大六天神社【印西市浦部】浦部古墳(前方後円墳)のクビレ部付近に鎮座している。鳥居は前方部に設けられており、参道はちょうど古墳の軸線上にある。大六天の祠には安永2(1773年)癸巳3月吉日とある。手水鉢及び鳥居は昭和期のものである。境内は非常に良く整備されており、地面には材木チップが敷かれており印西八景の1つ。北側の手賀沼方面の景色は一見の価値あり。散策道から古墳の側面を見ると古墳の形状が良く分かる。(印西市浦部412北西側付近 永治プラザ先右折看板あり) |
||
皇太神宮社 (お伊勢様)【印西市浦部】旧村社で本殿神明造、神紋は「十五菊」。境内施設は極めてシンプルで本殿及び拝殿と伊勢講による手水鉢、境内社は月読尊(印旛郡誌には月神社とあり)天保9(1838年)戌10月吉日・三峯神社あり。御祭神は大日霊女尊で、慶安元年(1648年)創立、天保4年(1833年)再建。皇大神宮(コウタイジングウ)とは伊勢神宮内宮のこと。(印西市浦部1959) |
||
妙見宮【印西市浦部】朱塗の鳥居には妙見宮、本殿には妙見神社と神額が掛かる。鳥居は昭和47年2月22日、手水鉢は昭和50年2月22日とどちらも神社祭礼の日付けになっており、翌23日には東側にある”月影の井”で氏子一同によって井渫を行うと印旛郡誌にある。鎮座地から南側台地は千葉一族である大菅豊後守正氏の龍崖城跡となっており、土塁・空堀などの遺構が残る。印西では近郷の八千代・船橋・習志野などに比べ妙見社が極めて少ない様に思える。境内社にしても見かける事はほとんど無い。地勢上から見てもある程度は強い結びつきがあってもよさそうなものなのだが、今後の楽しみの1つでもある。 (印西市浦部1438東側付近) |
||
浦部村字神台にあり経津主・天御中主命・建御加津知命を祭る鎮座年歴不詳。該社往古千葉助(介)平常胤の騎下、大菅豊後守なるものの氏神にして元同氏の城裏に鎮座をなし、且つ元来同社は同国千葉郡千葉神社より遷座の由、父老の口碑にあるその小伝によれば、「千葉城陥落の際、豊後守も座しながらこれを観るに忍びず手勢300騎を率い応援のため途中まで出張した処、その夜不意に敵に居城を襲われ、この際に同社も兵火にかかり何も無くなってしまった。」その後大菅の家臣中村某の末流、中村次郎平盛治なる者、康永2年亥2月22日(原文ママ)再建。(印旛郡誌より要約抜粋) | ||
道祖神【印西市浦部】左側の祠が嘉永4(1851年)亥年11月吉日、右側が風化激しく読めなかったが資料によれば宝暦13(1763年)のもの。(印西市浦部1945東側T字路付近) |
||
身曽貴神社【印西市浦部】路傍に注連縄が張ってあり奥に「身曽貴神社」の祠があり。(印西市浦部1967付近) |
||
鳥見神社【印西市浦部】←参照 |
||
出世豊国稲荷神社 |
||
弁財天墓地脇の参道奥に鳥居が見える。その奥の覆屋内に朱塗の本殿が鎮座している。その隣には三峯神社が鎮座する。鎮座地は一段高い地相上にあって特に湧水等があるわけでもなく、弁財天鎮座地としては不思議な印象を受けるが、隣接の三峯神社と合わせて防火防災のためと考えてみてはどうだろうか。(印西市浦部1157西側付近) |
||
道祖神大木の根元に3基の石祠があり、そのいくつかに”道祖神”と確認できる。資料によれば文政4年(1821年)と明治期のもの。 |
||
八幡宮【印西市白幡】本殿流造、神紋は「蔦」のように見える。手水鉢は文政9(1826年)戌年、鳥居は昭和期のもの。境内社には子大権現・天満宮・三峯神社・疱瘡神など。特に疱瘡神の祠には疱瘡神が嫌うとされる”赤色”の御幣が掛けられている。赤の御幣が掛けられているのは初めて見るめずらしもの。寛文13年(1673年)社殿建立、文化元年(1804年)再建、同年雨屋建立。(印西市白幡29) |
||
大松道祖神【印西市白幡】寛保元(1741年)酉天6月吉日、反対側に願主名が見える。正面に「大松道祖神」とあるが”大松”の意は不明。 (印西市白幡29八幡宮向い竹林内) |
||
弁財天【印西市白幡】覆屋内に石祠、”辨天 万延元(1860年)申年”とある。境内には灯篭と石鳥居があるが、石鳥居は倒壊している。水路途中に小さな杜があってその中に鎮座している。(印西市白幡) |
||
