佐津間城址


海上自衛隊下総基地の西側に大津川を挟んだ地点にある城址。鎌ヶ谷市内にあるのだが唯一中世の城郭跡と明確に判る城址だそうだ。しかし、宅地化が進みここにたどり着くにはかなり迷う。自衛隊側から南へ下る道から右へ入るのだが、かなり細い道を見つけなければならない。それさえ判れば案内板が立っているがそれも民家の庭先にあるような感じだ。城址と言うよりはその規模から砦に近く自衛隊側に土塁のような土手が続いている。中世までは相馬領だったが戦国末には高城氏の支配下にあったようだ。
この近辺の城址は、湖沼や谷津に沿った高地に点在していることが多い。特に手賀沼から下総基地東岸の地域は谷津の両側に城砦址が向かい合うよう残っており興味をそそられる。

藤ヶ谷城址


柏市藤ヶ谷(旧沼南町)にあり、国道16号線によって南北に分断されている。相馬岡田氏の居館跡とも考えられており、付近には相馬姓の旧家が多い。16世紀末の村雨丸伝説には相馬胤吉の名があり(神社仏閣編、西輪寺参照)また高城家由来書には「藤谷修理」等の名が記載されている。相馬一族か家臣一族が高城氏の勢力下に入ったものであろうか。近くに「矢の橋」と呼ばれる地名が残されており、金山落し(川の名前)を挟んで東岸勢力と対峙していたのであろう。この金山落しの東側が印旛郡で西側は東葛飾郡で郡境でもあった。

金山城址


柏市金山(旧沼南町)にある城址。鎌倉時代末期には金山は、相馬岡田氏の所領であった。相馬岡田氏とは、元々「相馬泉氏」を称していた。初代惣領である泉胤顕を祖として奥州行方郡岡田村へ下向し岡田氏を称した。岡田氏は一門の重鎮として幕末まで命脈を保つ。しかし奥州へ下向した後の14世紀末には金山の所領を失っているように見え、15世紀初頭には下総国内の所領が全く見えなくなっている。その後は新興勢力である高城氏の勢力下に置かれて行ったのであろう。元々北方にある泉地区と同地域であり後に分離したと考えられており、城址内にある鳥見神社の祭礼日は泉にある鳥見神社と同じであることも、それに関連づけられている。左の写真は金山城址の下から見た切り通しで上がった右側に鳥見神社、左側に円林寺がある。

富塚城址


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