印旛・印西の古墳終末期から古代寺院へ

 ここでは古墳時代終末期から律令国家成立期までの歴史を紹介しますが、その前に印旛郡に関わる事案を簡単に紹介します。ちょっと耳慣れないかもしれませんがお付き合い下さいませ。

律令国家

 古墳時代は7世紀の大化二年(646年)三月、薄葬令が出され(日本書紀)終焉にむかう。これにより、一般の古墳造営は実質上禁止され古墳の造営は急速に下火となる。それに替わる埋葬方法として出現したのが渡来した仏教寺院の建立であった。  大化二年(646年)、改新の詔が出され律令体制の整備が進み始める。これに続き近江令、天武令、大宝律令、養老律令が立て続けに出され、最後の養老律令は養老二年(718年){但し施行は757年}となっている。これらにより国司・郡司などの行政組織(下総国司等一覧はこちら)や戸口・田畑の調査、新しい租税の実施などが定められる。また国司の任命により上述の国造制は解体されていったか国司配下に吸収されていったと考えられる。天平十三年(741年)発布の「国分寺建立の詔」によって、さらに地方政治強化のための国分寺が8世紀中頃から末までに建立され政教一致による律令体制が整うようになってくる。下総でも国府は市川市国府台、国分寺は同市国分に所在している。

外征と内征

 外征としては改新後、天智天皇時代には、朝鮮半島白村江に於いて唐・新羅連合軍に大敗、国内警備体制の強化とともに防人制が導入される。
 宝亀五年(774年)陸奥の蝦夷が蜂起、以後弘仁二(811年)まで続く長期の戦闘に入った。この戦闘に於いて前線基地となった上総・下総・安房(以後房総3国)から物資の供給・兵士の供給・陸奥への移民等大きな関わりを持つようになる。下総でも郡大領、外正六位上 丈部直牛養が兵糧の補給の功により叙位されている。(続日本紀) 補給基地から前線までの輸送手段として香取の海の水運が大きく使われていたのだろう。さらに戦闘終結の翌年、弘仁三年(812年)物部匝瑳連足継(下総匝瑳郡)が鎮守副将軍から将軍に昇格。以、後同一族が鎮守将軍に任じられている。承和元年(834年)物部匝瑳連熊猪が外従五位下を叙尺、同四年には物部匝瑳宿禰(スクネ)末守などの名が見える。

駅道の改変

 下の図は下総の古代官道図である。
 古代、都から安房までの行程は約17日間かかっており、下総に入る場合は相模(現神奈川)の三浦半島から海路房総南部を経由していたものと考えられている(その為に千葉県南部を上総、北部を下総と言う説が有力)。宝亀二年(771年)続日本紀に「相模の夷参駅から四駅を経由して下総に達する」との記載があり、以降西隣の武蔵国の道が整備され従来の房総南部からの道は次第に衰退し、ついに延暦二十四年(805年)印旛沼東岸地帯の駅が廃止(白丸部分)され、それまでの上総から常陸へ抜ける印旛沼東岸地域を縦走していた官道が公に廃止されることとなった。常陸へ達する道は大きく東側に寄って現市川市から松戸・柏へと抜けるルートとなった。
 このルート変更は、現在考える程以上に大きな影響を与えたと考えている。それまでの都からの物資を始め情報などが印旛沼東岸から失われ、下総南西部がそれに取って代わっていくと考えている。


Ⅰ印波国造の登場

 国造(クニノミヤツコ)とは大和政権の行政長官と考えられている。律令制の国が定められる以前の行政区分であるために十分には判っていない。簡単に言えば大昔の知事のようなものか。従来その地域を支配していた豪族の範囲がそのまま国の範囲とされたようである。地方豪族が大和政権に服属したと同時に国造とされかなりの裁量権を持っていたと考えられている。また定員一人だけでなく複数の国造がいる場合もあったようである。大化の改新後の律令制下では主に祭祀を司るようになり、従来持っていた行政権は郡司等に取って代って行く。各地の国造が成立するのは6世紀後半であり東日本では6世紀末~7世紀初頭にかけてとする説が現在のところ有力である 
 印旛郡では、旧事紀の第十巻「国造本紀」に「応神十二年 神八井耳命(神武天皇の子)の八世孫 伊都許利命(イツコリノミコト)を印波国造に定める。」と記されている。応神十二年は西暦212年であるが例によって応神の御世は100年以上もあり伝承の域を出ないが、先に述べた修正年では343年になる。
 伊都許利命は、神武天皇皇子神八井耳命の子孫でその系統は多氏(オオシ)と呼ばれる氏族である。最も古い皇別氏族で伊都許利命の子孫が多姓を賜る。印旛国造の他にも大分、伊予国造など多くの国造が輩出し太安麻呂は記紀の撰者として有名である。 

