下総の神社  <船橋市の神社 南部版


船橋市は市域が広いため、南北に分けました。北部版はこちら。
この南部版は、三山・田喜野井・芝山・飯山満町・七林町・薬円台・滝台・前原・中野木・米ヶ崎町・東町・東船橋・宮本・浜町・本町・夏見・前貝塚町・山手・海神・西船・印内町・印内・古作・東中山・本中山の社を掲載しています。


弁財天【船橋市三山】

この地は、延宝年間(1680年頃)、行徳湊村の青山久左衛門が、幕府に開墾を願い出て許可され開墾された地域で地名を「今湊新田」と称しました。弁財天は、青山久左衛門が行徳湊村に建立した「善照寺」に祀られていましたが文化6年(1809年)にこの地に渡御されました。元治元年(1864年)に村の鎮守としてもらい受けて祀ってあります。(境内掲示板要約抜粋)
(船橋市三山8-43付近)

二宮神社(三山明神) 式内論社【船橋市田喜野井】

旧郷社。社殿は権現造、神紋は「亀甲に七曜」。ご祭神は、速須佐之男命・稻田比賣命・大己貴命・藤原時平・大雀命・譽田別命。由緒書には弘仁年間(810年〜824年)、嵯峨天皇の勅創により、その後、明治4年には若宮八幡・阿波八幡を合祀した。近郷二十三ヶ村の総鎮守としてその地域は、久々田・実籾・谷津・藤崎・鷺沼(習志野市)、馬加(幕張)・畑・武石・天戸・長作(千葉市)、高津・大和田・萱田・麦丸(八千代市)、古和釜・田喜野井・中野木・大穴・坪井・楠が山・八木が谷・高根・飯山満町(船橋市)の広域に渡り、花見川・新川以西の独特の信仰圏を形成している。。この二十三ヶ村の内、八ヶ村の神社が丑未年の「七年祭り」に参加する。
延喜式、下総国千葉郡小並 寒川神社に比定される社であるが、本社の特徴として境内の独特の地形にある。参道入口の道路から鳥居をくぐると4〜5mも下がろうかと云う谷地となる。この谷は参道入口の南側・本殿のある北側と東側は高地となっており西側に低地が続く(西側に開いた)地形となっている。この谷地の奥に泉が湧き出し、清水が低地の沿って菊田神社へ続き東京湾へと流れ出る。この清水が寒川の由来であると云う。本社と菊田神社に伝わる藤原一族にまつわる伝承と八千代市にある高津姫神社時平神社など興味は尽きない。思えば縁の深い処で、幼稚園の時の遠足から子供達のお宮参り、当然毎年の初詣までお世話になっている神社である。

子神社【船橋市田喜野井】

旧村社、ご祭神は大巳貴命。本殿流造、神紋は「三ツ巴」。狛犬は明治期、灯篭は昭和、手水鉢は大型のものが天明9(1789年)己酉歳正月吉日 三山村とあり、小型のものは大正期のもの。創建は天文4(1535年)3月15日と伝う。境内社には御嶽神社(ご祭神:日本武尊)はじめ牛頭天王・疱瘡神・三峯神社古峯神社・子安大明神・浅間大神など。(船橋市田喜野井3-16-3)

稲荷神社【船橋市田喜野井】

建立記念碑によれば「平成16年3月に”七年祭り”が県指定無形民俗文化財に指定されたことを記念して、この地を子神社(上記参照)境内地として定め稲荷神社を建立、式年大祭神輿渡御時の御旅所とし、式年大祭の永続と子々孫々の安寧と繁栄を祈念するもの」とある。つまり子神社の末社として稲荷神社を建立したようである。碑文が横書きであったのは今風と思うべきか。
(船橋市田喜野井6-37-10)

弁財天【船橋市田喜野井】

「おはんが池」跡に鎮座している。下総国千葉郡田木井村 元禄14年辛巳6月13日とある。菊田川を遡りると左右に谷地が分岐する。右(東)側は二宮神社へ続き、左(西)側を行くと田喜野井を貫通するように北へ遡る。このような湧水が源泉の1つだったのかも知れない。
(船橋市田喜野井6-4付近)

道祖神【船橋市薬園台】

電柱の陰でひっそりと鎮座する道祖神。時代も移り変わってこんな交通量の多い場所になるとは思ってもいなかったのかもしれない。天明3(1783年)卯年2月吉日とあり。場所は国道沿いで船橋市郷土資料館ハス向かい。
(船橋市薬円台3-4付近)

神明社【船橋市薬園台】

旧村社、本殿神明造、外千木・鰹木5本。神紋は「三ツ巴」。境内社には疱瘡神社・八坂宮・古峯神社・金比羅宮・子安神社(祠は子安観音)、仙元宮などあり。狛犬は明治期、手水鉢は文化4(1807年)卯年12月吉日とあり。宝暦10年(1760年)9月15日創建と伝わる。鳥居が本殿裏側にある面白い構造を持つ社である。
(船橋市薬円台1-12-8)

金比羅神社【船橋市七林町】

鳥居を前に参拝しようとすると神額の文字が横書きで”金比羅神社”とある事に気付く。ここを毎日通っている人にとっては何事でも無いように思えるだろうが、たぶん500は下らぬ神社に参拝したが横書神額は初めて見た。本殿は覆屋で確認できず。手水鉢は大正6年、鳥居は昭和のもの。境内社に子安観音あり。神紋はなぜか「棕櫚扇」でこれは浅間神社の神紋であって金比羅神社の場合、「丸に金文字」が使われるのが普通である。縁起由緒等の資料が無いので判断しかねるが子安観音が本地垂迹で木花咲耶姫(浅間神社御祭神)として表されたものか。(船橋市七林町436付近)

道祖神【船橋市滝台】

安永8(1779年)亥6月吉日とある。鎮座するのは国道296号線から滝台八幡神社へ入る道の辻である。
(船橋市滝台2-2付近)

八幡神社【船橋市滝台】

旧滝台新田村の鎮守。旧村社。本殿は流造、外千木、鰹木3本。神紋は「三ツ巴」。灯篭・手水鉢は昭和のもの。狛犬は大正期。ご祭神は誉田別尊(応神天皇)で、延宝4年(1676年)8月創立。境内社として弁天社あり。市杵島姫命をご祭神とする。
(船橋市滝台町98)

稲荷大明神・大六天【船橋市芝山】

鳥居をくぐると左側に大六天の祠(大正7年9月)、右側に稲荷大明神の祠(大正7年2月吉日)が鎮座している。この鳥居から一段下にも道祖神の祠(大正7年9月)と二十三夜講の祠がある。場所は県立船橋芝山高校南側斜面に鎮座している。

(船橋市芝山7-37北側付近)

