お散歩の定番と言えば近所の神社・仏閣ですね。
ゆっくり拝見すれば四季折々の素敵な風景に出会えますよ。予備知識を入れておけば、また楽しくお散歩できますぞ。

白井市の仏閣はお引越ししました。

目  録

★散歩道 仏閣編
★みちしるべ編
★散歩道 白井の梨
★散歩道 鎌ヶ谷市編

★散歩道 船橋市編
★散歩道 印西市編
★散歩道 城址編
★散歩道 八千代市編
★散歩道 千葉市(花見川区)編
★散歩道 習志野市編
★散歩道 上総編

                           
市内分布図

神社           鳥見神社比較へGO!  宗像神社比較GO!

白井市根地区(根・大松・大山口・清水口・けやき台)

NO,1 大日(おおひ)神社

七次の長楽寺脇にある神社。ご祭神は天照坐皇大御神他7神をお祀りする。延宝5年9月15日に七次村の村社として勧請された歴史を持つ。ここの住所の白井市根地区は明治時代に白井木戸新田・中木戸新田・軽井沢新田・七次新田が合併した所でかなり広範囲をカバーしていたがその後、大山口や清水口、大松、けやき台などの新しい住所が分離したためかなり複雑な形に現在はなっている。さてこの大日とは何に由来するのであろうか。船橋市にある意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)は、大日山に鎮座する式内社である。ご祭神も同じ天照皇大神とし、この大日から来ているのかもしれない。(白井市根1388)

NO,2 天神八幡神社

大日神社の境内社。普通八幡神社の祭神は応神天皇であるが、ここの八幡様の御祭神は「八幡」と呼ばれる馬である。下の弁財天でも述べてはいるが、あまりに良い馬のために八幡様の使いと呼ばれた。白井市のガイドブックにも掲載されている境内社にしてはメジャーな神社である。初詣で大日神社と共に多くの人で賑わう。(白井市根1388)

NO,3 弁財天  

競輪学校北側と給食センターの間にあり昔から八幡溜(ハチマンダメ)と呼ばれた低地湿地帯にある神社。神紋は、「向い浪に三ツ鱗」で江ノ島神社と同じ。境内には湧水がある。八幡溜とは平安末期、生食(イケヅキ)と呼ばれる名馬が現在の柏市で生まれ、時折七次のあたりに立ち寄っていて人々は八幡様の使いと信じていた。その生食が水を飲んだ溜池を八幡溜と呼んでいたと言う。その後、生食は源頼朝に贈られ、宇治川の戦で佐々木高綱に与えられ先陣の栄誉を勝ち取った。西白井駅南口ロータリーから徒歩十数分。(白井市根1076付近か)

NO,4 諏訪神社  

享保19年9月19日に元中木戸新田に勧請。明治43年に市杵島神社を合祀する。祭神は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)・田心姫命(だごりひめのみこと)・市杵島命(いちきしまひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)。風間街道を国道16号線に向い右側にある神社で、手入れが行き届いている。入口は小型の鳥居ではあるが、境内には立派な拝殿と本殿があり特に本殿は当地区にはめずらしい神明造りである。(白井市根1780付近)

NO,7 天神社

菅原道真公を祭る。木下街道を左側で競馬学校入口に鎮座しているのですぐ判る。境内には立派な狛犬1対がある。開拓記念碑には江戸時代初期からこの地が開拓されて来た歴史が刻まれている。(白井市根417)

NO,10 稲荷神社

神崎川を国道16号線に向かい左岸台地麓の道沿いにあり、参道を進むと奥で民家の敷地とつながっている。道に面した場所に一ノ鳥居、写真は二ノ鳥居である。この手の神社の場合は、氏神様等の場合が多く名称が不明な神社が多いが、神額に稲荷神社と入っていたので判別できた。印波郡誌には御祭神は宇賀御魂命、寛永3年(1626年)8月15日五穀豊穣のため勧請と記される。(白井市根1475付近)

NO,22 天満宮

場所は木下街道と国道16号線との交差点南東側に鎮座。向側に16号線に面したガソリンスタンドがある。小型の狛犬1対(昭和7年)があり「船橋町柳屋呉服店」と記されているのが面白い。鳥居が少し奥まっていて気をつけていないと見落としてしまう。御祭神は菅原道真公。享保15年(1730年)9月15日勧請。(白井市根76付近)

NO,27 駒形大明神

寛政元年(1789年)酉4月吉日とあり願主も記されている。左右のポールは倒壊防止用と思われる。中型の祠であるが風間街道を北に向い左側にひっそりとたたずむ。200年以上も道行く人たちを見送ってきたのだろうか。場所は風間街道沿い白井幼稚園の先にある。(白井市根1820付近)


NO,79 名称不明社

七次の神崎川沿いの道脇に鎮座する。名称等不明であるが近隣の方の氏神様であろうか。北向きの祠は珍しい。
(白井市根1303南側付近)

白井市富塚地区(富塚・西白井)

NO,28 金毘羅大権現

長らく倒れていたがようやく元に戻された。年代等風化激しく読取れず。資料では文久3年(1863年)とある。
(白井市富塚788付近)

