下総の神社   <習志野市の神社>


八幡稲荷神社【習志野市実籾】

創立年月不詳なれど古書に曰く、「往古早昧の時代、千葉氏の残党実籾字本郷に来り、又古河御所の余党実籾字八幡前(三山大須奈地より印旛沼に通ずる水田付近)に竄入し八幡社を建立、再起戦勝を祈願せり云々」とある。千葉氏三代常兼の時、1107年千葉氏一族に内紛抗争起こり猪鼻城に住むを潔しとしない将兵が野に下り、実籾本郷に住み農耕を営み大宮・大原神社を創立した。その後当八幡前には下総古河に関係ある千葉氏一族が猪鼻城や千葉の町を灰燼にした(西暦1450年)前後に住みつきこの八幡宮を創立し再起戦勝を祈願したと伝える。
明治時代以降第15師団臨時駐屯しこの神社の丘を平坦にせしむと崩し始めるや怪我人続出、遂に工事長高熱を発し仆れる。さすがの陸軍省も神罰を恐れ軍の管轄より除外せり。師団内歩兵第五十八連隊第一中隊長信仰心厚くよく兵と参拝したが後年越後高田へ移駐と決定、八幡宮は連隊発祥の地なるを故となし守護神として高田連隊に遷宮す。然るに連隊内悪疫流行し連隊長大いに心痛す。或る夜稲荷夢枕に立ち「旧の御座に還りたき」とのお告げあり急遽北陸より着剣武装護衛のもと還御せり。されば猛威を極めた悪疫もたちまち霧散し一同改めて御神霊の尊さに戦慄したという。為に五八稲荷稲荷の称は今日にも及ぶ。明治43年4月土地・立木を本社大原神社に譲与合祀された。(境内掲示板より抜粋要約)(習志野市東習志野2-6付近)

道祖神【習志野市実籾】

京成電車の窓からも見える真新しい道祖神。平成16年に改修され、元は寛政3(1791年)9月吉日のもの。習志野市域に於いて道祖神は、八千代市などに比べ少ないように思える。
(習志野市1-7-10付近)

大原大宮神社【習志野市実籾】

「この神社は伊勢神宮御祭神の天照大御神の親、イザナギ大宮父・イザナミ大原母の2神が祀られている。天治元年(1124)実籾本郷に創立され門前を通じる徳川家康公のお成街道完成と共に現在の場所に遷座されたのが文禄元年(1592)である。御祭神が男女2柱の為、遠い昔から縁結びの神として広く知られている。」(境内掲示板より抜粋)本殿流造。神紋は「三ツ巴」。狛犬は明治のもの1対と昭和のものが2対ある。灯篭も昭和期のもの。境内社は浅間大神・御嶽神社・子安大明神など。さてこの大原大宮神社に付いては、地名辞典では、「元は大原神社で実籾本郷の大宮神社を合祀、文禄2年(1593年)創建と伝える。」とあり、また習志野市史では「明治41年上宿の大宮神社を合祀。」としている。(習志野市実籾1-30)
 幕張町誌に記載あり。
 大原神社、文禄元年(酉)2月15日下総国香取郡岩部村住人、紀伊本和泉末孫平直室均庸●●(虫食)大工平山源次郎をして字新道の高台に建立す。境内には末社あり。神威崇厳を極む。
 大宮神社、字東堀込にあり社殿は遥かに大原神社より形状色澤共に古色蒼然たるものなりき。創祭年月不詳なり、天御中主命を祭る。明治40年大原神社に合祀す。

大宮神社【習志野市実籾】

実籾本郷公園駐車場のすぐ東側、新しい宅地造成地上に鎮座している。大原大宮神社の項にあるように、合祀した神社をわざわざ再度鎮座(分祀したかは不明)させたのかは不明であるが、鳥居や石盤などには企業名が入っているので、宅地造成関係の企業によるものなのかもしれない。(習志野市実籾本郷12付近)

蔵王権現【習志野市実籾】

公道から写せる範囲で・・・。
(習志野市実籾本郷9付近)

妙見社【習志野市実籾】

鎮座している実籾本郷の台地は、東側に花見川、西側に浜田川に挟まれた地域で南側には、武石城や馬加城など千葉氏系の大規模な城跡がある。妙見社の鎮座地も実籾城跡とされている場所で、千葉氏城跡の定石通りであるとも云えるのだが、残念ながら由緒等に付いては明らかではない様子である。参道は個人宅の裏庭から続いているようで階段下に鳥居がある。(習志野市実籾本郷17付近)

天満宮【習志野市実籾】

正面にかろうじて「天満宮」と読める。それ以外は風化のため判読不能。
(習志野市実籾本郷15-18付近)

