子守(こまもり)神社(素加天王社) 【千葉市幕張町】本殿流造、神紋は「月星九曜」。参道を入って左側に厳島神社、右側に稲荷神社がある。狛犬・手水鉢などあるも近代のもの。拝殿等ほんの5〜6年くらい前の建て替えられたものでそれまでは赤い屋根の質素な神社だった。七年祭りの磯出式が有名だが、昭和の初め頃までは海岸線は旧国道14号のすぐ南側まであった。昔はここら辺の土地は海砂で細かい貝殻が混ざっていたし、井戸水も少し塩分を含んでいた。本社は海岸から数百メートルの極めて海に近い場所にあったと社である。旧指定村社。七年祭りには子守役として参加する。(千葉市花見川区幕張町2-990) |
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【祭神】 建速素盞嗚命・奇稲田姫命・大己貴命(大国主命) 【由緒】 当社の創設に付いては不明であるが、最古の記録には次のように書かれている。千葉介平常胤の四男、大須賀四郎平胤信が、父よりこの幕張の地を譲り受けて城を築いた。建久4年(1194年)5月、源頼朝の命により富士の御狩場に赴く際に当社へ祈願し、良い成果が得られた。その御礼として社殿を造営し、胤信の次男、中須賀神太夫平正胤をその社司神家とし、武運長久、五穀豊穣、郷中家内安全並びに氏子家内安全諸祈願をさせた。 当初、馬加城近くの本郷須賀の元社逢坂に鎮座していたが、氏子が浜辺へ移住すると共に、永正5年(1508年)現在の地に遷宮した。当社名は建速素盞嗚命(=素加湯山主弥那佐呂彦八嶋篠尊)の名から「素加天王社神社」とされていた。その後、磯出神事の際に祭馬が数多く集まったことから「馬加神社」、磯出神事の役割から「子守神社」となったようである。 【式年連合大祭(七年大祭)について】 「三山の祭り」と通称される当祭事は、幕張で行う磯出安産神事と三山(船橋市三山)の二宮神社への御礼参り神事の二つから成り立っている。文安2年(1445年)千葉介十七代幕張城々主、陸奥守平康胤は、奥方が懐妊した時、十一カ月が過ぎても出産の兆候がないのを案じ、9月16日に子守神社(幕張)二宮神社(三山)子安神社(畑)三代王神社(武石)の各神主を馬加の磯辺に呼び寄せ、産屋を設けて出産祈祷を執行させたところ、その夜、海中より龍灯が揚がり、子守神社へ飛来し、翌日、七つ時(午前4時頃)に無事男児を出産した。康胤初め家臣共は大いにこれを喜び、御礼として三山の地に四社を集めて祭りを挙行した。更に享保12年(1727年)からこの安産神事自体も祭事として同時に執行するようになった。いつの頃からか、時平神社(大和田・萱田)、八王子神社(古和釜)、高津比盗_社(高津)、菊田神社(津田沼)、大原大宮神社(実籾)の五社が新たに加わり、それぞれの役割を持った現在の形になった。このように現在は九社が集まる御礼参りを先に行い、その後、幕張に四社が集まる磯出安産神事を行っている。 <役割> 二宮神社(父親)・子安神社(母親)・子守神社(子守り)・三代王神社(産婆)・時平神社(息子)・八王子神社(息子)・高津比盗_社(娘)・菊田神社(伯父)・大原大宮神社(伯母) (境内掲示板より) 幕張町誌記載史料より抜粋要約 往古屋形を始め須賀本郷町家1100軒総鎮守産土神也。尚七年毎に大祭を行う。三山大祭と言う。子守神社(幕張馬加)、三代王神社(同武石)、大原大宮神社(同実籾)、子安神社(検見川町畑)、二宮神社(二宮村御山)、時平神社(大和田町高津)、藤原神社(睦豊富部落)以上数社連合。文安2乙丑年、馬加の城主陸奥守康胤奥方御懐妊、既に11月におよぶといえども臨産の御気もなかりし故、平康胤甚だ案じ神主平勝胤へ安産御祈祷致すよし(一部略)満願の夜、宣託あり此条城主へ訴え早々神祭を執行と同年9月15日16日に当社宮山等の神幣を此の馬加磯辺に神幸し奉り祭事執行しける程に不思議にやこの夜、海中より素加神社に龍灯飛揚し翌17日7時奥方安産あり殊に御男子出生によりて安産祭祀の礼事執行と家士一同評議をなし領地村々へ次次第を触れ廻し馬加の磯辺にて安産賽祭執行しけるこのみぎり村々より鞍壺に小帛幣を建て神馬数疋索揃へ参会し城主平康胤ご覧になり大悦の吉兆として、幕張大明神を馬加大明神と改め、里の名も馬加の郷と改め子守神社を安産神と崇め尊び奉るなり。