NO,36 子権現(ねのごんげん)

小さい鳥居(高さ180p位)を潜ると本殿前に末社(金毘羅神社)などがある。本殿内部に子大権現 元文五年(1740年)正月吉日とある(石造物調査報告書より)。この子権現であるが神奈川・静岡・山梨・千葉の東海、南関東に集中している。祭神は大国主命が殆どである。子は北の方角であることから方災除の神として寺院や領主等の屋敷の鬼門守護として祀られていたものが広く五穀豊穣・養蚕・商売・結縁などの福寿の神として崇敬されるに至った。本社の場合、西輪寺の鬼門方向に鎮座していると考えられる。(白井市富塚1102付近)

NO,38 大六尊天

第六天とも言う。神仏混交の神様で元は古代インド神話の魔王が仏教守護の神になる。神道に転じると面足尊(オモダルノミコト)・吾屋惶根尊(アヤカシコネノミコト)となる。これは神代七世の神の六代目にあたることから。「日本書記」には陰陽の気が相交わって生まれた男女神。分布は埼玉・千葉・神奈川・東京に多く元来の魔王を崇め災役を守る神に転化させた民俗信仰が流布した地域であろう。(白井市富塚1029付近)

NO,39 天神社

由緒祭神等不明。境内内の手水鉢には明治元年11月とある。鳥居には平成8年1月吉日と中下納税組合と入っている。場所は西輪寺裏手の墓地脇になる。
(白井市富塚923付近)

NO,46 道祖神

弘化4年と刻まれている道祖神。富塚大下地区墓地の脇に鎮座している。
お花とナスとキュウリがお供えしてあった。
(白井市富塚1157付近)

NO,42 名称不明社

国道16号線富塚交差点を白井工業団地に向かい風間街道沿いのローソンの斜向かいに鎮座している。靖国型の鳥居の奥には祠があるのだが、祠の胴体部分は平成9年とあるが笠の部分は従来のものを使用している。従来の祠の胴部は風化が激しく文字は読み取れない。そのためか新しい祠の正面にも名称が入ってはいなかった。鳥居は昭和61年建立。
(白井市富塚1502付近)

NO,47 水神宮

2基並んだ水神宮で右側が古く風化している。そのために新しく右側の祠を建立したようだ。新しい祠には昭和58年7月吉日と5日縁日と入っている。鎮座している西白井地区は近年開発されてきた地域だが、矢の橋に近く富塚の外れと言った方がいいのかもしれない。水神宮の名前の通り南側近くには大きな調整池がある。
(白井市西白井85付近)

NO,57 鳥見神社(富塚) 

一之鳥居は、寛政七年。狛犬・灯篭・本殿等が整備され手が行き届いている。灯篭が江戸時代末期に船橋の石屋さんに発注されているのも面白い。多分狛犬も同様なのだろう。船橋には船橋大神宮があるので腕の良い石屋さんがいたのかもしれない。また関東大震災では灯篭が倒壊して修理していることも記されている。首都直下型の地震が再来すれば同様の被害があるのだろう。大きな地震=灯篭も倒れる地震と言った方が現実感がある。お散歩途中でゆっくり参拝したい社である。
その他に歓喜天(市指定文化財)も祀られている。
当社は縁起不祥であるが、白井村誌には、川上氏先祖の氏神を一村の鎮守とすると記されている。
(白井市富塚694)


白井市木地区

NO,11 鷲神社(大鷲さま)

祭神は天日鷲命、阿波及び安房忌部氏の祖とも言われる。創建は延宝5年9月とも。万延9年現在の社殿築造。ここの神社の見所は石造の鳥居で宝暦9年(1759年)建立である。この鳥居は市内で2番目に古く(最古は白井鳥見神社)「天下大平国土安全宝暦九辰卯年」と「松平五良兵衛」等と刻まれている。境内は樹木が伐採されて明るくなっている。開運・商売繁盛の神様として近隣の崇敬が厚い。(白井市木533)

NO,12 愛宕神社

火産霊神をお祀りする。創建は慶長元年であり境内に文久3年の手水鉢が残されている。旧野口村の村社であり毎年正月に歩射(オビシャ)がある。場所は16号線から西白井停車場線を西白井駅に向かいホンダクリオがある十字路を左折し七次第二公園の裏手にある。(白井市木82)


白井市復地区(復・堀込・池の上・南山・富ヶ沢・富ヶ谷・法目・長殿)

NO,8 愛宕神社(権現さま)

富ヶ沢地区にあり、崖上に鎮座している神社。麓に地元名主寄進による鳥居があり、それをくぐって階段を昇る。付近には小さな祠などがたくさんある場所でもある。崖上にあるために足場があまり良くないのでお子様連れなどは注意が必要。また道幅も狭いので車にも注意が必要だ。(白井市復215付近)

NO,95 水天宮

富が沢光明寺境内に鎮座。最近リニュアルされたらしく綺麗になっていた。写真右から「水天宮」・「水天妃宮」・「妃眷属宮」。左りの1基だけ単独の祠は「天神宮」。
(白井市復243)