王子神社【船橋市飯山満町】

本殿流造。神紋「三ツ巴」。狛犬は大正期、灯篭(大)昭和。灯篭(小)は文久3(1863年)癸亥年4月吉日。手水鉢は文政7(1824年)甲申年9月吉日とある。境内社は子安大明神・稲荷大明神・古峯神社・疱瘡神・浅間神社(富士塚)あり。旧上飯山満町村本郷の鎮守。

(船橋市飯山満町町3-1465)
祭神は建御名方(タケミナカタ)神を祭る飯山満町3丁目に唯一の産土様で旧下総の国、上飯山満町村で最も古く、現在の神社は文政5年(1822年)再建され、当時織戸加賀守藤原光晴が神主とすて奉仕して参った事が今も本社内に記されて居ります。祭神は大国主之命の次子で長野県諏訪市に在る元官幣大社諏訪神社の分柱で全国に約5500社を数える上諏訪町上社・下諏訪長に下社が鎮座まします建御名方之神は父神大国主神と共に我が国建国の功労神とされその後、八坂刀売(ヤサカトメノ)神は、信濃国が生んだ女神で、両神は揃って信濃の国の開拓に力を尽くされ、その功績は今も広く伝えられています。明治初年織戸家(赤門神主)及び近隣大火災の為、書類焼失なれ共昔より長久3丁目の先祖の氏子が45戸の家々で現在の神社を再建し奉り敬神の念厚く、家運隆盛、家内安全を願い奉って参りました。戦後多くの方々が飯山満町町に移住し来り先祖として立派に開拓されて、3丁目も今や2000戸を数える唯一の神社として開拓の神、交通安全の神として祭られております。(境内掲示板より)

大宮神社【船橋市飯山満町】

飯山満村高野の鎮守で旧村社、創建は江戸時代初期と伝う。本殿流造、神紋は「三ツ巴」。狛犬は明治及び昭和のもの。大灯篭は昭和61年、もう1基の灯篭は文化11(1814年)戌年4月吉日、手水鉢は文政2年(1819年)のもの。鳥居は昭和期。境内社には藤森稲荷、富士塚あり。ちょっとめずらしいところで蒟蒻神社と云うのも鎮座している。
(船橋市飯山満町町2-834)

阿弥陀子育弁財天【船橋市飯山満町】

阿弥陀山清房院前の路傍に鎮座する弁財天。新しい祠の後に明治期の”弁財天”の祠がある。近くには飯山満緑地公園があり地勢も低地となっている。

(船橋市飯山満町2-777付近)

八幡神社【船橋市飯山満町】

本殿内には木製坐像2体、鳩の絵馬、八幡神社木札などが見える。手水鉢には天保10(1839年)年12月吉日と記されている。その他に狛犬及び灯篭が各1基づつあり。
場所は飯山満「ゆるぎ地蔵」脇に鎮座している。

(船橋市飯山満町2-733西側付近)

弁財天【船橋市飯山満町】

こちらも「ゆるぎ地蔵」と道路を挟んだ向いに鎮座している弁財天。かつては湧水があり中之島状になっていたと思われるが参拝した折には水は引いていた。

(船橋市飯山満町2-733西側付近)

子神社【船橋市飯山満町】

市HPには「小川藤右衛門が祀った神社で婦人病治癒に効験のある神様として信仰をあつめた。」とある。小型の手水鉢と土台と欠損竿部だけの灯篭があるも年代不明ながら欠損竿部には”丁亥3月吉日”とある。これを手掛りとすれば明治20年(1887年)・文政10年(1827年)・明和4年(1767年)・宝永4年(1707年)いづれかのものか。
(船橋市飯山満町1-860東側付近)

神明社【船橋市飯山満町】

本殿神明造風千木鰹木無し。一之鳥居は昭和、狛犬は明治、手水鉢は寛政10(1798年)6月吉日とあり。境内社には子安大明神・三峯神社・天満宮など。その他には神楽殿あり。
延宝7(1679年)巳年8月創立、下飯山満村鎮守で旧村社。
(船橋市飯山満町1-639)

道祖神【船橋市飯山満町】

上記神明幼稚園の前の道を歩いて行くと左側に大きな木が見えてくる。その下に鎮座している道祖神。正面の碑銘は擦れてしまってるが、奥に”鞋”奉納の札が見える。側面に寛延4(1751年)辛未歳とある。
(船橋市飯山満町町1-640東側付近)

権現社【船橋市飯山満町】

畑の中に鎮座。創立縁起、御祭神等不明。手水鉢は昭和、鳥居は平成のもの。



(船橋市飯山満町町1-650付近)

御嶽神社【船橋市前原】

延宝元年(1673年)、前原3ヶ村を開墾する時、上東野新助が大和国大峰山(資料によっては金峯山とも)から蔵王権現を奉遷した。木造蔵王権現三尊立像は県指定文化財にも指定されている。本殿は拝殿・弊殿・本殿が1体となった神明造風。神紋は「三ツ巴」。灯篭・狛犬は昭和、狛犬は大正のもの。境内社には水神宮をはじめ古峯神社・稲荷大明神・天満宮・大六天宮・妙正大明神・金比羅大権現など。
(船橋市前原東5-43-1)

八坂神社【船橋市中野木】

本殿流造、神紋は「三ツ巴」。手水鉢は嘉永4(1851年)亥年9月吉日、粉見ぬは昭和。灯篭は3対あって奥から文化4(1807年)丁卯歳9月吉日、明治期、昭和。狛犬は昭和のもの。鳥居は2基あり二之鳥居は昭和のもの。境内社には、松山大明神・稲荷大明神・古峯神社三峯神社等あり。旧村社で御祭神は八坂太神、創立は文禄2年(1593年)と伝う。
(船橋市中野木1-12-1)
 北側に隣接して富士塚があり仙元宮の祠(嘉永元年(1848年))あり。中野木川北岸の旧い家並みを歩いていると”藁で作った蛇”(辻切り)を門などに見る事ができた。

意富比神社【船橋市米ヶ崎町】

本殿覆屋内のため未確認。狛犬は明治期、手水鉢は文政4(1821年)巳歳3月吉祥日とある。灯篭は明治のものと文政10(1827年)丁亥8月吉日のもの。先に述べた手水鉢と年記の入れ方の違いが面白い。鳥居は風化激しく明瞭でないが○和3年8月と見える。境内社には熊野大明神、稲荷大明神、明照大明神など。
(船橋市米ヶ崎町332)

意富比神社【船橋市東町】

旧七熊村鎮守で旧村社。本殿神明造、内千木、鰹木5本。手水鉢は文政5年(1822年)閏正月と嘉永5年(1852年)4月吉日のもの。狛犬は大正期、鳥居は昭和、灯篭は平成のもの。境内社には稲荷神社・天満宮など。県神社名鑑では江戸時代の創建と推定している。
(船橋市東町802)

弁天水神社【船橋市東町】

覆屋は妻入形式で中には「弁財天」と「水神宮」の祠が見える。資料によれば、弁財天が寛政4年(1792年)と水神宮は弘化4年(1847年)のもの。鳥居は平成5年6月のものである。

