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NO,1 大日(おおひ)神社七次の長楽寺脇にある神社。ご祭神は天照坐皇大御神他7神をお祀りする。延宝5年9月15日に七次村の村社として勧請された歴史を持つ。ここの住所の白井市根地区は明治時代に白井木戸新田・中木戸新田・軽井沢新田・七次新田が合併した所でかなり広範囲をカバーしていたがその後、大山口や清水口、大松、けやき台などの新しい住所が分離したためかなり複雑な形に現在はなっている。さてこの大日とは何に由来するのであろうか。船橋市にある意富比(おおひ)神社(船橋大神宮)は、大日山に鎮座する式内社である。ご祭神も同じ天照皇大神とし、この大日から来ているのかもしれない。(白井市根1388) |
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NO,2 天神八幡神社大日神社の境内社。普通八幡神社の祭神は応神天皇であるが、ここの八幡様の御祭神は「八幡」と呼ばれる馬である。下の弁財天でも述べてはいるが、あまりに良い馬のために八幡様の使いと呼ばれた。白井市のガイドブックにも掲載されている境内社にしてはメジャーな神社である。初詣で大日神社と共に多くの人で賑わう。(白井市根1388) |
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NO,10 稲荷神社神崎川を国道16号線に向かい左岸台地麓の道沿いにあり、参道を進むと奥で民家の敷地とつながっている。道に面した場所に一ノ鳥居、写真は二ノ鳥居である。この手の神社の場合は、氏神様等の場合が多く名称が不明な神社が多いが、神額に稲荷神社と入っていたので判別できた。印波郡誌には御祭神は宇賀御魂命、寛永3年(1626年)8月15日五穀豊穣のため勧請と記される。(白井市根1475付近) |
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NO,39 天神社由緒祭神等不明。境内内の手水鉢には明治元年11月とある。鳥居には平成8年1月吉日と中下納税組合と入っている。場所は西輪寺裏手の墓地脇になる。(白井市富塚923付近) |
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NO,14 八幡神社佛法寺のすぐ西隣りに鎮座している。祭神は応神天皇であり、九州の宇佐八幡宮を本社とする稲荷神社と共にポピュラーな神社の一つである。本殿は流造り。神紋は左三ツ巴。明治期の手水鉢がある。由緒書には鎮座不詳。宝暦十一年(1761年)建立。代々法目地区の産土神として崇敬されているとある。(白井市復987付近) |
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NO,15 熊野神社伊奘諾尊(イザナギノミコト)・伊奘册尊(イザナミのミコト)を祭神とする神社で、小型燈篭や狛犬など比較的設備の整った神社である。本殿流造り。神紋右三ツ巴。文化十年(1813年)の疱瘡神の末社がある。鳥居には安政三丙辰年(1856年)霜降吉日と刻まれている。(白井市復952付近) |
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NO,45 名称不明社寛政12年(1800年)9月吉日鎮座。祠正面には宝剣が刻まれている。祠前には御幣が供えられており神祠と判断した。場所は上長殿の観音堂の裏の高台の崖縁に鎮座している。この場所には寛永頃の宝篋印塔2基がある。(白井市復1226付近) |
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NO,48 山神様Tさんから情報をいただた山神様。当地では以前には雑木林を「ヤマ」と呼んでおり、昭和30年代ころまでは雑木林で薪を拾い売りに出ていたとの事。山の恵みに感謝する思いが込められていたのだろう。場所は常円寺すぐ脇に鎮座している。(白井市復1454付近) |
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NO,51 仙元大菩薩(浅間神社)文久3(1863年)亥年とある。脇には小御嶽石尊大権現の石碑(文久3年)もある。浅間を仙元とするのは「霊山神仙の元境の故を以て」からと云う。白井駅北側のホームセンター脇の道から佛法寺に抜ける散歩道脇の森にあのだが、小道の割には車が飛ばしているので注意。名内・今井地区NO,68浅間大菩薩参照の事。(白井市復987西側付近) |
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NO,5 稲荷神社国道16号線から農免道路を今井方向に北上した右側にあるが、農免道路からは潅木の陰に隠れて見えない。公民館脇に朱色の鮮やかな鳥居なのだが靖国型鳥居の中央に額束があるタイプであまり見かけない。似たような型は川(金山落し)を挟んだ金山(柏市)鳥見神社の鳥居もこのタイプに近い。本殿は小型であるが末社が多く並んでいる。この場所は小名内とも稲荷とも呼ばれていた字である。(白井市名内1061付近か) |