NO,9 香取神社  

池の上調整池の南側にあり、富ヶ沢地区から見ると裏山の麓入口に鳥居が見える。境内には江戸時代に建立された燈篭などがあり歴史を感じさせる。白井市内には以外と江戸時代にまで遡れる香取神社は少ない。鳥見神社の分布とも関係があるのかもしれない。富ヶ沢から白井高校へ抜ける散歩道ルートでは左側に見える。経津主命をお祀りする。。(白井市根263付近)

NO,13 弁財天

法目地区の佛法寺の斜め向かい側の湧水池にある神社。白井市は北総台地上にあるのだが低地には湧水が以外と多いのに気が付く。二十重川を挟んだ東側は船橋市で、神崎川へと合流する。(白井市復987付近)

NO,14 八幡神社

佛法寺のすぐ西隣りに鎮座している。祭神は応神天皇であり、九州の宇佐八幡宮を本社とする稲荷神社と共にポピュラーな神社の一つである。本殿は流造り。神紋は左三ツ巴。明治期の手水鉢がある。由緒書には鎮座不詳。宝暦十一年(1761年)建立。代々法目地区の産土神として崇敬されているとある。(白井市復987付近)

NO,15 熊野神社

伊奘諾尊(イザナギノミコト)・伊奘册尊(イザナミのミコト)を祭神とする神社で、小型燈篭や狛犬など比較的設備の整った神社である。本殿流造り。神紋右三ツ巴。文化十年(1813年)の疱瘡神の末社がある。鳥居には安政三丙辰年(1856年)霜降吉日と刻まれている。(白井市復952付近)

NO,45 名称不明社

寛政12年(1800年)9月吉日鎮座。祠正面には宝剣が刻まれている。祠前には御幣が供えられており神祠と判断した。場所は上長殿の観音堂の裏の高台の崖縁に鎮座している。この場所には寛永頃の宝篋印塔2基がある。(白井市復1226付近)

NO,48 山神様

Tさんから情報をいただた山神様。当地では以前には雑木林を「ヤマ」と呼んでおり、昭和30年代ころまでは雑木林で薪を拾い売りに出ていたとの事。山の恵みに感謝する思いが込められていたのだろう。場所は常円寺すぐ脇に鎮座している。
(白井市復1454付近)

NO,51  仙元大菩薩(浅間神社)   

文久3(1863年)亥年とある。脇には小御嶽石尊大権現の石碑(文久3年)もある。浅間を仙元とするのは「霊山神仙の元境の故を以て」からと云う。白井駅北側のホームセンター脇の道から佛法寺に抜ける散歩道脇の森にあのだが、小道の割には車が飛ばしているので注意。名内・今井地区NO,68浅間大菩薩参照の事。
(白井市復987西側付近)

NO,62 鳥見神社(富ヶ谷) 

鎮座不明。旧社殿は慶安元年(1648年)建立されたと伝える。代々当区(富ヶ谷)の産土神として崇め奉る。平成十一年十二月再建。お賽銭箱の沢潟(おもだか)紋も気になる処である。ここの神社は神社名鑑なは掲載されておらず地図等で検索しないと出てこない。白井高校の道から船橋県民の森へ抜ける道の脇の高台に鎮座している。(白井市復686付近)


白井市名内・今井地区

NO,5 稲荷神社

国道16号線から農免道路を今井方向に北上した右側にあるが、農免道路からは潅木の陰に隠れて見えない。公民館脇に朱色の鮮やかな鳥居なのだが靖国型鳥居の中央に額束があるタイプであまり見かけない。似たような型は川(金山落し)を挟んだ金山(柏市)鳥見神社の鳥居もこのタイプに近い。本殿は小型であるが末社が多く並んでいる。この場所は小名内とも稲荷とも呼ばれていた字である。(白井市名内1061付近か)

NO、6 粟島神社

小彦名(スクナヒコ)を祭る。戦国時代末期(永禄期)に千葉氏家臣伊藤左馬介守胤が紀州加太粟島神社を勧請したと伝わる。安産・縁結びなど女性に関わる神様としてかつては遠方からも人が訪れていた。この神社の場所は道が狭いために白井工業団地周辺に駐車して歩くのが良いようだ。道から急な階段を昇って行くのだが、道から鳥居が見えるので判りやすい。境内にはモミジと榎の大木がある。(白井市名内581付近)

NO,32 今井稲荷大明神

今井新田(現今井)は金山落しの開削によって寛文-延宝(1661〜1680年)年間頃に開発された。当稲荷神社の由緒は明らかでないがこの頃に勧請されたものであろう。本殿は流造、神紋は宝珠であり白井ではめずらしい。燈篭2対の狛狐2対で明治大正期のものである。御祭神は倉稲魂命をお祀りする。
(白井市今井6)

NO,58 鳥見神社(名内) 

保存状態がかなり厳しい。さらに様々な神様が祀られており、神社の名前すら出ていない状態だ。神社の隣のビニールハウスの農家の方に確認した。話によると最近では地元の方でも鳥身神社と言わず月山神社(月山信仰の碑が鳥居脇にあり目立つので)と言う人も多いらしい。かなり古い神社であることは確かで昔は松の老木などが生い茂っていたそうである。千葉県神社名鑑では御祭神は饒速日命であるが白井村誌では面足尊となっている。市内7ヶ所の内、面足尊とされているのは名内鳥見神社だけである。 (白井市名内408)

