香取の神・鹿島の神

 常陸国一之宮として鎮座する鹿島神宮。御祭神は武甕槌大神。藤原氏の氏神として、また国土開拓の神として、そして武神としても有名である。鹿島神宮から分祀された鹿島神社は東北地方には太平洋に沿って多く分布している。常陸風土記に見える建借間命と壬生直。ここでも多氏と壬生が色濃く分布する。
 ここでは春日大社や中臣氏との関係などから、また管理者の期待や思い込みなどから複雑で判り難い部分があるかもしれませんが、それらに関しての訂正やご意見をいただければとても嬉しいです。

鹿島神宮

御祭神:武甕槌大神(タケミカツチノオオカミ)
御事歴;神代の昔、天照大御神の命を受けた武甕槌大神は香取の経津主大神と共に出雲国に向かわれ、国譲りを成就し、皇孫(すめみま)の国たるべき日本の建国と建設に挺身された。とりわけ東国における神功はきわめて大きく、関東開拓の礎は、遠く大神にさかのぼる。神武天皇はその御東征のなかばにおいて思わぬ窮地に陥られたが、大神の「ふつのみたまのつるぎ」の神威により救われた。この神恩に感謝された天皇は御自らのご即位の年、大神を鹿島の地に勅祭された。皇紀元年。即ち紀元前660年の頃といわれる。
摂末社:境内の奥宮、高房社、三笠社、境外の息栖神社、沼尾神社、坂戸神社、跡宮の七摂社のほかに十五社の末社をお祀りしている。
(鹿島神宮参拝のしおり より抜粋要約)

1)鹿島神宮と大生神社・大生古墳群


 常陸風土記に曰く「下総の海上国造の領内、軽野より南1里と那珂国造の領地寒田より北5里を割いて、新しく神郡を置いた。そこにある天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、すべて香島の天の大神と言う。」
 現在の祭神は、坂戸社が天児屋根命、沼尾社が経津主命であるが、天の大神社に付いては不明である。最もポピュラーな鹿島神宮の由緒なのだが、もうひとつ鹿島神宮の元社と呼ばれている社がある。
 鹿島神宮より約8.5km北西の台地上に「鹿島ノ本宮」とも呼ばれる大生神社が鎮座している。伝承によれば当神社が鹿島本社に遷座したと記されているのである。

大生神社

大生神社は健御雷之男神(タケミカヅチノオガミ)を祭神とする元郷社で、その創祀年代は詳らかでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富族の常陸移住の際氏神として奉遷し御祀りしたのに始まるといわれている。この本殿は天正18年(1590年)の建立と伝えられる三間社流造り茅葺で、当地方における最古社でその時代の特徴を良く示しており貴重な存在である。
(潮来町教育委員会 境内掲示板の抜粋要約)

 当神社に残されている古文書は幾つかあるのだが、複雑になってしまうので簡略化してポイントを記述してみる。

@本社蔵棟札:神護景雲二年(768年)和州城上郡春日の里に御遷幸、大同元年(806年)藤原氏東征御護として此里に御遷還。(明治7年11月)
A羽田氏書留由緒:大同元年東夷退治のため藤原棟梁下向。大明神同心し下着。嶋崎大生宮帝勅有りて宮造る。今之鹿島は大同二年御遷。(天正廿三年とある,鹿島神宮家東氏蔵)
Bものいみ書留:大同元年東夷退治のため左大将関東下向、この時大明神加護のため春日社鹿島へ遷幸、大生村ににて宮作り大明神大生社は御遷座。大同二年極月廿七日に大生宮より今のかしまの本社に御遷座。(鹿島神宮家東氏蔵)
C鹿嶋大明神御斎宮神系代々:大生宮者南部自大生邑大明神遷座。勅自大生宮遷座干鹿嶋大谷郷〜大生神印当当宮神璽因。(禰宜家系譜、常元の項にあり。文明5年7月25日中臣連家長、鹿島神宮家東氏蔵)
 以上4点の記述が残されているのだがさらに簡略にすれば、