(文安2年(1445年)より天保3年まで388年也。)然る後には豊作を伺い5年目7年目10年目に当たりて霜年(月カ)17日または9月16日を祭日と卜定(ぼくじょう)して祭祀を執行し享保12丁未(1727年)年9月16日、馬加磯辺に竹垣を結び馬加・三山・武石・畑等の神輿を奉安置し安産の祭式を執行、すなわちその祭式の毎度に三山大明神の神幣を当社に納置事を旧例とし今も此例あり。この時より七ヶ年一度と治定し丑年未年に当たり磯出祭執行の事。この神社は元大須賀四郎平胤信、建久5甲丙(1194年)年素加天王社造営以後107年へて永仁6戊戌(1298年)年年造営あり。その後154年をへて享徳3(1ヵ)壬申(1452年)屋形の馬加陸奥守平康胤造営あって後55年を過ぎ永正5年戊辰(1508年)9月18日縫坂元社より此処に奉迂座者也。 |
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名称不明社【千葉市幕張町】名称不明、千葉市に問い合わせるも「郷土博物館にも問い合わせて調べてみましたが、わかりませんでした。お力になれず申し訳ありません」との事。地図上では道祖神社となっているが境内に”道祖神”の碑があるだけで、その他に本殿2基が鎮座する。構造物は灯篭(昭和10年)、狛犬(昭和16年)、手水鉢は明治27年と大正2年のもの。場所は堂ノ山北側で西の谷小学校の間になる。(千葉市花見川区幕張町1-4051北側付近) |
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浅間神社【千葉市幕張町】本殿は倒壊したのか既に土台のみになっている。文政13年(1830年)12月の手水鉢がある。正面参道の他西側に向って小御嶽神社の鳥居と”磐長姫”命の石碑がある。浅間神社の”木花咲耶姫命”と姉妹で祀られている事になる。(千葉市花見川区幕張町2-1402-1付近) |
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金毘羅神社(金毘羅大権現)・第六天神社【千葉市幕張町】本殿は倒壊、2基分の土台のみ残っていた。その他龍神社の本殿は無事残っていた。灯篭は寛政4年(1792年)11月のもので笠部に丸に金文字紋、手水鉢は年記不明であるが正面に羽団扇紋が見える。(千葉市花見川区幕張町1-945付近) |
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第六天神社:御祭神 面足惶根二命 康生元(1455年)乙亥年3月屋形主 平康胤海上通船無難の為願祭し社地八反歩、余、例年9月29日祭り注連曳祭料等は中台帯刀と小川外記両家に今寄進者也。 金比羅大権現:大六天守同社金毘羅大権現。天明8(1788年)戊申年新規に讃州那河郡金毘羅大権現を馬加の大六天神の社へ遷し鎮座奉らんと新に宮殿を造営しけるに上総国市原郡青柳村農家市川氏興兵衛の家内に従昔より金毘羅大権現の霊像鎮座したるに、不思議なるかなある夜、神詞曰く、「我住む宮所 これより西北に当たりて新宮居を造り営し清々しき地なり。此宮所に移りて渡海安穏災いを守らん。」と詔あり。これによって市川氏興兵衛は宣託のままに馬加へ告げ来たり。この話を聞いた神主講中の人々吉日を選んで此の馬加の宮所に遷し奉らんと約諾して天明8年2月15日青柳村より此宮所に遷し同年9月23日御遷宮なし奉る。以後日に月に利益を現わして隣村他郷より参詣人群集なし御神徳を仰ぎ尊みたる。(幕張町誌より抜粋要約) |
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秋葉神社・昆陽神社(いも神様)【千葉市幕張町】秋葉神社・昆陽神社共、本殿流造、外千木、鰹木5本。神紋は秋葉神社は「紅葉(もみじ)」で昆陽神社は「丸に剣方喰(けんかたばみ)」。本殿は写真の通り秋葉神社が大きく造られている。境内社には金比羅大神・子安明神などあり。境内南側の鳥居は秋葉神社、東側の鳥居には昆陽神社の神額が掛っている。幕張村誌の昆陽神社由緒には、馬加村同様、上総国不動村にも甘藷を試植えしたが同村には「この芋を作ると海漁なし」などと愚説が起こった。また他村の固陋(ころう:古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと)者は「甘藷を見て有毒物であるとして作らなかった。」などと記されている。以前この神社の前には「開かずの踏切」があって学生時代、バイクで通学していた時には遮断機が下りて、タバコを1本吸って少年ジャンプを読み終わってものなお踏切は開かなかった思い出がある。(千葉市花見川区幕張町4-803付近) |