NO,66 道祖神

NO,32今井稲荷の参道入口脇にちょこんと鎮座いている。右脇に明和4年(1767年)吉日とあり、左脇に願主の名前が並ぶ。風化が進みかなり読みにくい。
(白井市今井6)

NO,67 道祖神社

NO,32今井稲荷の道路を挟んだ向い側に鎮座。明治7年戌7月吉とある。この前の道は「カンナ街道」と呼ばれ(お花のカンナです)休日になると多くのツーリストが走っている。
(白井市今井8付近)

NO,68 浅間大菩薩(浅間神社)   

文政11戊子年(1828年)8月吉日講中、手賀新田などの地名も見える。富士山を信仰の対象とする富士講は戦国末期の修験者、長谷川角行を開祖として江戸時代に流行した。中世に入ると神仏習合が進み本地垂迹説が登場するが富士山はそれまでの浅間大神に替って大日如来を本地仏として菩薩を付けた浅間大菩薩となった。御祭神も浅間大神・赫夜姫(竹取物語のかぐや姫)・木花開耶姫命など変遷している。(白井市名内800南側付近)

NO,69 小御嶽石尊大権現

富士山信仰の一つで富士山スバルライン終点小御岳神社は、石尊大権現とも呼ばれたが、神仏分離令の施行に伴い小御岳神社となる。浅間神社(浅間大菩薩・仙元大菩薩とも)とワンセットになっていることも多い。(白井市名内800南側付近)

NO,70 八幡宮

大きな祠には「正八幡宮」で嘉永5子年(1852年)4月吉日とあり、台座部分に寄進者名がズラリと並ぶ。名内・小名内・平塚・所沢などの地名が見ゆる。また名内村別当東光院とも入っている。小さな祠は「八幡宮」で寛政5癸丑年(1793年)正月吉辰日とある。面白いのが戦の守護神らしく左右側面に弓矢の図が彫られており鏃(ヤジリ)部分が二股になっているものと丸くなっているものがそれぞれ描かれている。(白井市名内800南側付近)

NO,71 道御祖神

明治5年(1872年)と入っている。白井工業団地から名内に入る道の脇に庚申塔郡があり、その中の一つである。庚申塔郡の道祖神に付いては清戸・谷田地区の「NO,52 猿田彦大神」を参照して下さい下さい。(白井市名内359付近)

NO,72 待道大権現   

嘉永5子年(1852年)11月吉日、世話人名あり。江戸時代後期に東葛飾郡を中心に広まった女人講で安産子育の神様。左隣の祠は「大権現」で文政12丑歳(1829年)のものである。
場所は今井青年館中の左側に鎮座している。
(白井市今井73)

NO,73 道祖神

NO,68〜70の浅間塚下の道脇に鎮座しているが、倒れてしまっていた。正面に「道祖神」、左側面に寛政3亥年(1791年)11月吉日と入っている。お供えの二股大根が目を引いた。名内の集落から谷を挟んだ場所にあり道祖神に相応しい。
(白井市名内800南側付近)

NO,74 道祖神

名内鳥見神社北側の路傍に鎮座。明和4年(1767年)11月吉日とある。小型の祠で何度か倒れたらしく胴部と笠部が異なっていた。ここにもお供えの大根があった。
(白井市名内851付近)

NO,76 大六天・稲荷大明神

右側の大きい祠が大六天で文化6巳年(1809年)9月吉日。左側の祠が稲荷大明神で延享2丑9月吉日とある。場所はカンナ街道を印西に向い今井青年館を過ぎた左側の畑に鎮座している。
(白井市今井115東側付近)


白井市折立地区

NO,18 熊野神社

伊奘諾尊(イザナギノミコト)・伊奘册尊(イザナミのミコト)。神紋は左三ツ巴。手水鉢は文政三年(1820年)と燈篭1対 文政十三年(1830年)が配置されている。覆屋根の中に流造りの本殿がある。境内には末社他に庚申塔など多数設置されている。(白井市折立544)

NO,37 山神様

「文政十三年(1830年)寅四月吉日 折立村 願主 廣右ェ門」と世話人数名の記載あり。通常山の神とされるのは大山祇命(オオヤマズミノミコト)が多く、あるいは木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の場合もある。本来は山仕事をする人たちの守護神であるが、本神の場合は農村の守護神であろう。山神様は春になると、水神様の仲立で里に降り、田の神となり水の恵みを与え秋の稲刈りが終ると山へ帰り元の山の神に戻るとの伝承は広く分布している。場所は山神様の名称通りうっそうとした竹林雑木林の中にある。(白井市折立311付近)


白井市中地区

NO,16 八幡神社

誉田別尊(応神天皇)・崇徳天皇を祭神とする。本殿は入母屋で確認できず。神紋は左三ツ巴。鳥居が2基の他、手水鉢が右側配置であるが風化が激しく年代等不明。場所は白井第一工業団地の外れで、バスの廃車置場奥にある。(白井市中390))

