香取の神・鹿島の神

香取神宮

御祭神:経津主大神(フツヌシノオオカミ)又の御名を伊波比主命(イハヒヌシノミコト)
御事歴:大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島の大神と共に出雲国の大国主命と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、さらに国内を御幸して荒振る神々を御平定され、日本建国の基を御築きになり、また東国開拓の大業を完遂せられる。
御神徳:古来国家鎮護の神として皇室の御崇敬最も篤く、特に「神宮」の御称号を持って奉祀され、名神大社として下総国の一の宮である。一般からは産業指導の神、海上守護の神或は心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されている。尚、その武徳は平和、外交の祖神と敬われ、勝運の神、交通安全の神、災難除けの神として有名である。
御社殿:宮柱の創建は神武天皇御宇十八年なる由、香取古文書に記されている。
(香取神宮社務所発行 香取神宮御由緒より抜粋要約)

香取鹿島は古代ジブラルタルか?

現在の霞ヶ浦・利根川・鬼怒川・印旛沼・手賀沼などを含む一帯は古代には「香取の海」と呼ばれていた。その香取海の出入口を南北から制する位置に香取鹿島の神宮が鎮座している。
 地中海の出入口にある要塞、ジブラルタルとセウタの関係によく似ているのではないかと思える。よく香取鹿島神宮は東国開拓また陸奥開拓の礎となったとも聞く。しかし地図上に落してみれば、香取海の出入口を制圧し海上交通を掌握する、とても大事な位置にあるのではないかと考えざるを得ない。
 東国陸奥開拓以前の役割として香取海制圧そして守備のための要塞だったのかもしれない。


1)経津主神

 御祭神である経津主神は、その出自から見ても特色のある神様と言える。日本書紀には見えるが古事記には登場しない。また、その内容も鹿島の建甕雷神と重複もしくは混同されがちであって、建甕雷神とは同一神とされる見方や中には兄弟とする説もある程である。
 記紀の記述にしろ現場の香取神宮(鹿島神宮もそうなのだが)も中臣氏(藤原氏)の圧力がかかっているのは確からしく、特に春日大社創建以降、つまり中臣氏の祭祀権が中央で確立するにつれ、神宮のそれまでの役割からおおきく逸れてしまっていったと思われる。
 本HPでは、この問題に深入りはしないが興味深い点を下図に掲載する。



2)香取神領と大戸神社


 鹿島神宮の神郡が海上国造及び那珂国造の領地を割いて建郡したことは先に述べたが、香取神宮の場合はどのようであったのであろうか。香取郡の東に下海上郡、南に武射郡、西に印波郡が位置し、太田亮氏は「日本古代史新研究」の中で「香取郡も(鹿島と)同じく多氏支配なりし印幡国の地を割いたらしい。」としているが、その場合、印波郡がとてつもなく巨大な郡となってい不自然さが残ってしまう。印波郡だけではなく、下海上郡、武射郡をも割譲して建郡したと考えるのがよさそうである。
 その印波の多氏との関連を思わせる社が大戸神社である。香取神宮の摂社(江戸時代までは第一末社)であり大戸を大生と捉え、印波の多氏の流れとする。鹿島の大生神社のような直接香取神宮鎮座との関わりを思わせる伝承は無いのだが下総の地で香取鹿島の社と多氏との関わりを考える上でポイントとなる神社である。

大戸神社

香取市大戸字宮本に遷座されており、御祭神は「天手力雄命」(あまのたぢからおのみこと)である。社伝によると、12代景行天皇40年、日本武尊が東征の時、蝦夷征討祈願のため現在の香取市大戸の地に勧請し、幾度かの遷宮(同地区内)の後、36代孝徳天皇白雉元年(650年)現在の地に宮柱造営されたと伝わる。江戸時代までは香取神宮の第一末社(明治時代摂社)であり、応保2年(1162年)の大禰宜譲状に「末社大戸神主」等と記録のあることから香取神宮の付属社でありました。(大戸神社の沿革および御由緒から抜粋要約)
神紋は左三ツ巴。境内は非常に良く整備されており拝殿には、お手製のパンフレットが置いてありとても親切な印象を持った。


3)香取神官家、香取氏


 香取宮司家を代々世襲しているのが香取氏であるが、元は経津主の神裔を称していたが五百島の時に中臣家から養子を迎え入れ、以後香取氏を改め中臣朝臣の氏姓となる。つまり経津主(物部)系香取氏から中臣氏へと宮司家が交代し、鹿島神宮と合わせて中臣氏の支配権が確立していったと思われる。

 香取神宮家の香取氏は中臣氏に替わったが、印西地域では現在各宗像神社の神職に香取姓が見られ、大森・平岡両鳥見神社への古文書にも神官名に香取姓が見られる。この古文書は寛永13年に卜部朝臣兼里から発給されたもので「下総国印旛郡印西庄大森郷鳥見大明神、平岡郷同社、両社之神官香取紀伊守信重〜」(房総叢書)となっている。
 一度、香取さんからお話を伺ってみたいと思っている。
 

4)側高神社と香取社の分布


 香取神宮から東の大戸神社に対して西側に側高神社が鎮座している。場所は利根川沿いの国道を東に進むと東関東自動車道の高架のすぐ下に大きな看板が出ている。香取神宮第一の摂社として香取郡と海上郡境に鎮座していることは注目に値する。

側高神社

この神社は香取神宮第一の摂社であり、古来より永く崇敬されてきた。本殿は一間社流造、屋根は現在銅板葺であるが元は茅葺。主屋正面及び側面は切目縁、はね高欄。組物は連三斗、軒は二重繁垂木である。向拝部分の彩色文様や蟇股内部の彫刻には桃山建築様式の特色がみられる。(境内掲示板抜粋)創建は神武18年とも伝わる。
建保2年(1214年)から始まるとされる「鬚撫祭」は五穀豊穣・子孫繁栄の御祭として有名。
神紋は十六菊と五七桐。境内には「四季の甕」と呼ばれる吉凶を占う4個の甕がある。

 この側高神社の御祭神は、千葉県神社名鑑では「側高大神」、香取郡誌では「高皇産霊尊・神皇産霊尊・天日鷲命・経津主命他」とし、また各地に分祀された側高神社の御祭神は「側高神」・「高皇産霊尊」・「彦火火出見命」・「高木神」・「日本武尊」とバリエーションに富んでいるが、実は御祭神は古来より秘匿されており明らかになっていないのである。
 側高神社の有名な伝承に、「香取の神の命により陸奥より馬2000匹を捕えて戻ったところ陸奥の神が追いかけてきた。そこで側高の神は潮干珠で潮を引かせ、馬を下総の地に渡らせた。馬を渡し終えると今度は潮満珠で潮を満たし、陸奥の神が追い付けないようにした。」と言う。
 この側高の神は香取神宮より古い在地の神様であったとも言われている。香取の神は、在地神の側高、多氏の治める大戸の地の上に新たに征夷の為の基地の役割を担って創建されたのかもしれない。

 この香取神社と側高神社は下総国内に広く分布しているが、明らかに鳥見・宗像・麻賀多神社の分布圏とは重ならない。側高神社は印旛郡東部に集中するが中部東部には分布が無く、地図上には示されていないが印波郡を越えて東の松戸市や埼玉県吉川市に分布している。香取神社は香取海沿岸とそれに注ぐ河川沿いに見られるがやはり鳥見・宗像・麻賀多神社の分布域とは重ならない。この香取神社も印旛郡を東に越えて広く分布している。
 印旛の地に進出できなかった理由とは何だったのだろうか。ここらへんが本旨のキーポイントであるのかもしれない。