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NO、6 粟島神社小彦名(スクナヒコ)を祭る。戦国時代末期(永禄期)に千葉氏家臣伊藤左馬介守胤が紀州加太粟島神社を勧請したと伝わる。安産・縁結びなど女性に関わる神様としてかつては遠方からも人が訪れていた。この神社の場所は道が狭いために白井工業団地周辺に駐車して歩くのが良いようだ。道から急な階段を昇って行くのだが、道から鳥居が見えるので判りやすい。境内にはモミジと榎の大木がある。(白井市名内581付近) |
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NO,18 熊野神社伊奘諾尊(イザナギノミコト)・伊奘册尊(イザナミのミコト)。神紋は左三ツ巴。手水鉢は文政三年(1820年)と燈篭1対 文政十三年(1830年)が配置されている。覆屋根の中に流造りの本殿がある。境内には末社他に庚申塔など多数設置されている。(白井市折立544) |
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NO,37 山神様「文政十三年(1830年)寅四月吉日 折立村 願主 廣右ェ門」と世話人数名の記載あり。通常山の神とされるのは大山祇命(オオヤマズミノミコト)が多く、あるいは木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の場合もある。本来は山仕事をする人たちの守護神であるが、本神の場合は農村の守護神であろう。山神様は春になると、水神様の仲立で里に降り、田の神となり水の恵みを与え秋の稲刈りが終ると山へ帰り元の山の神に戻るとの伝承は広く分布している。場所は山神様の名称通りうっそうとした竹林雑木林の中にある。(白井市折立311付近) |
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NO,16 八幡神社誉田別尊(応神天皇)・崇徳天皇を祭神とする。本殿は入母屋で確認できず。神紋は左三ツ巴。鳥居が2基の他、手水鉢が右側配置であるが風化が激しく年代等不明。場所は白井第一工業団地の外れで、バスの廃車置場奥にある。(白井市中390)) |
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NO,19 厳島神社由緒不明。祭神は市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)と思われる。宗像3女神の御1人で水運・漁業など「水」に関する神様らしく、神々廻の弁天池脇に鎮座している。市民の森(旧町民の森)と市民プールの分岐の手前にある。本殿は小型で参道左側に見える。(白井市神々廻1648付近) |
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NO,20 駒形神社慶長7年(1602年)鎮座、元文4年再建、宝暦2年拝殿建立、寛政7年拝殿再建、安政2年正一位駒形神社大山祗神の神位を賜る。ご祭神は大山祗神。境内社は大杉・足尾・大日・三峰・淡島神社。狛犬1対(大正4年)手水鉢は明治のもの。神紋は左三ツ巴である。場所は神々廻坂下から神崎川に沿った道から左台地に入った所である。ヤブ蚊多し。(白井市神々廻1139) |
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NO,21 浅間神社木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメミコト)が祭神か。明治45年と記された大型の祠が鎮座している。場所は神崎川沿いの神宮寺と駒形神社との間にあるが、非常に判り難い。駒形神社の脇の畑道を下るように進むと道は細くなり神宮時の裏山を通る形となり、最後は人家の裏庭かと思うような場所を通って舗装道に出ることが出来る。畑道への車の乗り入れ不可。徒歩か自転車のみ。(白井市神々廻1165付近) |
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NO,61 鳥見神社(神々廻)慶長七丙寅年(1602年)鎮座。元文四己未年(1739年)再建。宝暦二壬申年(1752年)拝殿建立。明和五年(1768年)社殿建替え、寛政七年(1795年)拝殿再建。安政二年(1855年)正一位鳥見神社大和武尊の神位を許可される。(千葉県神社名鑑より)本社は鬱蒼とした森の中にあり、狛犬が拝殿と本殿の間に位置している。(白井市神々廻1408) |