NO,17 名称不明社

上記白井市中地区の八幡神社の東側約50m位に位置する。入口に素朴な木の鳥居があり、狭い参道を草をかき分けて行くと小さな本殿がある。中には祠があるのだが残念ながらこれも風化が激しく読み取ることができなかった。祠には御幣が供えられていて人の手が及んでいることが感じられる。祭神など詳細不明なので、ご存知の方は是非ご連絡ください。(白井市中372付近)

NO,25 権兵衛稲荷社

境内にある由緒書に曰く、「千葉氏の守護神の1つにして、この里に早くから祀られることを聞く。権兵衛なる者、江戸の昔に当神社に係わることにより往時の人々その名に因み権兵衛稲荷と称す。(中略)地域内外の信徒を守り、且つ諸願成就、その励ます尊き神なり。諸人この神の加護を疑わず祈念すべし。なお、その縁起詳細は別に伝えるところなり。」
白井工業団地内に鎮座、元々は別の地に鎮座していたが工業団地造成により遷座された。
(白井市中30付近 公民センター脇)

NO,43 道祖神

白井市中地区の集会所近くの庚申塔前に、こじんまりと鎮座している。昭和6年5月吉日と刻まれている。祠の前にはお供えするようにサトイモが1つ置かれていた。
(白井市中319付近)

NO,75 名称不明社

NO,43の道祖神の向い側の塚の上に鎮座している。自転車に乗ったご婦人に訊ねたところ付近の方の氏神様であると言う。
(白井市中319付近)


白井市神々廻地区

NO,19 厳島神社

由緒不明。祭神は市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)と思われる。宗像3女神の御1人で水運・漁業など「水」に関する神様らしく、神々廻の弁天池脇に鎮座している。市民の森(旧町民の森)と市民プールの分岐の手前にある。本殿は小型で参道左側に見える。(白井市神々廻1648付近)

NO,20 駒形神社

慶長7年(1602年)鎮座、元文4年再建、宝暦2年拝殿建立、寛政7年拝殿再建、安政2年正一位駒形神社大山祗神の神位を賜る。ご祭神は大山祗神。境内社は大杉・足尾・大日・三峰・淡島神社。狛犬1対(大正4年)手水鉢は明治のもの。神紋は左三ツ巴である。場所は神々廻坂下から神崎川に沿った道から左台地に入った所である。ヤブ蚊多し。(白井市神々廻1139)

NO,21 浅間神社    

木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメミコト)が祭神か。明治45年と記された大型の祠が鎮座している。場所は神崎川沿いの神宮寺と駒形神社との間にあるが、非常に判り難い。駒形神社の脇の畑道を下るように進むと道は細くなり神宮時の裏山を通る形となり、最後は人家の裏庭かと思うような場所を通って舗装道に出ることが出来る。畑道への車の乗り入れ不可。徒歩か自転車のみ。(白井市神々廻1165付近)

NO,61 鳥見神社(神々廻) 

慶長七丙寅年(1602年)鎮座。元文四己未年(1739年)再建。宝暦二壬申年(1752年)拝殿建立。明和五年(1768年)社殿建替え、寛政七年(1795年)拝殿再建。安政二年(1855年)正一位鳥見神社大和武尊の神位を許可される。(千葉県神社名鑑より)本社は鬱蒼とした森の中にあり、狛犬が拝殿と本殿の間に位置している。(白井市神々廻1408)

NO,65 名称不明社

畑道をのんびりと散歩していると大きな木の根元に鎮座する祠を見つけた。残念ながら正面には御祭神を判別できる記載は無かった。裏面に「昭和55年7月林氏」と記されている。
(白井市神々廻1030北側付近)

NO,77 稲荷神社

NO,20の駒形神社のすぐ下に鎮座しているのだが、樹木の影になって少し分かりにくい場所にある。祠前に神使の狐がちょこんと座っている。
(白井市神々廻1139付近)

NO,78 名称不明社

木下街道を印西方向に向かって左側、パチンコ屋さんのハス向いに鎮座している。比較的新しい祠なのだが残念ながら名称不明。御神体は白幣であった。
(白井市神々廻1889付近)


白井市河原子地区

NO,23 天満宮

両部型の鳥居を備え、細長い参道を進むと流造の本殿がある。本殿裏側には道真公と思われる彫刻が施され、神紋も天満宮ならではの「梅鉢紋」である。市内での梅鉢紋は初めてだ。境内には狛犬1対(明治16年)、燈篭2対(文久元年(1861年)と明治16年)、鳥居脇の手水鉢は文政9年(1826年)のもので、やはり梅紋が彫刻されている。菅原道真公、前玉命を御祭神とする。一部の地図には天神社とも記入されているので注意。(白井市河原子134付近)

NO,24 三峰神社  

上の河原子天満宮脇に鎮座している神社であるが鳥居及び参道から外れているので境内社では無く独立した神社として取り上げた。と言うもののこの三峰神社の脇には古峰神社の大型の祠や末社と思われる小型の祠が散見されるので以前は天満宮の境内範囲にあったのかも知れない。神社は比較的新しく昭和期のものと思われる。(白井市河原子134付近)