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秋葉神社由緒:【祭神】火之迦具土(ひのかぐつち)大神 記紀にも見られるように人間の生命、生活に欠く事のできない「火」の神様。御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く。火災をはじめ盗難除、百災消除、延命長寿、火防開運の神として祀られている。【由来】建立は不詳。通称権現様。古来よりの地名に権現山、権現町と称し親しまれた名残がある。享保年間(1716〜1735年)に信仰の厚い氏子により土地を寄贈され、現在の地に移る。江戸時代、境内地に昆陽神社を据える」。千葉市美浜長作線の計画により一時同町、子守神社に鎮座。道路開通後、昆陽神社と共に新社殿を造営。平成18年11月遷座。 昆陽神社由緒:【祭神】青木昆陽 江戸時代の蘭学者、甘藷(サツマイモ)栽培の普及につとめた。昆陽は八代将軍吉宗に仕え享保の大飢饉(1733〜1734年)の翌年、江戸小石川薬草園に甘藷を栽培、数ヶ所で試作し成功したのが馬加(幕張)村だった。その後、幕府により各地に甘藷栽培が広まる。以後、全国何万人という人々を飢餓から救った。【由来】青木昆陽没後、天明の飢饉が起きた。甘藷栽培を始めて約40年後の事で、馬加ではこの大飢饉にもかかわらず一人の餓死者も出さなかったといわれている。そして昆陽は「芋神さま」として敬われ弘化3年(1846年)秋葉神社境内に祀られた。(以上境内掲示板より) |
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猿田彦神社【千葉市武石町】庚申塔をご神体とする猿田彦神社。境内にある”御神”と見える石碑(地中部に文字があるかは不明)に安政6年(1856年)4月、本殿前にある手水鉢は安政6己未年(1859年)5月吉日。手水鉢正面に「卍紋」あり。(千葉市花見川区武石町2-942-2付近) |
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愛宕神社【千葉市武石町】由緒略記:地域の人々に、火防の神、学問の神として信仰され「あたご様」と称される当社は、御神体の石祀に。「愛宕大権現」と標されています。その側面には、建立年月日ととじの地名「下総国千葉郡武石郷」が刻まれています。創建日の3月24日は、千葉常胤の命日(建仁元年没)にあたり、三十三回忌に併せ、武石郷須賀原にこの地に、千葉城に向けて、先祖菩提・当地安寧の為、武石氏によって愛宕社が造立されたと伝承しています。更に、永仁2念、武石初代三郎胤盛に嫡流胤晴によって、秩父板碑供養石塔が七基建立されたと伝えています。第一次国府台合戦に於いて、武石氏が途絶えてからは、地元の有志によって当社は守られてきました。(以下略)境内掲示板より |
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鎮座地:千葉市花見川区武石町2-940 御祭神:火具土命並びに千葉介常胤の神霊 創建:貞永元年(1232念)3月24日 |