天津神社【習志野市屋敷】

当天津神社は天之御中主之大神さまを祭神として、これは屋敷の里に御鎮座は古く600年の昔の事と言われている。御鎮座年代は詳らかではないが神社の古書に記されている御事蹟によりますと、往古幕張の庄に人皇50代桓武天皇の皇子一品式部郷(卿カ)葛原親王の後胤千葉介平常胤の子息胤信公城主となり、その子孫幕張の城主、陸奥守平康胤の時代、領主の居城普請中幕張台の(古代よりお屋敷台と言われていた)現屋敷町に居住することになり、それ以後この地を馬加屋敷と称された。平康胤公は敬神の念厚く屋敷の里に天津神社を造営、天之御中主之大神さまを勧請奉斎されたものであります。以後屋敷(町)の守護神として領主住民の崇敬を集め御神威を今日に伝えています。(境内掲示板より)
本殿は流造。神紋は「九曜に月星」。灯篭は萬延元年(1860年)申12月吉日と昭和55年のもの。狛犬は大正期。境内社は浅間神社・疱瘡神他。市史によれば妙見菩薩を祀ったのが始まりで、江戸時代に「天津神社」と改称したと云う。(習志野市屋敷3-12-20付近)

名称不明社【習志野市屋敷】

天津神社参道の鳥居と向い合う様に鎮座している。付近の方に尋ねたが名称不明。
(習志野市屋敷3-14-4付近)

庚申塔【習志野市屋敷】

天保・元禄・明治の庚申塔。裏にもう1基あったような・・・。
通りに面した目に付き易い場所に鎮座している。バス通りの幕張本郷方面に向かって左側。
(習志野市屋敷5-4付近)

青面金剛【習志野市屋敷】

石鳥居の奥、木の根元に青面金剛の石祠が鎮座。年記不明だが”馬加村”と見える。
(習志野市屋敷2-11-27東側付近)

松山正光稲荷神社【習志野市大久保】

明治32年、大久保に騎兵第13・14連隊(騎兵第一旅団:近衛師団所属)及び同15・16連隊(騎兵第二旅団:第一師団所属)が設置された。4個連隊(3000〜3500程度か)もの人員が集まった為、現在の大久保商店街の西側に「松山通り」があって被服・雑貨・旅館などで賑わっていたと云う。境内碑文によれば明治45年に遷宮。習志野市史によれば「旅館「松翠館」の敷地にあった稲荷社は実籾から移した」とあるので当社かもしれない。ちなみに松山稲荷はその松翠館の裏手にあたる。手水鉢には大正3年11月吉日とあり。(習志野市大久保3-8-5付近)

誉田(こんだ)八幡神社【習志野市大久保】

延宝年間(1673〜1681年)、豊臣方の武将 一角頼母氏が一族郎党と共に当地に移住する際、河内国古市郡誉田村(現大阪府羽曳野市)に鎮座する誉田八幡宮の分霊を守護神として奉祀したのが始まりである。(境内掲示板抜粋)当初、奉祀された地は船橋市夏見であったが農耕に適さずとして藤崎の田久保氏の教えにより元大久保(現富士見公園)に奉還、その後さらに現地に遷座した経緯を持つ。境内社には稲荷神社・天満宮・三峯神社・金比羅神社・春日神社・疱瘡神社等がある。灯篭は文久元年(1861年)辛酉歳8月吉日、狛犬は嘉永6年(1853年)癸丑8月吉日とある。本殿流造、神紋は「三ツ巴」。境内は広く、北側は八幡公園に接しており、参道入口は東金街道側にあり神社の看板が設置されている。看板には”こんだ”をルビまでふってある。
本宮の大阪府羽曳野市の誉田八幡宮は、応神天皇陵墓のすぐ南側に鎮座する神社で、欽明天皇(539〜571年)の勅願により御陵前に社殿を建立し、八幡大菩薩を勧請したと伝えるもので八幡神社のご祭神は、誉田別尊=応神天皇なので極めて明快な神社と言える。神社そのものの歴史をこれだけ明快に伝える社もめずらしい。(習志野市大久保4-4-27)

八剣神社【習志野市鷺沼】

根神社の台地の谷筋を越えた東側台地上にある神社。祭神は日本武尊・素戔鳴命。毎年春になると「剣」と呼ばれる神事があり剣と榊を持った氏子が家々を廻って厄除けをする。菊田神社古記録に「八剣社は鎮座以来の末社なり、往昔は鷺沼邑の畑内未明之台と云う所に社有し」とあるが本社との関係は不明。本殿は流造で神紋は不明。手水鉢は文政3年(1820年)灯篭は同6年。境内社には稲荷社の祠が数多く集められており、これだけの数の稲荷社が集まっているのもめずらしい。根神社末社、習志野市史によれば創建は江戸時代前期とする。境内社、古峯神社他(鷺沼3-14付近)