白井市富士地区

NO,26 八幡神社

燈篭と狛犬各1対、昭和56及び57年のもの。本殿は流造りだが神紋は取付けていなかった。鳥居は金属製で両柱と貫は溶接してあるのもめずらしい。公園に接しているためか神社の壁等に悪戯書きが目立つのは残念。(白井市富士40付近)


白井市白井地区

NO,29 みたらしさま

白井市指定史跡「みたらしの池」にあり弁財天を祀る。五穀豊穣・無病息災・眼病治療に霊験あり。境内の看板には慶長7年の下総国印西荘外郷白井橋本郷水帳」に既に「みたらせ」の文字が見えると言う。境内右側に池があり緑色の水が印象的だった。道は狭く車1台分がやっとの場所なので近くに止めるか(これが難しい)徒歩・自転車で。
(白井市白井317)

NO,30 道祖神

鳥居の奥に小型の祠があり正面に「道祖神」側面に元文3年(1738年)とある。写真では鳥居が手前に傾いているように見えるが実際にもその通りで奥からワイヤーで支えている。「元々、神社の起源はこうした形からかな。」と思わせる素朴なつくりが良い。
(白井市白井353付近)

NO,31 榛名神社(はんなんさま)

鎮火開運・五穀豊穣の神様。元社群馬県榛名山中の榛名神社からとすれば、祭神は火産霊神・埴山姫命。白井市内で唯一の榛名神社であるのだが、勧請理由としては「雨乞講」か。榛名山中にある榛名神社の「萬年泉」の水を竹筒に入れ帰村すると雨乞いに霊験ありという。小さな境内には狛犬1対(大正期)と手水鉢が置いてある。ここも道幅が狭いので徒歩・自転車がよさそう。(白井市白井233付近)

NO,49 金毘羅宮

階段下の手水鉢に慶応2丙寅年(1866年)とあり。社内には石仏あり。
元々は安全な航海の神、降雨を司る神であり航海者・漁民・農民の崇敬を集め、特に江戸時代以降各地に広まった。
(白井市白井428付近)

NO,50 名称不明社(妙○○神)

風化激しく判読不能。当初は市内初の妙見社の祠ではないかとも思ったが「妙」の次の文字は「遼」に近い文字と思われ、妙見社とは言い切れず名称不明とした。右側面は完全に欠損、左側面には「二十六世○○代」とある。Tさんより「妙正神」ではないかとの情報あり。場所は本白井郵便局のハス向かいで病院前の空地に鎮座している。
(白井市白井418付近)

NO,60 鳥見神社(白井) 

創建等不明。市役所に問い合わせたところ、本殿は、大正期に富ヶ谷の個人宅に祭られていた建物を移築したとの事。少なくとも江戸時代初期にはあったものと思われるとの返事を頂戴した。鳥居は明神型鳥居で正徳三癸巳年(1713年)四月吉祥日とあり、市内最古の石造鳥居である。ここの神社は不動明王を併設し、また本殿には室町期とされている十一面観音懸仏がある。場所はお菓子屋さん脇の細い参道を入る。小さな看板あり。(白井市白井391)

NO,64 駒形大明神

木下街道沿いの多数の庚申塔の中にある祠。文政3年2月とある。
駒形の神は馬及び蚕の守護神とされているために街道沿いに多くお祀りされているのかもしれない。場所は牛乳販売店のすぐ脇にある。PK不可。
(白井市白井433)


白井市平塚地区

NO,33 八幡大神宮

平塚地区から手賀沼へ下る道の崖上に鎮座。本殿流造で覆い屋根となっている。狛犬1対(大正期)と燈篭2対及び手水鉢は文久2年(1862年)の記銘あり。舗装道から細長い参道を通りしばらく歩くと鮮やかな朱色の両部鳥居が目に入る。
(白井市平塚930付近か)

NO,34 駒祓神社

上の八幡大神宮の参道の中程左側に鎮座している境内社。狛犬・燈篭は大正期のもので手水鉢1基。ご神体は御馬で石製の絵馬に馬が浮き出すようである。ご神体の下の台座部分に駒祓神社と記入してある。由緒等は不明であるが戦(いくさ)の神様である八幡神の境内で軍馬に関係するのだろうか。白井市根の天神八幡社も御祭神は御馬であった。
(白井市平塚930付近か)

NO,35 蔵王権現

平塚にある小森瓢箪塚古墳の墳頂部にある。登ると1対の立派な燈篭と大型の祠が目に入る。さてこの蔵王権現は本来、日本仏教の信仰対象でインドに起源を持たない日本独自の仏である。役小角が修行中に示現したとの伝承がある。釈迦・観音・弥勒の三尊の合体したものとされる。神仏習合の場合は御祭神を安閑天皇とした場合が多い。夜泣きにご利益があるという。
(白井市平塚2492付近)