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三代王神社【千葉市武石町】本殿流造、神紋は「九曜」。御祭神は”天種子命”(アメノタネコノミコト)。南側崖下の参道鳥居は平成22年、灯篭は嘉永6年(1853年)菊月(旧暦9月)吉日、狛犬には”嘉永6年献納、明治13年9月大風のため大木が倒れ大破”とある。この狛犬のように造り直しの由緒書きが添えてあるのも面白い。境内社には稲荷神社・道祖神・三峯社・浅間大菩薩(推定)などあり。参道は東側にもあり(西側は未確認)。神社名は地名由来であることは判明したが、御祭神である天種子命は近在でも祀られている神社は無く極めてレアな存在である。中臣氏(藤原氏)の祖神である事を考えれば、二宮神社(船橋市)、菊田神社(習志野市)の御祭神である”藤原時平”公と係わりのあるのであろうか。七年祭りには産婆役として参加する。 鳥居前参道脇の石文「懐盗心境内入者不遜可神罰」。 (千葉市花見川区武石町1-4) |
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・字名”三代内”に鎮座。建仁2年(1202年)、武石胤盛が郷中安全の守護神として勧請した。(千葉県地名辞典) ・創立年代不詳。承安(1171〜1174年)の頃、千葉介常胤三男の武石三郎胤盛が城を構え崇拝されたと云う。社殿は天正 享保年代に修築を加え、宝暦年間「武石明神」と称し、寛政8年(1796年)以来「三代王神社」と称す。(県神社名鑑) ・享保17年(1732年)11月2日、文政8年(1825年)正月17日の「奉造立}の棟札あり。(幕張町誌) |
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武石神社(おたけし様) 【千葉市武石町】京葉道路武石ICのすぐ南側に鎮座。武石古墳と呼ばれる円墳上に鎮座。同境内に三峰神社も鎮座する。鳥居には平成7年7月とある、本殿は覆屋風、神紋は”月星”と”十曜”。御祭神は、武石三郎胤盛朝臣、並びに武石氏代々の神霊。武石胤盛は初代武石氏で千葉常胤三男である。(千葉市花見川区武石町1-336-1) |
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武石氏嫡流没後、里見家などに残った武石氏の末裔達により先祖顕彰と供養のため、武石城跡に代々の神霊が祀られ”おたけし様”と称されてきました。宝暦6年(1756年)に武石氏末裔で上総国天羽郡の武石勝左エ門胤清翁が、武石神社に詣でて奉斎したと伝えています。この翌年、当時の村人達は武石氏やその後の領主、馬加氏を回顧し、明神の元祭司であった馬加康胤家臣、小川采女の子孫を神主として招き祭儀を執り行いました。昭和15年胤清翁の子孫、武石次胤興翁が当社に参拝し、小川定右衛門氏の協力を得て社殿を造営、鳥居と社号標も建てられました。(境内掲示板より抜粋) 当神社は千葉介平常胤朝臣の三男、武石三郎平胤盛朝臣以下武石氏累世の神霊を祭祀するの社にして往古より此こに鎮座し地人尊崇してお武石様と称す。宝暦6年(1756年)上総国天羽郡木村の住人にして胤盛朝臣13世孫武石山城守孫武石勝左ェ門胤清翁、当社に詣で奉斎致す処あり。今年皇紀2600年胤清翁6世孫、現上総国君津郡湊町の住人武石豊次胤興粋、此の往年に当たり其の祖霊の祭祀を厚●と当社の再興を計り新たに社殿を造営し鳥居並びに社殿(ヵ)を建て社碑を刻みしを以て神威を明しせられる当地に小川右ェ門氏、また武石氏と縁由深きの故を以てこの事賛● ●敷地を寄進せらる。よって胤興翁小川氏と謀り当社地社殿共にこれを当郷の鎮守三代王神社に七●世●祀の途を立てらる。よってここに当社再興の縁由を誌し後世に伝うと云爾。 昭和15年11月10日(境内碑より)(●判読不明文字) |
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愛宕神社【千葉市武石町】鎮座地は、武石城址の南側、住宅地から少し入った場所で真蔵院北西崖上か。コンクリートブロックを積上げた覆屋内に石祠が鎮座。鳥居には平成2年2月吉日とある。(千葉市花見川区武石町1-1420付近) |
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羽衣神社【千葉市武石町】口碑に伝える処、「昔、千葉介常胤の前に羽衣を着た美女突然降り来て曰く、蓑箒の妾(人妻の謙譲語)たらんと。常胤これを寵愛し子七人をなした。常胤、彼女の羽衣を秘蔵し明ける事を禁じたが、或る日、その汚れを洗って(不動堂の側に羽衣池あり)松枝に掛けておいたところ彼女が羽衣を着て昇天し去っていった。」と。石碑には明治11年1月とあり。稲荷神社祠他あり。鎮座地は真蔵院不動堂裏手高台に鎮座。(千葉市花見川区武石町1-1160付近) |