伊都許利命墳墓(公津ヶ原39号墳)

東西35m、南北36m、高さ約5mの方墳。伊都許利命の墳墓と伝えられ、凝灰岩系砂岩による横穴式石室と絹雲母片岩による箱式石棺を持っており7世紀の造営と言われる。船形の麻賀多神社内にあり、文久4年(1864年)に大木の根元から発見された鏡と玉は、麻賀多神社に伝えられている。由緒書きには「伊都許利命は神武天皇の皇子、神八井耳命の八代孫で応神天皇の命により印旛国造としてこの地を平定され、産業の指導などに多くのご功績を残されています。その昔、日本武尊ご東征の折に大木の虚(ウロ)に鏡をかけ根元に7つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願されました。命は「この鏡を崇め祀れば豊作が続く」と教えをとき、その鏡をご神体としてこの地に稚日霊命を祀り、その後霊示により7つの玉を掘り出して稚産霊命を祀り(成田市台方)共に麻賀多真大神として里人の崇敬を指導されてから益々豊年と楽土が続きました。」と記されている。尚、神八井耳命、伊都許利命の系譜は多(太)氏となり後裔の太朝臣安麻呂は古事記、日本書紀の撰者として有名である。下に多氏系図を記載しておく。

Ⅱ 丈部氏と生部(壬部)氏

 初代印波国造伊都許利命以降、国造制から大化の改新後の律令制(国司・郡司)に入ると印旛では丈部(ハセツカベ)と生部(壬部)(ミムベ)の2つの氏族が見られるようになる。
 丈部は、馳使部(伝令・急使)と言われる職業的部民と解釈されている。東国に多く分布しており平安期以降に氏姓を賜る場合、多くは安倍(阿倍)姓であった。安倍氏は孝元天皇皇子である大彦命を祖としており、その子である建沼河別命と共に四道将軍として崇神十一年に東国に派遣されたとされており氏族の分布もその経路とよく一致している。従って、安倍氏の部民としての丈部氏が建沼河別命の東征に伴って移動土着したものとも推測できる。
 生部は、丈部より新しく日本書紀の仁徳七年に壬部を定むとあり、また推古一五年にも同様に壬部を定むと記されている。その職種は従来の子代・名代(大王や特定の王族に貢納・奉仕する人民(部民)の総称で,国造支配下の人民を割いてこれにあてる。)を再編し皇子の資養の為に設置し経済的軍事的基盤となしたと考えられている。尚、大生部の大は生部の中での本家筋(最有力一族)に与えられたものとする説が有力である。
 印旛郡では、まず天応元年(781年)の続日本紀の中に「下総国印旛郡大領外正六位上 丈部直牛養」と見える。(直(アタイ)は旧国造クラスにも与えられる古代の姓のひとつ。)また万葉集の中にも印波郡丈部直大麻呂の歌が収められている。生部では、平城宮跡出土の天平年間(729-748年)の木簡には「下総国埴生郡大生直野上」とあり、続日本紀の神亀元年(724年)には「外八位下大生部直三穂麻呂」の記述が残されている。
 以上の資料から天平頃には既に印旛郡から埴生郡は独立し大生部が治めていた可能性が窺われる。丈部氏と生部氏の勢力範囲にはそれぞれ公津ヶ原古墳群と龍角寺古墳群があり、特に龍角寺古墳群の岩屋古墳(東日本最大級の方墳、7世紀末頃造営。一辺80m、南面には2基の横穴式石室が10m間隔で並ぶ)は国造クラスの大型古墳であると言え、また埴生郡衛跡も至近にあり生部氏の拠点であると考えてよさそうである。
 共に国造クラスの姓である「直」を持つ丈部氏と生部氏の関係をどの様に考えれば良いのだろうか。当初国造であった一族はその後も引き続き郡司に任じられるケースが多いと考えられているが、印旛郡の場合は何らかの理由によって丈部氏に郡司を譲ったか、そもそも在地の丈部が実効支配している地域に中央派遣の伊都許利命は名目上の国造となっていた可能性もある。また、埴生郡に付いても在地の大生部が伊都許利命と姻戚関係を結び次第に勢力を拡大し分離独立したか、当初大生部の領域だった地域に伊都許利命を受入た上に共存していた可能性はある。どちらにしても龍角寺古墳群と公津原古墳群が比較的近距離に位置している事や双方の古墳が大規模な破壊に合っていないこと等から考えると武力による衝突ではなく穏便に進められたと考えられる。