(船橋市東町775北西方向)

天神社【船橋市東船橋】

元文5年(1536年)8月25日創立にしてご祭神は菅原道真公と伝う。本殿は神明造で内千木及び鰹木4本。子安大明神・疱瘡神社・秋葉神社などあり。狛犬は安政4(1857年)丁巳年9月吉祥日、灯篭は文政8(1825年)乙酉4月吉日、手水鉢も文政のもの。
(船橋市東船橋4-19付近)

茂侶神社  式内論社 【船橋市東船橋】  

社格は旧村社。ご祭神は”木花咲椰姫命”をお祭する。本殿流造、内千木・鰹木4本。神紋は「棕櫚(シュロ)」である。灯篭は大正期・狛犬は昭和のもの。石鳥居は不鮮明であるが文政3(1820年)庚辰歳霜月吉日と見える。境内社には子安大明神あり。末社として阿夫利神社(ご祭神:大山祇命・日本武尊)が本殿裏手に鎮座する。鎮座している場所の境内には松の大木が茂り広々とした所で旧地名を「砂山」、さらには「浅間山」と云い、国道14号線(旧房総往還)からみて高台の地にある。意富比神社別宮記には「茂呂神社は意富比神社六町東方の浅間山にあり式内社で意富比神社の摂社なり」と書いている。浅間神社の本宮は富士山本体であって、この茂侶神社の場所からは東京湾を挟んで富士山が良く見えたのであろう。市内に山野浅間神社、千葉市稲毛区の”稲毛浅間神社”も同様なロケーションにあると言えよう。
しかし、この茂侶神社は元々は浅間神社であった可能性が強い。鎮座地旧名の「浅間山」の他、ご祭神の”木花咲椰姫命”と神紋の「棕櫚」は浅間大社と共通しており、末社の阿夫利神社のご祭神大山祇命は木花咲椰姫命の父神であって、”江戸時代には富士山登拝の帰りには大山(阿夫利神社の鎮座地)を登拝しないと片参りとなると言われていた(日本の神様辞典)”程である。ではなぜ茂侶神社とする必要があったのか。個人的には意富比神社の意向が働いていたのではないかと思っている。延喜式には「下総国葛飾郡 小二座」の内、1社が意富比神社でもう1つが茂侶神社となっているのだが茂侶神社はいくつかの論社(候補社)があって明確でない条件のところに加え、手頃な社として浅間神社を茂侶神社として摂社としたらさらに格上となると考えたのかもしれない。式内社だけでも十分だと思うけど。

日枝神社【船橋市東船橋】

旧村社。本殿流造で外千木、鰹木3本。神紋は「二つ蔓葵の丸」とめずらしく、近郷では見かけない神紋である。境内社として青麻(あおそ)権現・疱瘡神他あり。狛犬は慶応3(1867年)丁卯歳12月吉日、手水鉢は文化4(1807年)丁卯年6月吉日、灯篭は昭和のもの。「万治2年(1659年)悪疫が流行、大山咋命をお祀りしたところ速やかに治まり、その年の3月20日に奉神した。」との伝承を持つ歴史ある社であるが拝殿手前の参道まで駐車場となってしまっている。
(船橋市東船橋1-3付近)

弁天社【船橋市東船橋】

旧字名”池ノ端”付近に鎮座しているが船橋町誌掲載の厳島神社(貞享3年(1686年)3月15日創立)とは同社のことか。市資料(五日市)には御祭神を田心姫命・市杵島姫命・多気津姫命としており、やはり貞享3年の大旱魃で雨乞い云々の記述がある。他資料によれば文化8年(1811年)と万延元年(1860年)の弁財天の祠あり。手水鉢は明治のもので、石鳥居は石碑によれば昭和49年のもの。公園内にあり。
(船橋市東船橋1-9付近)

道祖神社【船橋市東船橋】

旧無格社、ご祭神は猿田彦命。灯篭は昭和、鳥居は平成のもの。覆屋内に本殿がある様子。写真に見える銀杏の大木と覆屋後にあるタブの木の大木の間に鎮座している。
(船橋市東船橋1-31-10付近)

熊野神社【船橋市宮本】

意富比神社末社。伊邪那岐尊・伊邪那美尊をご祭神とする。本殿流造、瓦葺きで若干の彫刻物あり。古いタイプの本殿だが痛みが目立って来ている。通りに面した一ノ鳥居は昭和17年のもの。境内に自治会館(公民館)を立てたため参道を塞ぐ形になってしまってはいるが、鳥居から本殿を見ることができる作りになっているのは幸いだ。
(船橋市宮本6-27北側付近)

意富比神社(船橋大神宮) 式内社【船橋市宮本】

景行天皇の40年、日本武尊が東国御平定も折り、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照大神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。同53年天皇御自身が御東行、武尊の御功績を御追憾なされて「意富比神社」の称号を賜り、平安時代、延長5年(927年)に編纂が完成した延喜式にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を知ることができます。後冷泉天皇の御世、天喜年間(1053〜58年)には源頼義・義家の親子が当宮を修繕造し、近衛天皇の御世、仁平年間(1151〜1154年)には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝が之を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。鎌倉時代、日蓮上人は宗旨興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め曼陀羅本尊と剣を御奉納されました。(参拝のしおりより抜粋)
 由緒などをまとめると、『日本武尊が葛飾郡湊郷に渡り戦をしていた時に旱魃が続き疫病も流行った。尊は夏見の高天原に登り逆徒調伏と降雨を祈った。そして雨が降り人々が悦び合っているいる時に、海上に船が見えた。尊は鳶と云う人に命じて見て来させると船は光り輝き、尊自ら見れば捨船と見える中に神鏡があった。その神鏡が海より上がった場所を”海神”村という。この船を初めて見たのが夏の日だったので夏見という。そしてここに宮を定める事となった。その後、逆徒をを打ち払った頃に、老人に神がかりして「我は伊勢国五十鈴川の川上より天下る神なり。今より此処に我を祀って伊勢の神垣と等しく崇めるべし」と。尊はこれを天皇の報告すると伊勢神宮を朝日宮と崇めるのに対し、当宮を「夕日神社」の称号を賜った。そしてその年の新米を持って新嘗祭を行う。この新米を奉っ所を”米ヶ先”と云う。その後、この地に遷座したものである。古の神主は景行天皇第四皇子の子孫を下された。』と。また”神官富氏系図”では富氏(意富比神社神官家)の氏祖は景行天皇第四皇子、五百城入彦命で命を船橋に下向させ東国八十八村の県主兼当宮神官とさせた。仁平年間(1151〜54年)には、伊勢内宮神官家より荒木田基国を養子に迎え室町初期には千葉介満胤の子、基胤を養子に迎えたとある。神領は、高根村・米ヶ崎村・七熊村(現東町)・下飯山満村・金曽木(現金杉町)村・夏見村の6ヶ村に及んだ。(棟札裏書)
 その分布範囲は海老川流域に限定されており、その南部域は古代には大きな入江となっていたようにも思われる。どうもその領域が”船橋夏目御厨”として寄進されたものか。その船橋夏目御厨の実態が明確でない事など、意富比神社と神明社の関係にも注意を払う必要がありそうだ。