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諏訪神社【千葉市長作町】参拝したのは天気の良いゴールデンウィークの祝日。標高20mの台地上に鎮座して白い鳥居と祝日に揚げられた国旗が遠くからでもよく見える。一ノ鳥居のある参道入口から階段を登ると東から南にかけての展望は素晴らしい。本殿は流造、神紋は不明なれど手水鉢正面に”丸に梶葉”が見える。狛犬は嘉永5子年(1852年)9月、灯篭は文化11甲戌年11月吉日、手水鉢は天保7丙申年(1836年)11月吉日で鳥居二基はいずれも平成のもの。境内社は数基見えるも風化して読むことはできなった。歩射神事あり。 (千葉市花見川区長作町779) |
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由来記 一 起源:当社は延暦年中(782-806年)坂上田村麻呂が東征の帰途、信濃惣社上下諏訪を、この諏訪辺の地に遷置して、この地域一帯の鎮めとされたのが起源であると伝えられる。 二 祭神:建御名方命・下照姫命を主祭神とす、その他日本武尊など著名神が合祀され、武の神・農耕の神として古くから地域の人びとの信仰を深めている。 三 社殿:神域822坪、社殿の創建は記録書類焼失の為不詳なるも寛永年間(1624-1645年)と古老の伝承あり、本殿(間口奥行各一間)の再建は天保7年(1836年)、拝殿の創建嘉永年間(1848-1854年)改築は昭和42年である。 四 合祀社:明治44年(1911年)南谷津日枝神社、本郷道祖神社を合祀、大正元年(1912年)開有富 春日神社、三嶋前 三嶋神社、坊辺田 水神社、前原 稲荷神社、前原 十二社神社、前原 第六天神社、本郷 天津神社、諏訪辺 水神社を合祀して現在に至っている。(境内石碑より、一部年号等に加筆) |
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三峯神社【千葉市長作町】住宅街を歩いていると白い大きな鳥居が現れる。境内には新しい玉垣と台座、神使の狼が見える。鳥居は平成のもの。(千葉市花見川区長作町249付近) |
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天津神社【千葉市長作町】本殿は妻入寄棟造で神社建築よりは仏閣建築の様式。屋根には”上向星月”紋がある。灯篭は慶応2丙寅(1866年)年2月吉日、狛犬は万延元申年(1860年)、手水鉢の年紀不明。鳥居は平成8年10月、喜右衛門九代目〜の記載あり。境内社には道祖神と風神社(←あまり見た事ないです)あり。地誌に「妙見社、御祭神、天御中主命、弘長年中(1261-1264年)武石小三郎入道長胤が千葉六妙見の内を当所に安置す。」とある。(千葉市花見川区長作町288付近) |
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名称不明社【千葉市長作町】長作郵便局の道路を挟んだ向い側に鎮座しているのだが。(千葉市花見川区長作町498-5付近) |
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坊田辺水神宮【千葉市長作町】本殿流造、神紋は「三ツ巴」。境内社に、三峯神社・金比羅宮・仙元大菩薩・小御嶽石尊大権現など。手水鉢に文久元年(1861年)酉9月吉日。幕張村誌によれば、御祭神は「水速当ス」で創立詳ならず、再営は安永2年(1773年)正月建立とある。 坊辺田の交差点から東に少し入った山側に急峻な階段上に鳥居が見える。鳥居奥に拝殿、その裏に覆屋のある本殿が見える。(千葉市花見川区長作町2295付近) |
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この4段上の長作 諏訪神社の項に、「大正元年、坊辺田水神社を合祀した。」との記載がある。実はこの水神宮は千葉県神社庁には登録されていない社で、それを考えると一度諏訪神社に合祀されたが、元宮跡に新たに鎮められた社なのかもしれない。 | ||