 上記の説は多氏(伊都許利命後裔)と丈部氏・生部氏はそれぞれ異なった氏族であるとの前提に立脚しているが、丈部氏・生部氏は伊都許利命の後裔であり同族であるとする説もある。宝賀寿男氏の著書である「古代氏族系譜集成」(下図参照)では伊都許利命の直系子孫を大部(オオトモ)であるとし丈部は字体が似通った大部のではないかと指摘し、生部(壬生)に付いても同祖から分岐した氏族としている。

丈部と生部の印西での分布を窺わせるものとして、印西市の鳴神山遺跡及び西根遺跡から近年出土した墨書土器が上げられる。それには「丈部山城・丈部鳥万呂・大生部直子猪・丈部春女・船穂郷生部直弟刀自女・弘仁九年(818年)」などと記され、その推定年代は7世紀後半から9世紀前半である。律令時代初期に印西に分布する証としてこれらの出土品は重要であり、また墨書土器を残せる地位にあった丈部と生部であるが、同一の遺跡から双方のものが出土しているところから見て、同族の可能性は否定できないと思われる。


*角田台遺跡の「匝」は「迊」の文字
(平成22年3月に印旛村・本埜村は印西市に合併編入されました)

 また、台方・船形に鎮座する麻賀多神社宮司家に伝わる家系図(下図)が現存している。それによれば、やはり伊都許利命の後裔として代々宮司職を受け継いでいるが、上記の多氏系図と比べると合致していない部分も多いがやはり多氏系の氏族が麻賀多神社を歴代守護してきたのであろう。


Ⅲ 古代寺院の時代

龍角寺

 龍角寺古墳群の龍角寺とは古代から続く寺院である。山田寺式軒瓦(奈良県山田寺:蘇我氏によって造営される)が出土し、白鳳時代の銅造薬師如来像が安置されており、法起寺式の伽藍であったとも言われている。寺に伝わる縁起には和銅二年(709年)に建立されたとある。また、瓦の研究では建立は6世紀後半との説もある。
 この山田寺式軒瓦は下総では7箇所の寺(廃寺)で出土しており、その中に木下別所廃寺(印西市)と龍尾寺(八日市場市)が含まれている。さらに興味深い点としては、龍角寺と龍尾寺そして旧本埜村にある龍(竜)腹寺には共通する「龍神降雨伝説」が残っている。文化五年(1808年)写本の「龍角寺縁起」がそれである。鎌倉時代の嘉元三年(1305年)に尾張国の僧によって記録されたものとも言われている。
    

竜腹寺

 大同二年(807年)創建(天和元年(1681年)略縁起による)。天台宗寺院で玄林山勝光院と号する。開山は慈観、本尊釈迦如来である。最盛期には二十五坊にも及ぶ規模を誇ったと言われている。上述の通り、龍の腹部が落ち竜腹寺と改める。但し、竜腹寺では天平三年ではなく延喜十七年(798年)とされている。中世には千葉胤直によって五重塔が建立されたが、小田原北条氏との兵火で焼亡した。写真は竜福寺地蔵堂である。この地蔵堂脇の梵鐘には「印西荘龍腹寺玄林山大鐘」と刻まれており、南北朝時代の作とされている。また山田寺式瓦の出土した木下別所廃寺が元々の竜腹寺ではないかとの説もある。

龍尾寺

天竺山龍尾寺。匝瑳市大寺にあり龍角寺・竜腹寺よりやや離れた場所にある。境内には応永6年(1373年)の板碑が残っている。上記の「龍神降雨伝説」が残されている点以外、極めて情報の少ないお寺である。

 

 さて、その内容は下に記した通りであるが、それは今昔物語(嘉承元年(1106年))の中にある話と酷似している。今昔物語では奈良県下に於いて龍が四つに切り裂かれ、それぞれ龍海寺・龍心寺・龍天寺・龍王寺となっている。印旛沼西岸地域には他にも龍神降雨伝説があり白井市清戸地区にも伝わっているのが興味深い。この清戸地区には「清戸の泉」(船橋カントリー倶楽部8番ホール脇)があり清戸宗像神社東側にある薬王寺には「青龍山薬王寺並びに堂作弁財天女縁起」の版木が保管され、その版木には文政十一年(1828年)再版とあることから古くから伝えられているものと思われます。