彦左衛門稲荷社【船橋市宮本】

海老川橋を東に渡って、川沿いに下ってすぐの場所に道に背を向けて鎮座している。木製の鳥居に神使の狐(左側欠)が見える見える。手水鉢は風化が激しく最初の「元」の文字だけが辛うじて判別できる。これを手掛かりにして資料を見ると元治2年(1865年)のものらしい。散策途中でこのような社を見つけるのが楽しみだ。
(船橋市宮本2-1付近)
『意富比神社末社 稲荷神社(五日市村字本宿) 船乗り業、鳥光秀五郎先祖、彦左衛門なるもの、常に稲荷を信仰その厚きあまり手船を稲荷丸と号し、時 明暦2年(1656年)9月某日、諸物貨多数を稲荷丸に搭載し江戸に向って出帆し、上総国鹿野山浦を航行中、台風吹き起こり水没せんとする危機に遭遇するや船主水夫一同、平素信仰する稲荷を祈念したところ幸いなるかな上総湾に漂着し一同無事上陸する事を得た。因って翌年4月現地に小祠を建立し宇賀之魂神外二神(稚産霊神・大己貴神)を合祭する。よって彦左衛門稲荷と呼称する。』と

稲荷神社【船橋市宮本】

海老川に沿ってさらに下流へ行くと朱の鳥居が目に入る。本殿前には狐が一対ちょこんと座っている。この船橋本町一帯は”稲荷銀座”と呼べるほど稲荷神社が密集しているようだ。江戸時代初期から御成街道造営と徳川旅館、元々湊があったのに加え一大商業地として繁栄したのだろう。江戸からの移住者などもあったのかもしれない。ともかくも近隣では見ることのできない多さだと云える。(船橋市宮本2-7付近)

稲荷神社【船橋市浜町】

船橋ららぽーと第6駐車場、三井ガーデンホテル迎賓館(喜翁閣)脇に鎮座。幟に「正一位伏見稲荷大明神」とあり、願主は”ららぽーとTOKYO−BAY”。神紋は「抱き稲」。

(船橋市浜町2-1-1)

厳嶋神社【船橋市本町】

旧無格社で御祭神は田心姫命・市杵嶋姫命・多気津姫命。本殿は切妻造で近郷では非常にめずらしい造りである。神紋は「三ツ鱗」で、手水鉢は明治、鳥居・狛犬は昭和、灯篭は平成のもの。参道入口は大通りに面しているが、裏側からの抜道となっていて結構人通りの多い社であった。
(船橋市本町4-35付近)

東照宮【船橋市本町】

徳川家康公が江戸入城以来しばしば上総東金に至りし故、この地に御通行の旅館を造営した。宝永4年この旅館が廃された。その御座所跡地に社を営んだのが始まりと伝う。ご祭神は、徳川家康公・徳川秀忠公の二柱。覆屋の本殿には「三ツ葉葵」の紋。鳥居と灯篭は平成、手水鉢は昭和のもの。
(船橋市本町4-29-12付近)

御殿稲荷社【船橋市本町】

上記東照宮の境内社なのだが、ほぼ本社東照宮と同じ大きさで鎮座。今年の初午の幟には「稲荷宝珠」の紋が見える。神使の狐は昭和のもの。この東照宮の参道を歩いて来ると、左側の白い鳥居と右側の朱の鳥居のコントラストが美しい。
(船橋市本町4-29-12付近)

御蔵稲荷神社【船橋市本町】

旧無格社、宇賀之魂神・稚産霊神・大己貴神。市史によれば「古老の言によれば、御蔵稲荷は寛永19年の飢饉以来幕府が各地に郷庫を造営し穀物をその中に納めて不時に備えた。当時、船橋には二庫があり延宝・享保・天明等の飢饉があったが二庫の為に餓死を免れた。それを恩に感じ社を営み倉魂神を祭る」とある。境内の灯篭・狛犬・手水鉢等はすべて平成のもの。また、由来と謝恩の碑が建立されておりその経緯などが記されている。
(船橋市本町4-31付近 公園西側)

道祖神社【船橋市本町】

旧無格社でご祭神は久那斗神(クナドとは”来てはならない”の意味)・道(之)長乳歯(ミチノナガチハノ)神、道中安全の意か?・八衢(ヤチマタ)神(八方向の辻の意)の三神であり、災厄の防御や道標など元々村境などの守護にあたる神々である。本殿北向き流造。神紋は「三ツ巴」。手水鉢は明治、灯篭は大正、鳥居は昭和のもの。境内社には三峰神社があり、大己貴神・少名彦神・日本武尊をお祭する。(船橋市本町4-38-29 図書館北側付近 )

乳沼開運弁財天社(天沼弁天)【船橋市本町】

JR船橋駅北口から200〜300mの所に「天沼弁天池公園」があり、その北東隅に鎮座している。元々は湧水の場所に建立されたものが、公園整備のため再区画されたものか。昭和27年再建の碑と手水鉢あるも年期不明。台座上の祠後(北側)に2基の祠があり。その内の1基には「永楽6年」とあるも不明。
(船橋市本町7-16)

猿田彦神社【船橋市本町】

京成船橋駅南側の大きなビル裏に鎮座する。拝殿入口の「庚申堂」と書かれている。元庚申講が神道系に分離したものか。石鳥居と手水鉢あり。
(船橋市本町1-7付近)

稲荷神社【船橋市本町】

本殿流造。灯篭は大正4年で火袋の窓は「稲荷宝珠」を模ったもの神使は本殿前にあるが年期等は不明であった。由緒には「寛政・享和(1789〜1803)の頃、森田屋善兵衛が京都の伏見稲荷神社の分霊を迎え、所有地に祀ったとも、大地主だった大森田家の屋敷神」とも云われるが御祭神は、「宇賀魂神・稚産霊神・大己貴神」とあるので元々は彦左衛門稲荷を分祀したか、伝承の通り伏見稲荷から勧請した後、彦左衛門稲荷の影響を受けた可能性がある。
(船橋市本町1-11-22付近)

日枝神社【船橋市本町】

本殿流造。神紋「三ツ巴」。ご祭神は大山咋神。狛犬は明治期、手水鉢は大正期と文政3年辰と見えるも不明瞭。境内社には稲荷神社・龍神社・水神社あり。境内は明るくてよく手入れがされている。
(船橋市本町1-21付近)
「昔から山王様と呼称されて土地の人々には産土神であり信仰の中心であった。明治初年頃神仏分離令により日枝神社と改称され、明治43年には村社となる。大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山水を司り、万物の成長発展、産業万般の生成化を守護し給う御神徳である。日枝神社の神使は神猿と云われ、夫婦円満・殖産繁栄の神とされ、特に安産子育に霊験あらたかでると云われる。」境内表示板より抜粋要約