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NO,23 天満宮両部型の鳥居を備え、細長い参道を進むと流造の本殿がある。本殿裏側には道真公と思われる彫刻が施され、神紋も天満宮ならではの「梅鉢紋」である。市内での梅鉢紋は初めてだ。境内には狛犬1対(明治16年)、燈篭2対(文久元年(1861年)と明治16年)、鳥居脇の手水鉢は文政9年(1826年)のもので、やはり梅紋が彫刻されている。菅原道真公、前玉命を御祭神とする。一部の地図には天神社とも記入されているので注意。(白井市河原子134付近) |
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NO,24 三峰神社上の河原子天満宮脇に鎮座している神社であるが鳥居及び参道から外れているので境内社では無く独立した神社として取り上げた。と言うもののこの三峰神社の脇には古峰神社の大型の祠や末社と思われる小型の祠が散見されるので以前は天満宮の境内範囲にあったのかも知れない。神社は比較的新しく昭和期のものと思われる。(白井市河原子134付近) |
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NO,26 八幡神社燈篭と狛犬各1対、昭和56及び57年のもの。本殿は流造りだが神紋は取付けていなかった。鳥居は金属製で両柱と貫は溶接してあるのもめずらしい。公園に接しているためか神社の壁等に悪戯書きが目立つのは残念。(白井市富士40付近) |
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NO,29 みたらしさま白井市指定史跡「みたらしの池」にあり弁財天を祀る。五穀豊穣・無病息災・眼病治療に霊験あり。境内の看板には慶長7年の下総国印西荘外郷白井橋本郷水帳」に既に「みたらせ」の文字が見えると言う。境内右側に池があり緑色の水が印象的だった。道は狭く車1台分がやっとの場所なので近くに止めるか(これが難しい)徒歩・自転車で。(白井市白井317) |
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NO,30 道祖神鳥居の奥に小型の祠があり正面に「道祖神」側面に元文3年(1738年)とある。写真では鳥居が手前に傾いているように見えるが実際にもその通りで奥からワイヤーで支えている。「元々、神社の起源はこうした形からかな。」と思わせる素朴なつくりが良い。(白井市白井353付近) |
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NO,31 榛名神社(はんなんさま)鎮火開運・五穀豊穣の神様。元社群馬県榛名山中の榛名神社からとすれば、祭神は火産霊神・埴山姫命。白井市内で唯一の榛名神社であるのだが、勧請理由としては「雨乞講」か。榛名山中にある榛名神社の「萬年泉」の水を竹筒に入れ帰村すると雨乞いに霊験ありという。小さな境内には狛犬1対(大正期)と手水鉢が置いてある。ここも道幅が狭いので徒歩・自転車がよさそう。(白井市白井233付近) |
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NO,49 金毘羅宮階段下の手水鉢に慶応2丙寅年(1866年)とあり。社内には石仏あり。元々は安全な航海の神、降雨を司る神であり航海者・漁民・農民の崇敬を集め、特に江戸時代以降各地に広まった。 (白井市白井428付近) |
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NO,33 八幡大神宮平塚地区から手賀沼へ下る道の崖上に鎮座。本殿流造で覆い屋根となっている。狛犬1対(大正期)と燈篭2対及び手水鉢は文久2年(1862年)の記銘あり。舗装道から細長い参道を通りしばらく歩くと鮮やかな朱色の両部鳥居が目に入る。(白井市平塚930付近か) |
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NO,34 駒祓神社上の八幡大神宮の参道の中程左側に鎮座している境内社。狛犬・燈篭は大正期のもので手水鉢1基。ご神体は御馬で石製の絵馬に馬が浮き出すようである。ご神体の下の台座部分に駒祓神社と記入してある。由緒等は不明であるが戦(いくさ)の神様である八幡神の境内で軍馬に関係するのだろうか。白井市根の天神八幡社も御祭神は御馬であった。(白井市平塚930付近か) |
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NO,35 蔵王権現平塚にある小森瓢箪塚古墳の墳頂部にある。登ると1対の立派な燈篭と大型の祠が目に入る。さてこの蔵王権現は本来、日本仏教の信仰対象でインドに起源を持たない日本独自の仏である。役小角が修行中に示現したとの伝承がある。釈迦・観音・弥勒の三尊の合体したものとされる。神仏習合の場合は御祭神を安閑天皇とした場合が多い。夜泣きにご利益があるという。(白井市平塚2492付近) |