@大生宮→春日社→大生宮→鹿島神宮
A春日社→鹿島神宮
B春日社→鹿島神宮
C南都自大生邑大明神→大生宮→鹿島神宮
 となる。@〜Bは春日社から鹿島神宮へ遷座したとあり、問題はCの南都自大生邑大明神であって、これは大和国十市郡飫富郷の多坐弥志理都比古神社(オオニマスミシリツヒコ:多神社)であってこれは多氏が奉じた社であった。つまり多氏の祖神を祀る大生邑大明神が茨城県潮来市大生の地に、そして現在の鹿島神宮へ移ったとしているのである。常陸風土記の他にこのような伝承を持つ神社があるのは驚きだが、さらにもう1つの特色がある。その特色とは大生神社の鎮座地の台地には前方後円墳を含む100基以上の古墳が眠っていることである。その古墳の特色と大生神社との関係はどのようであったのだろうか。

多坐弥志理都比古神社(多神社)

祭神:神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶
由緒:社伝によると、神武天皇の皇子神八井耳命がこの里に来られ、…我、天神地祇を祀る…という由緒をもつ。平安時代の『延喜式』にも名がみえる大和でも屈指の大社である。神八井耳命を始祖とする多氏によって祀られ、中世には国民である十市氏によって支えられた。また、本神社の南には、古事記の撰録にあたった太安万侶を祀る小杜神社や皇子神命神社、姫皇子命神社、子部神社、屋就命神社の若宮がある。本殿は、東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式をとる。江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財になっている。 なお、本地は弥生時代の集落遺跡として著名である。田原本町(境内掲示板より)


大生古墳群

大生古墳群は、茨城県潮来市大生台地に大生東部古墳群・西部古墳群・大賀古墳群・釜谷古墳群など100基以上の古墳が存在している。その中でも最大規模の大生西1号墳は全長約70m余りの前方後円墳で、筑波系絹雲母片岩の箱式石棺を有し、円筒埴輪や形象埴輪、人骨・大刀その他が出土している。築造年代は6世紀中頃から7世紀と推定されている。
(左の写真は子子舞塚古墳跡)

 大生西1号墳では埋葬施設が通常とは異なり古墳に付出し部分(テラス)を設けて埋葬している、いわゆる常総型古墳である。市毛薫氏の「変則的古墳覚書]の中でその特色を以下のように整理している。@内部施設が墳丘裾部に位置すること。A内部施設は通常扁平な板石を用いた箱式石棺であること。B合葬(追葬)を普通とすること。C群集墳を形成している
こと。D東関東中央部に分布すること。としている。
 この常総型古墳の分布域は現利根川下流域を中心として南限は千葉県市原市村田川、北限は福島県相馬郡に及んでいる。またこの常総型古墳の分布域には下総型埴輪及び常総型石枕の分布も重なるともいわれる。
 大生古墳群の報告書である「常陸大生古墳群」(茨城県行方郡潮来町教育委員会)によれば、「大生神社の鎮座地が旧仲国造の治域内にあってオフの地名を負っていることは当然オフ一族の居住地であったことを示しており(中略)かくのごとく地名と墳墓とが立派な傍証となっているので、その背景の中に鎮座される大生神社の創始はオフ一族の移住に伴って起こったとするのが妥当である。」としている。
 つまり大生神社との縁起と古墳群とを兼ね合わせた状況から、多氏が大和方面から移住し多野弥志理都比古神社を勧請、それを鹿島の神として遷座するに到ったとする。
 大生古墳群が多氏の墳墓であるならば、常総型古墳と多氏との関係に付いてはどのようであったのだろうか?常総型古墳と特定の氏族の関係を論ずるのはかなり大胆であるのであろうが深く興味を惹かれる処である。