熊野神社【千葉市天戸町】花見川沿った低地の道を北側に登って行くと、台地上に畑が広がる。右側の畑の中に石畳の参道が森の中に続いている。鳥居をくぐると大きなコブのある木の脇に本殿が鎮座する。手入れが行き届いた社である。本殿脇にも覆屋のある境内社が鎮座するのだが社名は確認できなかった。(千葉市花見川区天戸町810付近) |
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稲荷神社【千葉市天戸町】本殿流造、神紋は”三ツ巴”が見える。手水鉢に嘉永4(1851年)12月とある。境内社には疱瘡神・道祖神・八幡宮・三峯神社・浅間大菩薩・小御嶽石尊大権現・稲荷神社等多数あり。千葉郡誌に、明応年中千葉家の従臣、亘内蔵之丞永行が相計って鎮守天照大神皇大御神を稲荷大神と改称し字矢の内に遷座とある。また境内には、「天照皇大神」の神碑があり月星紋が入っている。武石氏六代目の亘理氏と関係があるものなのか、関係があったとすれば、神社と御祭神との関係など興味が尽きない。両部鳥居を入ると灯篭と神使の倒壊防止用の金網が目につく。(千葉市花見川区天戸町747) |
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明応2(1493年)癸丑年9月村中一同が当社を創建。文化5(1808年)年戌辰9月再建。明治10年拝殿再営。(千葉県神社名鑑) | ||
十二社神社【千葉市天戸町】 神額には「十二社大権現」とある。神社名鑑には、「創立年代不詳、当村開村の頃、天神七代地神五代の神を以て十二社神社と称し、社殿を東方字椰に創建したともいわれる。一説には往古より創祀されていたが、明応年間福寿院建立の際、この地に改祭遷座、文久壬戌年2月再建。」とある。また千葉郡誌には当村開創の頃十二社を祭り、此の地の字を十二所として天照皇大御神を鎮守として尊崇し、他十一社を末社となし云々とあり。(千葉市花見川区天戸町568) |
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天津神社【千葉市花島町】社殿は寄棟造で庇を前に伸ばした流造風。神紋は幕と賽銭箱に”三ツ巴”だが屋根には”月星”紋がある。元は妙見社で「北辰尊星妙見」をお祀りする。境内社に金比羅大権現他あり。狛犬は明治32年、手水鉢も明治期のもので灯篭は昭和のものである。天福寺境内に鎮座、天福寺は鎌倉期の木造十一面観音立像が有名であるが、和銅2年行基の開基による伝承以外目立ったものは見当たらない。幕張・長作・天戸と続く千葉氏系の社であろうことは推察できるのだが。(千葉市花見川区花島町364) |
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正一位稲荷大明神【千葉市花島町】花島公園の北側高台に鎮座。本殿の幕には火焔宝珠紋。神使のキツネの台座には安政6年(1859年)2月初午日とある。鳥居は平成のもの。(千葉市花見川区花島町373付近) |
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文章がここに入ります | ||
第六天神社【千葉市天戸町】本殿神明造、外千木、鰹木3本。境内社1基あるものの判読不明。高台向遺跡内に鎮座している。本遺跡は縄文・弥生・古墳・平安時代の集落跡で、石器・土器・土師器・鉄器などが出土している。(千葉市花見川区横戸町1486) |
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祭神:面足命(オモダルノミコト)惶根命(カシコネノミコト) 由緒・沿革:創立の年代は不詳、しかし安政6年(1859年)正殿造替奉祝祭の祝詞があることから、これ産土神として何らかの形で祭られていたと思われます。(中略)第六天神社の祭神は、二柱の夫婦神で長寿と縁結びの守護神として崇敬されています。(境内碑文より抜粋) |
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