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NO,40 香取神社由緒不明の神社であるが鎮座地である十余一は、それまで牧であったものを明治3年から入植を開始し明治5年に十余一村が成立した。その頃に大きな塚を利用して鎮守をお祀りしたのが香取神社と言われている。この牧の開墾は大規模なもので1〜13番まで名前が付けられ、鎌ヶ谷市の初富・船橋市の二和と三咲・柏市の豊四季と十余二・松戸市の五香や六実など数字が付けられている。拝殿裏に流作りの本殿がありお札とご神体の鏡が鎮座している。(白井市十余一12付近) |
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NO,41 八幡神社境内には文久3年(1863年)2月と記された手水鉢や燈篭などがある。その手水鉢には願主の他に船橋川端石工の名前などが入っている。神紋は左三ツ巴。本殿は後の高台にあり下にある鳥居から階段が続いている。本殿左脇に末社が多数お祀りされている。場所は国道464号線上り車線すぐ脇に鎮座している(白井市谷田317付近) |
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NO,52 猿田彦大神真ん中と右側が猿田彦大神。萬延元年(1860年)と弘化4年(1847年)のもの。猿田彦は元来、道案内の神から道祖神に転化したり、庚申の申(サル)から庚申信仰へと転化したりした。「五穀豊穣」や「風雨順時」などの文字が刻まれている処から神道系庚申塔と思われる。ちなみに左側の祠は昭和12年の大六天神社。 (白井市谷田789付近) |
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NO、53 弁財天西福寺の小道を挟んだ池のほとりに鎮座している。同じ祠が2基並んでいる。正面には「奉信大辨才天講悉蛇成就」。右側面に「下総国印西谷田○村中」とあり。年代は享保10年(1725年)10月吉日とある。池は大小2つあって、ザリガニがたくさんいた。(白井市谷田875) |
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NO、54 蛇神様上記NO、53の弁財天の祠脇に鎮座している。正面に「蛇神様」とあるが、年代等不明。弁財天の祠正面にも「蛇」の文字が見え、何らかの伝承があるのだろう。 (白井市谷田875) |
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NO,55 飯綱権現縁起によれば弘化3年(1846年)建立、明治39年社殿再建、昭和56年ニュータウン事業により遷宮。八千代市萱田の飯綱神社の兄社とも伝わる。深い森の中に鳥居・灯篭・狛犬などの立派な諸設備が整う。ラフな地図しかなく、道狭く、倒木などにより参拝まで困難を伴う。地図とコンパスは必携。(白井市谷田1176東側付近) |
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NO,56 弁財天神崎川に注ぐ支流の源流地にある弁財天。昭和62年3月吉日谷田区とある。写真の祠の後ろに文政12年(1829年)の小型の祠がある。別名、沢山の泉。印波郡誌に曰く、「水神の祠ありて澤山と称す。日本武尊の御手洗清水あり尊を祭れる草薙神社存す」と。鎮座地は周囲部からかなりの低地にあり、祠周辺から清水が湧き出しており、川の起点(始まり)が観察できる。(白井市谷田1337北西付近) |
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NO,63 宗像神社清和天皇の御代貞観十八年(876年)創建。慶長八年(1603年)再建、天保二年(1831年)建替え。天保二年より清戸・谷田両地区立会いのうえ神輿を出して祭典を行う。両地区隔年の当番となる。また、印旛郡印西内郷の総鎮守とされており、宗像大明神が下総に鎮座したのは当社が最初と伝わる。(千葉県神社名鑑)下総宗像神社の分布の西限に位置しており、これより以東(印西市・印旛村)に全部で13社鎮座している。(白井市清戸553) |
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NO,86 白山神社左側の小さい祠に「白山神社 明治11年寅戊年6月吉日 願主名」があり、大型の祠には「平成6年3月吉日」とある。この谷田の雑木林付近にはNO,55飯綱権現・NO,56弁財天があるが、あまり人の手の入っていない部分でもある。明治に入ってからの開発されて勧請されたか、また付近の西福寺(天台宗)の関係で勧請されたかは不明である。白山神社は全国3000社近くも分祀された神社であるが天台宗との関係も深いとされている。(白井市谷田875南側付近) |
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Last NO,86