NO,44 城山稲荷大明神

中世の城址である小森城址にあるお稲荷様。昭和45年2月吉日建立。祠右側面には「当社は旧城山城豪族畑左エ門の氏神たりしが享和3年山林分割の際、斎主より茂左エ門に祭祀その他一切を依頼され今日に至る」と由緒が刻まれている。場所は白井工業団地北部で市民グランド東側にあたる。朱色の鳥居が朽ちかけていた。(白井市平塚2479付近)

NO,59 鳥見神社(平塚) 

平塚は建久年間(1190年頃)には既に記録を残している歴史ある村である。由緒不明であるが現在のところ江戸末期の手水石が最古である。しかしながらこれほどの歴史を持つ村で神社は他に当社より北方にある八幡神社だけであるのでさらに年代を遡る事ができよう。また灯篭の願主には瀧田とあり現在、文化財に指定されている滝田家かその一党のものと考えて良いだろう。(白井市平塚962)

NO,80 金毘羅大権現

慶応3卯年(1867年)6月吉日と年号が入っている。願主は滝田氏。残念ながら笠の部分は喪失してしまっている。カンナ街道の電話ボックス脇から向台にむかって右側の竹林脇に鎮座している。付近には船戸などの地名が残り昔を偲ばせる。
(白井市平塚450北西側付近)

NO,81 道祖神

明和8辛卯年(1771年)11月吉日の道祖神。平塚向台の辻に鎮座し200年以上も同地区を見守ってきたのだろう。付近には大型の庚申塔などがある。
(白井市平塚450西側付近)

NO,82 富士浅間神社  

「しろい散策マップ」にも掲載されているのだが道が分かりにくい。民家の間の空地を谷に沿って一度下り、ガケ沿いに登って民家の脇と思われる付近に鎮座している。参道の石段が見えるのでそれが目印となる。明治30年6月1日と願主名が入った大型の石碑である。浅間神社の場合、多くは富士塚と呼ばれる塚の上にあり本社もその例に漏れない。塚の麓にはかわいらしいコマ犬(明治30年)と手水鉢がある。(白井市平塚1044北側付近)

NO,83 岩戸神社

市内でたぶん唯一の岩戸神社。年代等は読取れなかったが、「白井町石造物調査報告書」によれば、「明治23年4月3日 元布瀬願主」とある。岩戸神社とは、御嶽(おんたけ)神社の事でご祭神は国常立尊・大己貴命・少名彦命である。上のNO,82富士塚の麓付近に鎮座しているところから見てまず間違いないと思われる。(白井市平塚1044北側付近)

NO,84 弁財天

白井聖地公園入口の湧水に鎮座している。祠は風化して文字の判読はできなかったが右三ツ巴の神紋が入っていた。祠は中型だが幅が広く、中には御幣が奉げられていた。
(白井市平塚78付近)

NO,85 道祖神

道脇の崖の上に鎮座する道祖神。右側面に安永2(1773年)巳とあるのだが、安永2年は「癸巳」であるので「癸」が抜け落ちたものか。
ここにも二股大根がお供えしてあった。
(白井市平塚2625東北側付近)

NO,86 水神宮

小森から榎台への道、谷筋に鎮座する。3基の祠が並んでいる。左右の小型の祠は大正期のもの。道からはコンクリートブロックの壁があってやや発見しにくく、特に小森側から歩いて来ると見落としがち。
(白井市平塚1786北西側付近)

NO,87 道祖神

安永2年(1773年)癸巳11月吉日の道祖神。T字路の木の根元に鎮座している小型の祠である。この型の祠は平塚・名内地区でよく見る型である。小型の胴部にやや大きめな笠部があるが、笠部が重くバランスを欠くらしく、笠部が落ちていたり全体が倒れていたりする。
(白井市平塚1786付近)

NO,88 猿田彦太神

神道系庚申塔。庚申塚の中の1基であるが、「太神」としている部分が面白い。稀に太神の文字を使った祠を見るが何か意図があったのかどうか測りかねる。伊勢神道の一部に太を使う一派があったとも云う。神道系庚申塔に付いてはNO,52(↓)を参照して下さい。
場所は白井工業団地から小森へ抜ける道脇に鎮座する。
(白井市平塚2625付近)

NO,89 名称不明社

鳥居から参道を進むと石祠が鎮座している。祠正面には「正徳○○天二月十五日」とあり一部風化が激しく読めないが正徳年間(1711年頃)のものであるらしい。祠内部は確認ができず名称は分らなかった。鳥居は昭和61年のものである。
(白井市平塚1503北側付近)

NO,90 名称不明社

下のNO,91と同じ場所に鎮座している。覆屋根の中を見たいと思ったのだが人通りが無く、お断りしようにも尋ねることができなかった。次回お散歩時に確認したい。
(白井市平塚1503付近)

NO,91 名称不明社

同上

No,92 道祖神

正面には「道祖神」とある。多分、側面に建立年代などが刻まれているのだろうが私有地内と思われたので未確認。平塚地区の路傍にある道祖神とは形状が異なっている。
(白井市平塚1503北側付近)