粟島神社【習志野市鷺沼】

八剣神社南側の崖上に鎮座、子供の頃はこの下の先が海だった。写真の拝殿裏に石祠がある。小型の手水鉢には大正8年広瀬〜と入っている。小学生のころからお堂だとばかり思っていたのだが神社であったとは・・・。
あれから30年経過してもここらへんはあまり変わらない。(鷺沼3-16付近)

根神社【習志野市鷺沼】

祭神は面足命(オモダルノミコト)・惶根命(カシコネノミコト)・素戔鳴命・猿田彦命。鷺沼小学校の南数十mに位置している。創建不詳なれど承平年間(931〜937年)とも伝わる。現在は森の手入れが行われ明るい境内になっている。神紋は九曜紋が本殿と手水鉢に入っている。手水鉢は嘉永4年(1851年)で「享保七年奉造立」との棟札が残っており、鷺沼地域の産土神として代々崇敬されている。本殿流造。子供ころ参拝に来た近所のおばあちゃんに「根神社の神様は寝ていたので七年祭りには参加しないのだよ」と聞いたことがある。(鷺沼1-8付近)

名称不明社【習志野市鷺沼】

調査中

八坂神社【習志野市鷺沼】

小学校に通っていた40年程前から気にはかかっていた。だけれども扉の開いているのを見たことはなくお堂か神社かは判らなかった。今回、付近の方に伺って社だと判った。
(習志野市鷺沼3-9-8付近)

庚申塔【習志野市鷺沼】

鳥居奥の覆屋には庚申塔が鎮座している。

(習志野市鷺沼3-5-25付近)

名称不明社【習志野市鷺沼】

鷺沼霊園を下って国道14号沿いのパン屋さん隣の駐車場内に鎮座。正面は風化して読めないが基台の上に首の無い神使が置いてあるので稲荷祠かとも思える。
大正元年11月とあり。

(習志野市鷺沼3-20-4付近)

源太宮【習志野市鷺沼】

鷺沼城址公園内の古墳墳丘上に鎮座する。千葉郡誌には「正応年間(1288〜1292年)鷺沼源太光義の居城にして墓」と記述がある。公園内の碑文には「今を去る600年前正応年間、伏見天皇時代、市川城主里見氏及び源太氏を始め下総十有城主一団となり北条氏康と戦い遂に利あらずして戦死す。」とあるも時代的整合性が合わない。平安末期の”鷺沼旅館”(吾妻鏡)の他、鷺沼源太光義、同満義、鷺沼兵庫など散見される。石祠は明治13辰2月吉日とあり。
(習志野市鷺沼1-9-13鷺沼城址公園内)

樋ノ口弁財天【習志野市鷺沼】

 国道14号線鷺沼一丁目交差点南側に鎮座する。中ノ島状に整備された境内に灯篭(昭和5年4月吉日)・手水鉢(大)平成7年・(小)大正15年と覆屋内に石祠が座している。昔よく連れてきてもらった「鷺沼温泉」の裏手で、その頃はたしか海苔を扱うの会社があったような記憶があるのだが。
(習志野市鷺沼1-14-28付近)
 江戸時代末期から昭和の初めまでこの辺り一帯は”樋ノ口”と呼ばれる美しい海辺でした。私の母(略)の少女時代には、菊田川の清流がそそぎ水車の音が聞こえ蜆貝が獲れ豊かな湧水が村人の生活を助けたそうです。特にこの樋ノ口弁財天の湧水は眼病に効能があり、大勢の人達が弁財天の水を求めて集まりました。また弁財天のそばには”お主さん”と呼ばれる二匹の白蛇が住んでいて村人を守っていました。しかし戦後の土地開発や海浜の埋立てで”お主さん”も姿を見せなくなり、弁財天のことも忘れ去られました。(以下略):境内碑文より抜粋

菊田神社【習志野市津田沼】 (七年祭り参加社)