弁財天【船橋市北本町】

長津川に注ぐ支流、公論坊公園内に鎮座。確か資料があったはずなんだが・・・・。


(船橋市北本町2-11付近)

片町稲荷社【船橋市海神】

海神片町公会堂にある鳥居と手水鉢。宇賀魂神・稚産霊神・大己貴神を御祭神とするも由緒不詳。
(船橋市海神1-812付近)

海神稲荷神社【船橋市海神】

社格は旧村社。本殿流造、周囲をトタンで廻してカバーしている。本殿扉前に年代物と思われる神使キツネ一対、青々とした榊が供えられており良く手が入っているのがわかる。
拝殿前の神使キツネは平成7年のもの。境内社はあるものの名称不明。
(船橋市海神1-22付近)
市史には、この社は名主彦左衛門屋敷の氏神であったもので、境内地も昔海岸であった砂地にあり海上守護神だと述べている。稲荷神は江戸時代に大いに流行した神様であり元来は秦氏の氏神、後に農耕神に転じさらに商工業や漁業などの神に転じた云わばオールマイティな神様である。、しかし本稲荷神社の御祭神は「宇賀魂神・稚産霊神・大己貴神」であるとされている。この宇賀魂神は元来の稲荷神であるが稚産霊神は穀物神、大己貴神は国土神であって、一般の稲荷社のご祭神としてはあまり見かけないものであるのだが、この近在にある稲荷神社のご祭神はこの「宇賀魂神・稚産霊神・大己貴神」をワンセットとした社が非常に多いのだが由緒等は宮本の「彦左衛門稲荷」を参照のこと。

入日神社【船橋市海神】

旧村社。本殿、神明造 内千木・鰹木5本。狛犬・灯篭・手水鉢は昭和期のもの。境内社に”山王大権現”あり。国道14号線の橋梁土手下に鎮座する。南側参道入口には”式内元宮 入日神社」の石標が立っている。
(船橋市海神3-7-8)
当町鎮守「式内元宮入日神社」は皇統第十二代景行天皇の王子日本武尊が東夷御征討の砌り伊勢湾方面より海路を利用し先ず上総の国に上陸 次いで軍団は上総の国を出帆せられ下総の国に入るに及んでこの地に上陸された。上陸地点は現在地に当ると伝えられている。その後村人によって日本武尊の上陸を記念し且つ、その御偉徳を偲び併せて郷土守護五穀豊饒、豊漁の神として社を建立し崇拝して来たのが即ち入日神社である。祭神が天照大神と日本武尊を祀り古くから船橋大神宮 意富比神社の元宮と言い伝えられている。(境内記念碑より)

船橋周辺古代海岸線想像図

古代の海進時の想像図で現在海面より6m程度上げた場合の想像図。海岸線周辺は実際は遠浅の干潟様の地形になっていたと思われる。東の意富比神社と入日神社の間は東京湾への開口部となっていた。伝承には「大雨が降り続き湊郷の半は大川となって舟橋を渡し、それより湊口を改め船橋と云う」とあり、船橋とは旧海神・九日市・五日市の3村で意富比神社と入日神社の間を含んだ地域と考えて良いと思われる。ただ実際は船橋駅〜意富比神社間は直線距離でも約800m程度あり、実際にあったとすればもっと短い距離であったのだろう。
 入江奥の東町と米ヶ崎には意富比神社(分社)が鎮座しており、これは縁起の通りに神領を表すものと考えるが、問題は入江西側の夏見周辺には、この分社が全く見られない事である。大神宮文書には、この入江を囲むように六郷(実際には六ヶ村なのだが)に神領があったとしているが、分布範囲からして誇大であるように思える。この地域は夏目御厨として伊勢神宮に寄進された地域であったのだが、この夏目御厨自体が領域や寄進者など詳しい事が判っていないので判然としないのだが神明社の分布から、ご祭神は同じ”天照大御神”であっても政治形態は完全に分離した”伊勢神宮領”と”意富比神社領”に分離していたのではないかと考えている。

稲荷社【船橋市海神】

海神交番のハス向かいの国道沿いに鎮座。御幣と扉に開けられている宝珠型の穴がお稲荷様を連想させるのだが、案の定中には神使の狐が見える。

(船橋市海神6-4付近)

稲荷社【船橋市海神】

国道から海神駅に向う道を少し入った駐車場脇に鎮座。神使の狐は平成9年他。朱塗りの木製鳥居は平成22年のもの。

(船橋市海神6-7付近)

稲荷社【船橋市海神】

国道に面したビルの裏にひっそりと鎮座。


(船橋市海神6-10付近)

稲荷社【船橋市海神】

船橋中央病院の駐車場脇に鎮座しており、朽ちた朱色の鳥居が立てかけられていた。


(船橋市海神6-11付近)

名称不明社【船橋市海神】

新聞屋さんの裏に鎮座しており、窓からは”龍神社”の絵馬と”丸に違い鷹羽”紋の幕が見える。構造物としては明治期の手水鉢が1つ置いてあった。通りがかりの方に伺ったのだが良く分からないと云う。
(船橋市海神6-13-19付近)

龍(りゅう)神社 (阿須波明神) 【船橋市海神】

龍神社は西海神の鎮守で大錦津見命を祀る 仏名を娑竭羅龍王という 阿須波の神ともいわれている 明治以前まで大覚院が別当をしていたと伝えられ 同寺の山号を龍王山と称する。万葉集巻二十に”庭中の阿須波の神に小柴さし 我れは斎はむ帰り来までに”の歌が伝えられている。境内にある小さな池には 弘法大師の石芋伝説などが残されている。(境内石碑より抜粋)
 本殿、流造。神紋は「三ツ巴」。境内社に古峰神社・八幡神社等あり。旧村社。大錦津見(オオワタツミ)命は伊弉諾尊 ・伊弉冉尊の間に生まれた、”海を司る”神様。地名の海神の名に相応しい神様である。さて問題は”阿須波の神”で本来は足元守護、転じて旅路安全の神になったようで、本社の海の神と無理にでも関連付けるとすると海路安全のためであったのであろうか。
(船橋市海神6-21-18)

弁財天【船橋市夏見】

鎮座しているのはちょうど海老川と北谷津川の合流地点で八栄橋の近くである。鳥居下に弁財天の祠が2基並んでいる。訪れたのは桜の時期で川面のに映った桜が綺麗だった。

(船橋市夏見7-8南側付近)