NO,93 道祖神

明和7年(1770年)正月吉日とある。小型のかわいらしい道祖神であるが、何と祠の前にダンボールに入ったゴミが捨ててあった!市内で多くの祠を見てきたが神様の目前にゴミをすててあったのは初めて見た。とても悲しくも思った。工業団地から印西方面に抜ける大きな通りにある商店脇の道を入った左側に鎮座している。
(白井市平塚1846北側付近)

NO,94 氏神様

コンクリート台座部分に神使の狐が見えるので最初は「お稲荷様」と思ったのだが、祠には氏神と刻まれている。こちらも道路に面してはいるが私有地内のため年代等は未確認。
(白井市平塚1044付近)


白井市十余一地区

NO,40 香取神社   

由緒不明の神社であるが鎮座地である十余一は、それまで牧であったものを明治3年から入植を開始し明治5年に十余一村が成立した。その頃に大きな塚を利用して鎮守をお祀りしたのが香取神社と言われている。この牧の開墾は大規模なもので1〜13番まで名前が付けられ、鎌ヶ谷市の初富・船橋市の二和と三咲・柏市の豊四季と十余二・松戸市の五香や六実など数字が付けられている。拝殿裏に流作りの本殿がありお札とご神体の鏡が鎮座している。(白井市十余一12付近)

NO,85 道祖神

木下街道印西市との境、変則四差路脇に仏塔などと共に鎮座する。嘉永6年(1853年)9月吉日及び願主の名前が刻まれている。木下街道を印西方向を見つめている。隣接してドラッグストアがあるので分かりやすい。
(白井市十余一字一本桜付近)


白井市清戸・谷田地区(清戸・谷田・桜台)

NO,41 八幡神社

境内には文久3年(1863年)2月と記された手水鉢や燈篭などがある。その手水鉢には願主の他に船橋川端石工の名前などが入っている。神紋は左三ツ巴。本殿は後の高台にあり下にある鳥居から階段が続いている。本殿左脇に末社が多数お祀りされている。場所は国道464号線上り車線すぐ脇に鎮座している
(白井市谷田317付近)

NO,52 猿田彦大神

真ん中と右側が猿田彦大神。萬延元年(1860年)と弘化4年(1847年)のもの。
猿田彦は元来、道案内の神から道祖神に転化したり、庚申の申(サル)から庚申信仰へと転化したりした。「五穀豊穣」や「風雨順時」などの文字が刻まれている処から神道系庚申塔と思われる。ちなみに左側の祠は昭和12年の大六天神社。
(白井市谷田789付近)

NO、53 弁財天

西福寺の小道を挟んだ池のほとりに鎮座している。同じ祠が2基並んでいる。正面には「奉信大辨才天講悉蛇成就」。右側面に「下総国印西谷田○村中」とあり。年代は享保10年(1725年)10月吉日とある。池は大小2つあって、ザリガニがたくさんいた。
(白井市谷田875)

NO、54 蛇神様

上記NO、53の弁財天の祠脇に鎮座している。正面に「蛇神様」とあるが、年代等不明。
弁財天の祠正面にも「蛇」の文字が見え、何らかの伝承があるのだろう。
(白井市谷田875)

NO,55 飯綱権現

縁起によれば弘化3年(1846年)建立、明治39年社殿再建、昭和56年ニュータウン事業により遷宮。八千代市萱田の飯綱神社の兄社とも伝わる。深い森の中に鳥居・灯篭・狛犬などの立派な諸設備が整う。ラフな地図しかなく、道狭く、倒木などにより参拝まで困難を伴う。地図とコンパスは必携。
(白井市谷田1176東側付近)

NO,56 弁財天

神崎川に注ぐ支流の源流地にある弁財天。昭和62年3月吉日谷田区とある。写真の祠の後ろに文政12年(1829年)の小型の祠がある。別名、沢山の泉。印波郡誌に曰く、「水神の祠ありて澤山と称す。日本武尊の御手洗清水あり尊を祭れる草薙神社存す」と。鎮座地は周囲部からかなりの低地にあり、祠周辺から清水が湧き出しており、川の起点(始まり)が観察できる。
(白井市谷田1337北西付近)

NO,63 宗像神社 

清和天皇の御代貞観十八年(876年)創建。慶長八年(1603年)再建、天保二年(1831年)建替え。天保二年より清戸・谷田両地区立会いのうえ神輿を出して祭典を行う。両地区隔年の当番となる。また、印旛郡印西内郷の総鎮守とされており、宗像大明神が下総に鎮座したのは当社が最初と伝わる。(千葉県神社名鑑)下総宗像神社の分布の西限に位置しており、これより以東(印西市・印旛村)に全部で13社鎮座している。(白井市清戸553)

NO,86 白山神社

左側の小さい祠に「白山神社 明治11年寅戊年6月吉日 願主名」があり、大型の祠には「平成6年3月吉日」とある。この谷田の雑木林付近にはNO,55飯綱権現・NO,56弁財天があるが、あまり人の手の入っていない部分でもある。明治に入ってからの開発されて勧請されたか、また付近の西福寺(天台宗)の関係で勧請されたかは不明である。白山神社は全国3000社近くも分祀された神社であるが天台宗との関係も深いとされている。
(白井市谷田875南側付近)


Last NO,86