勧請し宗像大明神と唱え来る。弘化元年宗像神社と改称。佐倉風土記に宗像神社と載せるのは唯一一社のみ、宗像神社在瀬戸村遷筑紫宗像神社。寛和元年改造、天保十二年奉幣奉額あり。文政十年領主堀田正睦より田一反歩の寄進あり。また同年、地頭堀田相模守より拝殿造営の寄進あり。
山田
(印西市)
- 延喜式外と称し、口碑によれば景行天皇四十一年日本武尊が東夷征伐の折、当地に仮宮を造営、筑紫の宗像神社を奉斎し鎮撫の祈願をした。同五十三年景行天皇の鎮定された東国の地を巡覧し葛飾野御狩の時に参拝なされ宗像宮と号された。祈願所となる所以である。幡に日の印有が丘と称し給い、応神天皇の御宇、印旛国造伊都許利命を奉祀すと和銅六年の下総風土記に記す。 延喜式外と称し、口碑によれば景行天皇四十一年日本武尊が東夷征伐の折、当地に仮宮を造営、筑紫の宗像神社を奉斎し鎮撫の祈願をした。同五十三年景行天皇の鎮定された東国の地を巡覧し葛飾野御狩の時に参拝なされ宗像宮と号された。祈願所となる所以なり。地形は国の中央印旛沼に突出せる半島の麗しきを持って天皇自ら丘陵に上りて北西を望めば霞の中に国あるかなと、東を顧みて幡に日の印有が丘と称し給い、応神天皇の御宇、印旛国造伊都許利命を奉祀すと和銅六年の下総風土記に見る。天慶三年正一位を授けられ、御宇多田天皇の時、北条時宗異賊討伐の祈願をなし給う時、山田村内に田一貫を寄進する。乾元元年従三位藤原家清をして奉幣あり、天正十九年、徳川内府より同村一石六斗の寄進あり。文化元年、卜部良連より幣帛あり。天保十四年、神主藤原重貞従五位下に列し河内守に任ぜられる。同時に宗像大明神と称し本郡大明神に列せられる。
平賀
(印西市)
- 応神天皇の御代、印旛国造伊都許利命が印旛の治水と殖産振興を計って当地に宗像三神を祭った。「開かれる所」の意より平賀の地名が出来たと伝える。天平年中、別当神宮寺盤若院を建立、明治維新で廃寺となる。旧号宗像大明神、明治二年に宗像神社と改称される。天慶・治承・天正・慶安・文久年間に各本殿建替。 由緒不明。応神天皇十二年詔により印旛の地に印旛国造伊都許利命を置く。先ず印東を鎮め公津の地に居す。公津は神津なり。命印西の渡りまず平賀地を開く。平賀は開くの意にして印西の地これより開かんとの旨にて村名となる。この地は四面湖水に望み北端の一角僅かに山田村に接す。年々水難を蒙ること夥しく南端に水神水波女神を祭り土民を安堵せしめる。命治水の功を績みここに宗像神社を鎮める。これ命の功績と共に後世に伝え平賀の二宮と言う所以なり。この地が発するや麻・穀を植え耕作の進歩を計る。ここに麻を数多く作る人を生ずる。命また居家を定め応神天皇を祭り大伯父、神八井耳神を以って鎮祭の禮を行う。今日残る笠井一族は神八井耳神の後裔で、世俗に平賀山田に地は粟または氾海と称す。これ阿波忌部に因みのあるによる。
吉高
(印西市)
創建 天暦二年六月十四日(947〜957)・村上天皇(62代)、御祭神 田心姫命・湍津姫命・市杵嶋姫命、御神紋 楢(なら)の葉、例祭日 十月十五日、国家鎮護・海上交通・道中安全・漁業守護の神であります。宗像三女神は弁天さまにたとえられ弁天社・弁財天社と呼ばれる場合もあります。 天暦二年筑前国宗像から宗像三女神を勧請して社殿を創建したと伝える。以来宗像大明神と称せられ治水・水産の神として尊崇された。神官香取氏は代々その職を継ぎ、弘化二年宗像神社と改称された。 天暦二年六月筑前国宗像郡田島より勧請し宗像大明神と唱え来る。天和二年改造再建、弘化二年宗像神社と改称。延享三年田一反歩の寄進あり。天正年中、千葉氏吉高代介公この社側に築城し檜造の本殿拝殿を造せらる。