稲荷神社【船橋市夏見】

旧東夏見村鎮守で村社。本殿流造、神紋「変り包み稲」。狛犬天保14(1843年)卯1月吉日、灯篭(奥側)は寛政8(1796年)丙辰11月吉日、手水鉢は天保4(1833年)癸巳暦6月吉日とある。手水鉢にある”暦”とあるのはめずらしい。境内社には金刀比羅大神・妙正明神・浅間大神(富士塚あり)・塩竃社他。長福寺北西隣に鎮座。
(船橋市夏見6-27-16)
 神社明細帳によれば、御祭神は宇賀之魂神・稚産霊神・大己貴命の三柱となっている。稲荷神社でこれら三柱を御祭神とするものは船橋本町周辺には多く、どうも上記の「彦左衛門稲荷」を本源としているものの様で、船橋本町以外の近在では見たことが無い。本社も彦左衛門稲荷からの勧請か、また従来あった社に再勧請されたものの可能性もあるのではと思われる。

弁財天【船橋市夏見】

鳥居の左には小さな池、覆屋内には「水神社・弁財天」の祠。資料によれば大正4年のもの。


(船橋市夏見5-3北側付近幹線道路沿い)

大六天尊・道祖神【船橋市夏見】

左側の祠が「大六天尊」で右側の祠が「道祖神」。ただ道祖神側の祠は宝珠型の窓があるだけで中までは見る事ができない。ところが鳥居右側上部にお椀が掛けられており(写真だと赤い丸く見える部分)、道祖神信仰が生きている事がわかる。

(船橋市夏見2-6-9付近)

日枝神社【船橋市夏見】

旧西夏目村鎮守で村社。本殿流造、神紋は「二つ蔓葵の丸」。灯篭は各明治・大正・昭和のもが1基づつ、狛犬は明治と大正のもの。手水鉢は寛政元(1789年)己酉9月吉日。境内社は、金刀羅宮・三峯神社・稲荷神社・妙正明神・浅間大神(富士塚あり)などあり。写真は二之鳥居で藁で編んだ蛇が掛けてある。以下境内掲示板より「夏見、日枝神社は、土地を司どると云われる、大山咋神(オオヤマクイのかみ、又の名を山末之大主之神)を祭神とし、魔除けの神と信仰され、鬼門除け、交通・家内安全、商売繁盛、病気平癒、学業成就、安産、良縁等、すべて信仰することに因って成就されると云われております。当神社は山王様とも呼ばれ、伊勢神宮領の夏見御厨の中心地であったと云われていいる。又、神社の建立は不詳であるが、一説に因れば、日本武尊の東征の頃と云われている。毎年10月9日に年番氏子によって、新藁縄で、大蛇(龍)を造り、頭を伊勢神宮方向に向けて鳥居に飾り五穀豊穣を、祈る風習が伝承されている。(船橋市夏見2-29-22)
 船橋大神宮によれば夏見地区は初期の鎮座地として重要な地域であるが、現在では意富比神社・神明社共に見る事は出来ない。しかし、かつては本社の南側にある薬王寺と通ずる路傍に神明社があったが明治期に本社に移されたとの事であるのだが、今は掲示板にも県神社名鑑にも御祭神名すら出てこない状況にある。従って元々は神明社の扱い自体が大きくは無く、鎮守として日枝神社が選ばれたのであろうか。日枝大社の御祭神、大山咋神は東本宮の神様で元々は”比叡山”そのものを守護する神であったが、神仏習合によって大山咋神の本地仏は「薬師如来」とされた。先に述べた南側にある(夏応山)薬王寺の御本尊も薬師如来(秘仏)である事から、何らかの係りがあるのかもしれない。

笹塚稲荷神社【船橋市夏見台】

小学校を過ぎるとアパートの駐車場の中に朱色の鳥居と幟が見えるのだが、妙にアンバランスな感じがする。気が付くと駐車場のような解放感のある広い明るい場所に鳥居が見えるのがめずらしいからか。縁起由来は不明だがかつては”塚”があった由。明治期の”稲荷大明神”の祠あり。

(船橋市夏見台4-15付近)

前貝塚神明神社【船橋市前貝塚町】

由来には2説あって、享保元年(1716年)9月9日、正光山行伝寺22世の要秀院日了が創建したとする説(船橋市史他)と土地の旧家源右ェ門の守護神であったものが、後に村の産土神として崇敬されたとする説(県神社名鑑)がある。本殿神明造、内千木、鰹木4本。境内社には妙正大明神・三峰神社等あり。参道入口の灯篭は嘉永5(1852年)壬子年9月吉日、手水鉢は文政11(1828年)子歳8月吉日とあり。その他狛犬と二之鳥居が大正期、奥の灯篭は明治、一之鳥居が昭和のもの。(船橋市前貝塚町793)

八幡神社【船橋市前貝塚町】

何といっても本社の見どころは茅葺屋根の本殿である。これを見るだけでも参拝する価値あり。昔は殆んどが茅葺であったのだろうが現在は瓦葺か銅板張りになってしまっているのが普通。本殿流造、神紋は「三ツ巴」境内社は三峰神社・子安大明神など。狛犬は明治、灯篭は昭和のもの。手水鉢は弘化4(1847年)未正月とある。上記前貝塚神明社の末社。
(船橋市前貝塚町534)

道祖神【船橋市前貝塚町】

前貝塚神明神社の西側T字路の大木の下に鎮座。奉造道祖神とある。資料によれば延享5(1744年)のものか。ぶら下がっているのはお椀と草鞋(ワラジ)で、通常お椀は穴を開けて吊るし耳を治す祈願を、草鞋には足を治す祈願を込める。ただしここのお椀には穴が開いておらずお椀の高台部分に紐が巻かれていた。その他白井市などでは二股大根(子孫繁栄)を供えたものが多く見受けられる。(船橋市前貝塚町825付近)

諏訪稲荷神社【船橋市山手】     

旧行田新田村鎮守。本殿流造。諏訪(御祭神:健御名方富命)神社・稲荷(御祭神:倉稲魂神)の合殿。手水鉢は明治期、鳥居は昭和、灯篭は平成のもの。境内社に妙正大明神あり。この地は元下野牧の一部で江戸時代より開墾が始まる。開墾請人の田中氏(行徳)と福田氏(田尻)の本拠地名から一文字づつ取ったものが”行田”の地名となる。
(船橋市山手3-14-23)

山野浅間神社【船橋市西船】      

旧村社。本殿流造、内千木、鰹木4本。神紋、「三ツ巴」。境内社の諏訪神社・稲荷大明神・妙見神社・天満宮・藤森稲荷神社・古峯神社あり。石碑には、合祀として「小御岳神社 磐永姫命・里宮浅間神社 阿喜津姫命・御手洗之池 次郎太郎井戸神」とあり。灯篭は天保15(1844年)甲辰年4月吉日とあり。国道沿いにある一之鳥居から長い長い参道を登り拝殿へ、途中脇道から境内社と続く下りの坂道あり。(船橋市西船1-5-7)
此の神社、奈良平安時代から、山野浅間神社と称する一宇の祠は、駿河の国富士浅間社勸請で木花咲耶姫を奉祀して、縁結び、安産、子育ての神として近郊近在の尊詣頗る厚く、毎年七月一日の山開きには、お礼詣りの善男善女が列をなし登山参拝して大賑わいであったと伝え現在もその隆盛を誇っている。山野浅間神社の名が広く世に知られる所以である。爾来、嘉永三年(1850年)に神殿として造営され、昭和四十七年七月に増改築が行われ間口四間三尺奥行七間三尺に及ぶ新社殿となった。(境内石碑より抜粋)