2)建借間命と壬生直

 大生神社の地であるかつての行方郡は、白雉2年(653)茨城郡と那珂郡を分割合併して誕生した。その初代那珂国造が建借間命(タケカシマノミコト)である。印波国造と同祖、神八井耳命の後裔で印波国造、伊都許利命の2代前(祖父または資料によっては大伯父)にあたる。国造本紀では成務朝、常陸風土記では崇神朝と食い違いは見られるもののほぼ合致している。問題はその後であってまず白雉2年(653)那珂国造、壬生直夫子(常陸風土記)、続いて養老7年(723年)那珂郡大領 下正七位上 宇治部直荒山(続日本記)、さらに天応元年(781年)同大領 下正七位下 宇治部直全成(続日本記)と続く。白雉2年に茨城郡と那珂郡を分割合併した行方郡には、天平勝宝5年(753年)行方郡大領、下正八位下 壬生直足人(正倉院資料)が出現する。
 ここでもやはり問題になるのが、建借間命(多氏)→壬生直(?)→宇治部直(?)が世襲され壬生・宇治部が多氏系の氏族であるか否かであって、どの文献にも世襲とも後裔とも記されていない。疑わしきは常陸風土記注釈の「那珂国造の初祖なり」の「初祖」の部分だけである。印波郡同様、神八井耳命系多氏の末裔に壬生や宇治部直が続いているのであろうか。「古代氏族系譜集成」によれば壬生直・宇治部直共に建借間命を祖としており、さらに仲臣(那珂臣)も那珂国造一族ととしている。


3)建御雷神と祭祀氏族


 これらの通り、風土記に云う「鹿島の大神」にしろ、または多氏の「神八井耳命」の可能性もあるにしろ、現在の祭神である建御雷神になぜ置き換わったのだろうか。
 建御雷神は、日本書紀では神武天皇記に「フツノミタマの剣」を下したと記される神様であるが香取神宮の祭神である経津主(フツヌシ)と被る神様でもある(詳しくは香取神宮の項にて)のだが実のところこのタケミカヅチ神は中臣氏(→藤原氏)の氏神なのである。
 奈良県春日大社は鹿島神宮・香取神宮・大阪府枚岡神社から、それぞれ迎えられた神様がお祀りされているが、建御雷神は最も早くに移され神護景雲2年(768)、称徳天皇(藤原系)の勅命により、左大臣藤原永手らが勧請したものであると言われている。
 鹿島の文献上最古のものは古語拾遺(大同2年(807))にある武甕槌神、ついで続日本後紀承和3年(836年)に建御賀豆智命である。つまり春日大社に移されて以降、タケミカヅチと称するようになるのだが、なぜ鹿島の神をタケミカヅチとして、また氏神とする必要があったのであろうか。

 中臣氏は天児屋根命を祖とする忌部氏と共に古代に於ける祭祀を司る氏族であり(古語拾遺)、仏教受入問題による物部氏と共に蘇我氏の圧迫を受け一時は衰退したが大化の改新によって復活をとげる。その復活から鹿島の神を置き換えるストーリを妄想してみる。
 以下は鹿島宮司家の系図である。




*鹿島神宮誌には武甕槌命からの系譜も別本として掲載している。*


 天平18年(746)、鹿島の中臣部、占部が中臣鹿島連を賜る(続日本紀)。それ以前に風土記記載の香島郡に中臣国子と中臣部兎子が大化5年(649)請願して香島郡が成立したとしている。この頃には常陸に中臣氏と部民である中臣部がいて鹿島の地で相応の力を保持していたことになる。中臣とは前述の建借間命の後裔で仲臣(那珂臣)と関連があって、これが藤原鎌足鹿島出身説(大鏡)や多氏分流説の元になっているのかもしれない。
 それから以降次々と官位が進められるなどして中臣氏の鹿島支配権が確立し、それはもちろん中央政界の後ろ楯があって、国司にも藤原宇合など一族が着任して氏族上げての大仕事であったに違いない。
 元々鹿島の神は多氏系であったのかもしれない。しかし多氏が衰退し、それまで祭祀を司どっていた中臣氏が台頭(多氏の配下にあったか、また同族であったのか別として)、天平18年(746)には連に昇格し鹿島の実権を掌握、神護景雲2年(768)に春日に遷座、以降祭神をタケミカヅチとしたのであろう。
 嘉祥元年(848)、陸奥国の鹿島神が奉幣が途絶えたとして祟ると言う事件が起こる。さらに奉幣に向かった鹿島宮司が陸奥国境で入国を拒否される事態となった。タケミカヅチ以前に陸奥国に分祀された鹿島神がタケミカヅチを祭神とする鹿島神を拒否する出来事であったのだろう。