本殿流造、外削千木、鰹木5本。神紋は「菊に四ツ割中陰菱」。御祭神は、大己貴命・伊弉諾命・大山祗命・保食尊・水速女命。境内は広く背後には菊田川のなごりの池が整備されている。近くの幼稚園に通っていた昔には周囲に田圃が広がっていて、大雨が降るとすぐに出水した。境内社には金毘羅神社・子安神社・大杉神社・稲荷神社など。初詣にも行った記憶もある。参拝当日は七五三で賑わっていた。(習志野市津田沼3-2-5)
古伝によると久久田大明神と称して弘仁年間頃(810年頃)より御社として祭祀されてありました。治承年間(1177〜1181年)には藤原師経、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来たりてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。 即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の所と定めることとし、同時に祖先の人皇60代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉斎崇敬しました後に師経の一族はこの三山の郷(現在の二宮神社の鎮座の地)に移住したと伝えられています。(境内掲示板、要約抜粋)
 当社安鎮者、往昔何礼の時にかありけむ、大己貴命齋祭なり、その後治承5歳(1181年)辛丑夏4月、藤原師経卿罪有て、当国へ左遷時、御船久々田浦に着き給う。御船の居れる地名を円田と云う。今、宮田と云うなり。後世神祝田となる。師経卿は神山に止まり住み給う。今、神山明神是なり。久々田社者、初めて着き給う旧跡なれば、御先祖藤原時平公を7歳に一度の大祭礼は社記云々。治承5年辛丑鎮座神主 神主植草兵庫藤原義忠末孫云々(習志野市史菊田神社古文書より)

第六天神社【習志野市津田沼】

倒壊しかけた本殿に面足(おもだる)尊・惶根(かしこね)尊・大山祇(おおやまずみ)尊と記した額が置いてある。面足尊・惶根尊で神代六番目にあたる夫婦神で第六天神社を指す。大山祇尊は、その名の通り「山の神」であるが、三島大社では山海の神としている。一部資料によれば、大正時代の終わりの現在地に遷座、海の守護神としてとあるので、こちらを指しているのかもしれない。手水鉢は文政4(1821年)巳歳、鳥居は安政2(1855年)卯歳6月吉日とある。境内社には稲荷神社と昭和20年9月吉日の第六天神社の祠がある。(習志野市津田沼7-3-26付近)

第六天神社【習志野市津田沼】

津田沼小学校裏の高台に鎮座している。小さな狛犬は明治28年のもの。覆屋の中に祠が見る事ができる。
(習志野市津田沼4-584-1)

牛頭天王宮【習志野市津田沼】

牛頭天王とは一般に素戔嗚(スサノオ)尊のことで本地垂迹説では薬師如来が本地仏である。牛頭天王は本来、須弥半腹の豊饒国王武塔天王の太子であって神道・仏教・陰陽道などの影響を受けた複雑な神様でもある。京都八坂神社のご祭神でもあるが、防疫の神様として中世以降急速に広まった神社でもある。元々は個人宅の氏神様であった由。鎮座地は京成津田沼駅から南西側直ぐ。電車からも見ることができる。(習志野市津田沼4-10)

八坂神社【習志野市津田沼】

八坂神社と稲荷神社の相殿。手水鉢は大正10年11月。明治30年代に埼玉県羽生よし堀越久太郎氏が移住し同40年代に津田沼駅前の前原地区に稲荷様を祀った。大正末期に地元民が八坂神社を奉斎して、名称を八坂神社に変更された。津田沼駅前北口の区画整理により現在地に遷座した、元は船橋市前原西。本殿正面に向って左側に八坂神社、右側に稲荷神社をお祀りしている。(習志野市津田沼1-511-89)

子安神社【習志野市藤崎】

ご祭神は「速須佐之男(ハヤスサノオ)命」と「奇稲田姫(クシナダヒメ)命」の夫婦神二柱をお祀りする。境内碑文によれば高倉天皇の御代、治承4年4月創建とある。本殿流造、神紋は「三ツ巴」。狛犬は天保4(1833年)巳歳9月吉日とある。昭和57年再建。幼稚園の時の友達がこの神社脇に住んでいて遊びに行った思い出があるのだが、その時の神社は本殿のみの小さな神社であったような記憶がある。(習志野市藤崎1-4-9)

丹生神社【習志野市谷津】

御祭神は丹生都比売(ニウツヒメ)神で、和歌山県伊都郡かつらぎ町に鎮座しております丹生都比売神社の一宮の御祭神の御分霊を江戸時代の承応4年(1654年:原文ママ)に勧請されこのところに奉斎されております。以来、此の神社を谷津の守護神として先祖代々敬神の念篤く護り伝えられて今日に至っております。丹生都比売神は別名、稚日女(ワカヒルメ)神と申しまして天照大御神の御妹神とされております。江戸時代末期に伊弉冉尊を合祀。本殿は文化8年(1811年)再建。(境内掲示板、要約抜粋)本殿、流造、内削千木、鰹木4本。神紋、三ツ巴。手水鉢は天明4辰11月吉日。境内社には妙見神社・目守神社・八坂神社・稲荷神社・水神宮など鎮座。(習志野市谷津1-23)