稲荷神社【船橋市西船】

神使の狐は昭和54年(古い狐は昭和10年代のもの)、鳥居は平成15年。碑文には「昭和4年9月 元宮山林 8畝15歩 昭和14年10月建立 平成10年2月修復」とある。

(船橋市西船2-30付近)

名称不明社【船橋市西船】

左側の祠内に護符が入っているのだが「神」の文字し見えず、右手前奥には風化した祠があるが全く見えないため断念。右手前の手水鉢には”楓紋”らしきものが見える。

(船橋市西船4-16 みずほ銀行裏付近)

葛飾神社【船橋市西船】

旧村社、本殿流造、神紋は「三ツ巴」。手水鉢は明治期、灯篭・狛犬は大正期のもの。石鳥居は文化11(1814年)甲戌年11月吉日とあり。境内社には疱瘡神・大六天尊・日枝神社・羽黒神社・稲荷神社・鹽竈(塩釜)神社・天満宮あり。一郡総社の割には村社に合祀されたりしかも遷宮を繰り返すなど不可思議な点の多い難しい神社である。
(船橋市西船5-3-8)
 一郡総社 葛飾神社 祭神 瓊々杵尊・彦火々出見尊・熊野大神、由来 風光明媚景勝の地、勝間田の池(現勝間田公園)のほとり丘の上、熊野大権現の此の地に、大正5年1月13日一郡総社葛飾大明神と千葉県東葛飾郡葛飾村本郷141番地<現 船橋市文化財 西船六丁目葛羅の井戸>(昔葛飾大明神御手洗の井戸)の西側台地より此の地に奉遷奉斉し、熊野権現社へ合祀し村社葛飾神社と改称し現在に至る。(境内掲示板より抜粋)

道祖神【船橋市西船】

資料によれば天保9年(1838年)6月のもの。目を引くのは草鞋とお椀。草鞋は足の病に、お椀は耳の病への祈願らしい。お椀は底に穴を開けていくつか紐で通してあり祠の扉に吊るしてあるような状態になっている。今まで多くの道祖神を見たが二股大根以外に草鞋とお椀は初めて見た。隣家が八百屋さんになっており伺ってみると、やはり「足と耳の神様だよっ」と仰っていた。
(船橋市西船5-9-1付近)

妙見神社【船橋市西船】

旧村社、本殿流造。神紋は「九曜」。境内社に疱瘡神あり。狛犬・一之鳥居は昭和期、二之鳥居は明治期のもの。手水鉢は万延2(1861年)辛酉年正月吉日とあり。参道は東から西側台地に向って伸び、境内からは見晴らしの良い眺めである。
(船橋市西船7-3-30)
 御祭神:天之御中主神 神社の全面を北から南へ帯状に伸びる地域は、最近までは水田地帯、往古のは海からの入江で白砂青松、景勝の処で台地の上では古代から人々が生活していたと推察される。この地は昔から「寺内」と称し、西に「本郷」、東に「印内」と間近に各々独立した村落が形成されたのは、すでに鎌倉時代に遡ると思われる。印内は「院内」で寺院内の意であり、それぞれに別の寺領域の中心であった。御祭神は、古事記神代巻の初めに載る、天地創造・万物造化の祖神である。また北辰星宿を司る御神威により、妙見大神と奉称し、安産子育て、方除け、学業増進、生業繁栄の御神徳を有せられる。古来、下総国の豪族”千葉氏”の尊崇した神で、其の勢力が台頭した中世期に、此の里の鎮守として篤信の士により奉斎されたと考えられる。近年枯死した境内老松の年輪が500年余を示し、その経緯を裏付けている。この付近、二子・本郷・西海神等に元から妙見社の小祠はあったが、特に「妙見」を神社名として奉祀するのは当神社のみであり、そこに深い由緒の係わりが偲ばれるのである。(境内掲示板より抜粋)

古峰神社【船橋市西船】   

県道180号線寺内バス停付近、T字路角に鎮座する。左隣には小さな”馬頭観音”の祠がある。

(船橋市西船7-3-19南側付近)

春日神社【船橋市印内町】

内村の鎮守(旧村社)。本殿流造、神紋は「下がり藤」。千葉県神社名鑑によれば、御祭神は”春日大神”である。境内の灯篭・手水鉢は明治期のもの、狛犬は昭和初期のもの。境内社には古峯神社・山王大権現あり。参道入口は国道14号側にあり。

(船橋市印内町494)
 春日神社と云えば奈良春日山の春日大社を元宮として元来藤原氏の氏神であって、御祭神も天児屋根命(中臣氏祖)・武甕槌神(鹿島神宮御祭神)・経津主神(香取神宮御祭神)・比売神(姫神)である。鎮守としての春日神社を置く所は近郷から見ても極めてめずらしい。藤原氏族等の関わりなど興味が尽きない。

葛飾元宮【船橋市印内】

「奉勧請葛飾大明神」と見え、資料では天保10(1839年)11月吉日となっている。鎮座地は公園(印内1丁目公園)脇である。最初は葛飾の名に冠する地主神かとも思っていたのだが瓊々杵尊・彦火々出見尊であると葛飾神社由緒にあるので違うようであるし、かと云って鎮座地は高台では無くどちらかと云えば水神系のような低地に近い感じも受ける。
(船橋市印内1-7-22付近)

八坂神社【船橋市印内】

本殿流造、神紋「三ツ巴」。狛犬は昭和7年と天保7(1836年)丙申年6月吉日。灯篭は明治期、手水鉢は天保3(1832年)辰年6月吉日、鳥居は大正6年3月吉日とあり。境内社には若子大明神他。本殿裏手に「子宝・疫病(予防)の神様」として猿と雄・雌2体のご神体があり、股間に赤い朱を塗ることで願いがかなうと云われ筆と朱が置いてある。これは近隣では見られない極めて珍しいものである。境内は極めて広く、とても無格社(県神社名鑑では村社だが)とは思えない程。信仰の広さ、祭礼の規模など近世まで極めて盛んであった様子が偲ばれる必拝の社である。(船橋市印内2-7-8)
八坂神社創建の由来:この神社は江戸時代の享保年間(1716〜1735年)(八代将軍吉宗の時代)疫病が大流行したときに、同境内の真言宗豊山派の光明寺住職が京都八坂神社の分身を頂き創建され多くの人々を救ったと言われております。創建以来光明寺が神仏混淆の形で運営しておりましtが明治の初めに神仏分離令により光明寺と分離し八坂神社として独立運営することになりました。幕末から明治期にかけては村内の高中右衛門家が神主を務めており、その頃から霊験あらたかなご神徳により、信徒講中の数も増えてきたので、村内から世話人当番を出して関与することになって今日に至っております。昭和10年代の講社最盛期の記録によれば、信仰圏は東西4里、東は千葉市内、西は江東区辺りまで、南は行徳・浦安、北は松戸の在までに及び、講社の数は130余りありました。当時の祭礼期間中に清酒四斗樽22本、赤飯17表(1表60s)を消費したと言われております。(境内貼紙より)