龍角寺龍神降雨伝説

 佐倉風土記に次のように記されている。天平三年(731年)国中が旱魃のとき、釈命上人が勅を奉じ法を説いて、雨の降ることを祈った。すると身長八尺ばかりの一人の老人が進み出て言うには、「私は小竜でいつも南の池に住んで、深く上人の法沢に浴しております。どうしてわが身を惜しみましょう。どうかこの身を雨に換えて下さい。後に必ず私の遺骸を見てそれを証として下さい。私は大竜に罰せられたのです。」と言ってたちまち去った。雨がすぐに降り出した。後七日に、その竜の体が見られ、三段に裂かれ、頭はここに落ちた。そこで金字で経を写し、一緒にお堂の下に埋めた。寺ははじめ竜閣と言ったが、ここで竜角と改めた。腹は印西の竜腹寺に落ちた。その尾は香取郡大寺村竜尾寺がそれである。
(利根川図示より抜粋)

 白井市清戸に伝わる龍神降雨伝説

大同年中(806~810年)当地が大旱魃に見舞われ、その時現れた老僧の言うとおり五穀を供え、一昼夜龍神を祈ると、大雨と共に青龍である子蛇が三つに切れて落ちてきたと言う。僧はここに龍神と弁財天を祀って池を掘れば、どんな炎天にも水が尽きることなく土地を潤すであろうから清戸と名付くべし。
(地名辞典より抜粋)

木下別所廃寺

 大森の谷を挟んだ台地上にあり、北西800mには瓦を生産した曽谷ノ窪窯跡がある。そのため遺物には瓦類が多く、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・隅切瓦が発見されている。遺跡中心部分には3基の基壇跡が確認されており、それぞれ金堂・講堂・塔と考えられている。この木下別所廃寺で最も有名なのは、龍角寺同様の山田寺式軒瓦が出土していることで年代としては7世紀後半のものとされている。この他に「道」・「日」・「可」と記された8世紀の平瓦も見つかっている。
 龍角寺古墳群の岩屋古墳と龍角寺、そして木下別所廃寺という系譜は当時の文化が印旛沼東岸から西へ吹いていたのであろうか。

大塚前廃寺

 千葉ニュータウンの開発によって現在はマンションが建ち並び、その当時の面影は全く無い。発掘調査によって掘立柱建築物2棟と竪穴住居1軒などが見つかっている。瓦類の出土量は少ないが、下総国分寺と同様の軒瓦が見つかっており国分寺のと同じ工房のものであろうと推測される。時代的には8世紀末から9世紀初頭頃と考えられている。瓦の中にはヘラで「埴」と記された平瓦が見つかっており、埴生郡の「埴」を示すものかは明確になっていない。
 9世紀初めに東岸の官道が廃止され文化は西から東へと流を変えたのであろうか。

結縁寺


 真言宗豊山派、神亀年中(724~729年)行基創建と伝える行基伝承寺院の一つである。天慶年中(938~947年)に真言宗に改宗、かつては六坊を有する寺院であった。本堂には,不動明王立像(国指定重要文化財)が安置されている。天正十八年(1590年)兵火に遭い衰退してゆく。結縁とは、真言宗の僧が「結縁灌頂」と言う仏縁を結ぶ儀式から由来すると言う。関東一円には広く行基伝承が広がっており、印旛沼西岸地帯にも幾つか見受けられる。この伝承は鎌倉時代から江戸時代にかけて広く民衆に流布されており、真偽は不明である。

松虫寺


 真言宗豊山派、天平十七年(745年)行基により創建。初め三論宗次いで天台宗、そして真言宗となる。聖武天皇の皇女松虫姫(不破内親王)が重い病を患われ、夢のお告げにより下総に下向。萩原郷(旧印旛村)に祀られていた薬師仏を祈り平癒した。天皇は行基に命じて七仏薬師(松虫寺本尊:国重要文化財)を刻む。仁王門(左写真)、薬師堂は享保三年(1718年)改築。(松虫寺石碑より)

薬王寺


 大同年間(806~820年)に清戸山に開基創建。ご本尊は阿弥陀如来。近くに観音堂があり弁才天を祀る。縁起を記した版木を有しており、県指定文化財になっている。この版木には、平安時代には清戸は印旛沼の入江であったと記されており、清戸宗像神社との関係から大いに興味深い点である。