大六天社【船橋市印内】

j神社明細帳には春日神社末社とある。小さな石造りの鳥居は平成13年、狛犬は明治23年、手水鉢は明治20年。本殿は覆屋内のため確認できず。手水鉢・狛犬・鳥居の作りは小型であるも、願主の方が少しずつ境内を整備して行った様子が伺える良い社の1つである。
(船橋市印内3-3-5付近)

八幡神社【船橋市印内】

碑文には平成12年9月吉日建立とある。資料にある印内町の文政8年の八幡宮の事か?
鎮座しているのは公園の隅で後側に大木が繁っている。

(船橋市印内3-26付近)

熊野神社【船橋市古作】

旧村社。本殿流造、外千木、鰹木3本。神紋「三ツ巴」。境内社には古峯神社等。一之鳥居は明治のもので手水鉢は文久元(1861年)辛酉年9月吉日とあり。当社は葛飾川に沿った中山競馬場のある高台に鎮座しており、往古は入江のような状態であったと思われ、下記の由来にも頷ける。
(船橋市古作3-7-1)
熊野本宮大社は熊野三山の首座であり御祭神は、家津御子大神即ち素盞嗚尊であり歴代朝廷の崇敬極めて深い、早くも海洋渡航術を会得したこの地の先住者たちは黒潮海流を利して各地に雄飛し国土を拓いた。「古伝によれば既に鎌倉時代には、白砂青松に入江景勝古作の地に来住あり熊野大神を奉斎して土地の住民とも和合御神恩の下、営々として生業に精励幾星霜今日よくその繁栄を築いた。(境内由来の記碑文より)

弁財天【船橋市古作】

古作町南公園に鎮座。参拝当時は本殿、鳥居共真新しかった。


(船橋市古作4-9-1付近)

道祖神【船橋市古作】

内科医院の隣に鎮座。資料によれば天明7(1787年)のもの。


(船橋市古作3-7-10付近)

羽黒神社【船橋市東中山】

旧二子村鎮守にて社格は村社。本殿神明造、内千木、鰹木5本。境内は広大で境内社には摩利支天社・天神社・妙見社・熊野社の4社が拝殿前に並び、本殿裏手には水神宮・妙護大明神(不明確)・浅間神社などあり。手水鉢は明治、鳥居は昭和のもの。御祭神は県神社名鑑では”羽黒大神”、葛飾町案内には”倉稲魂命”、神社明細帳でも”倉稲魂命”である。由緒不詳であるが「古来出羽三山の信仰が厚く定期的な講社参りの風習あり、その縁によって江戸時代末期の創建かと思われる」と県神社名鑑にはある。

三峰神社【船橋市東中山】  

かつては眼下を見下ろせる絶景のロケーションにあったと思わせる場所に鎮座。旧二子村は房総往還(国道14号)沿いに発達した村であってその高台に社を置いたのだろう。

(船橋市東中山1-12-12付近)

稲荷神社(城のお稲荷さん)【船橋市本中山】

旧村社。本殿流造、神紋は「抱き稲」。ただし下記の子之神社参道入口にある稲荷神社の神輿庫には「稲荷宝珠」紋あり。鳥居は明治、神使の狐、灯篭(小)は大正、参道入口付近の大灯篭は昭和のもの。手水鉢は安政6(1859年)己未歳9月吉祥日とある。本殿裏手に”狐塚”(昭和4年建立)があり健康長寿・ボケ封じに霊験ありと云う。この城(じょう)と云う地名に付いて城郭に関するもの、造り酒屋の名とか諸説あり(船橋市本中山1-2-16)
千葉県神社名鑑には、「鎌倉時代にこの地に”城”という酒造家があって、家の守神として屋敷内に稲荷神を奉斎されていた。村人に御神徳を敬仰され、社日には市をなした。そこで家人は村人と恩頼を分かとうと同祠を境内地と共に村に寄贈し今日に至る。この酒造家は今はないが、稲荷祠は「城の稲荷さん」として親しまれている。別資料では”石井孫左衛門”家氏神を祀ったものとも伝わる。

子之神社【船橋市本中山】

幕末までは村の鎮守であったが、明治以後は上記稲荷神社と変わった。御祭神は大己貴命である。神紋はあるようだが不明。花弁のようにも見えるのだが。鳥居は昭和のもの。

(船橋市本中山1-4-7付近)

妙見八幡神社【船橋市本中山】

元は斉藤善右衛門家の屋敷神を昭和10年に村持ちとしたと伝わるのは上記子之神社と同じ。神紋は「七曜」。ここの鳥居は昭和のもの。

(船橋市本中山1-4-7付近)

大宮大権現【船橋市本中山】

中山法華経寺参道入口、妙円寺境内に鎮座する大宮大権現。妙円寺の開山は寛文10年(1670年)とされておりそれ以後の創建か。

(船橋市本中山1-8-10)

天神社【船橋市本中山】

本殿は覆屋内にて未確認、神紋は「梅鉢」。鳥居は平成5年、狛犬は平成8年のもの。本殿脇に神使の牛が寝そべっている。入口の標石には”葛飾天満宮”とあり明らかに御祭神に菅公(菅原道真公)を御祭神としている様子であるが、神社明細帳では御祭神を天神・地神としており、元々は菅公では無かったようだが、明治から現在の間にどうやら混合した様子である。
(船橋市本中山1-9-5付近)

高石神社【船橋市本中山】

本殿流造、神紋は「三ツ巴」。手水鉢には嘉永7(1854年)甲寅2月吉日とある。元禄の頃(1688〜1704年)現市川市の高石神村の石井兵庫により新田として開墾され、その高石神村鎮守である高石神社の分祀であると思われる。御祭神は神功皇后。以下市川市高石神神社の縁起を記す。
(船橋市元中山7-17-13付近)
市川高石神社縁起:社伝に、南総大多木城主正木内膳亮時総が故あって奇石を得、これを祭ったので高石神と称したとある。また往古、鬼越村と一村であったが、分村して神号を村名としたという。本社の創建年代は不詳であるが、「中山法華経寺文書」永享3年(1431年)12月24日の条と「折伏正義抄」永享10年(1438年)の条に当社の記載あり、その創建はこれ以前である事は分明である。(千葉県神社名鑑)*千葉県地名辞典には”正木大膳亮時綱”とされている。