水神宮【印西市発作】左側が水神宮で文化3(1806年)丙寅2月吉日、願主名あり。右側は判読不能であったが資料によると”八幡大菩薩”らしい。鎮座地は松山下公園前のファミリーマート脇の田圃の中の道を北に進んだ左側に見える。(印西市発作2103) |
||
八幡社【印西市発作】こちらも”八幡大菩薩”と見えるのだが、資料には”八幡大明神”とある。発作新田と願主名。享和2年(1802年)のもの。(印西市発作532付近) |
||
大杉神社【印西市発作】本殿流造、神紋確認できず。灯篭は天保12(1842年)(めずらしい事に干支は無いようだ)、手水鉢は文化3(1806年)丙寅2月吉日とあり。由緒不詳、印旛郡誌では同地に大杉神社の他に外川神社(ご祭神:日本武尊、水神社(ご祭神:水波女命)を記している。(印西市発作632最勝院東側) |
||
厳島神社旧村社、市杵嶋姫命をご祭神とする。寛文11年(1671年)発作新田開拓に伴い鎮守として創建。本殿覆屋内で確認できず。灯篭は天保期(1830〜1843年)のもの、手水鉢は明治期のもの。境内社に愛宕神社、それと上記大杉神社の項で外川神社に触れているが、この厳島神社の境内社に外川神社が見えることから遷宮したのかもしれない。(印西市発作851) |
||
水神宮正徳3(1713年)癸巳年の水神宮。18世紀初頭のものは古い部類に入る貴重なもの。手前に見える小さな手水鉢の文字は磨滅いるのか見えなかった。この石祠であるが高さが1m近くもありそうな大型のもので水田の遠くからでも一目で判る。(印西市発作676付近) |
||
道祖神【印西市亀成】2基の道祖神の内、左側のみ年代確認できた。享保元(1716年)丙申9月吉日とある。18世紀初頭のもので覆屋で守られているせいか良い状態で保存されている。右側は年代確認できず。(印西市亀成313東側付近) |
||
水神社【印西市亀成】(水神様)本殿流造、神紋不明。由緒不詳なれど文化12年(1815年)本殿再建の棟札が残り、水波能売命をご祭神とする。狛犬は明治40年、灯篭は昭和27年、鳥居は平成21年、手水鉢の年代は読取れなかった。旧村社で亀成村鎮守。(印西市亀成326) |
||
厳島神社【印西市亀成】現在は上記水神社の境内社であるが、元来は別々の社であり、明治43年12月に合祀された。中之島に石祠があり”享”で始まる元号が見える。ご祭神は、市杵嶋姫命。鳥居は平成12年10月のもの。(印西市亀成324) |
||
八幡社【印西市亀成】昭和10年10月とある八幡宮。なぜか通り方向ではなく、立木方向に正面が向いている。 |
||
鳥見神社【印西市小倉】←参照 |
||
鳥見神社【印西市和泉】←参照 |
||
金比羅神社【印西市和泉】上記和泉の鳥見神社脇に鳥居があって一見別々の社のように見えるのだが、鳥見神社の境内社のようだ。手水鉢には嘉永5(1852年)子4月とあり、他に天満宮、三峰神社なども見える。(印西市和泉622付近) |
||
道祖神【印西市和泉】台座上の1基は、享保19(1734年)寅10月と見えるだが、右側の石祠は半分埋まって読めず。(印西市和泉701付近) |
||
白山神社【印西市和泉】正面に”伯山権現”と側面に願主名あり。年代は確認できなっかたものの比較的新しいように見えたのだが。(印西市和泉806東側付近) |
||
八幡神社【印西市鹿黒】旧村社、鹿黒村鎮守。由緒不詳であるが元禄15年(1702年)5月再建、享保12年(1727年)9月14日”正一位八幡宮”の位階を受ける。朱色の鳥居をくぐり参道の石段を登って行くと、かなり拝殿が迫っているが裏手の本殿側に廻ると思ったより大分広い境内となっている。本殿流造、神紋不明。手水鉢は文政13年(1830年)寅2月吉日、灯篭と狛犬は平成のもの。境内社には金比羅宮・大杉神社・稲荷大明神・辨(弁)才天宮・三峯神社・足尾大権現他あり。御祭神は、県神社名鑑では誉田別尊(応神天皇)・大鷦鷯尊(仁徳天皇)、印旛郡誌では誉田別尊のみとなっている。大鷦鷯尊をも御祭神とすれば若宮八幡宮からの分祀もあったと思われる。鹿黒の地名に付いて印旛郡誌が記す、「蘇我入鹿の弑せられるや縁者、入鹿の首を携え来りて葬り之に住せし」と。 (印西市鹿黒315) |
||
咳神様【印西市鹿黒】鹿黒集会所の中に鎮座する。さすがに無人の集会所の中にお邪魔する訳にも行かないので、柵の外側から撮影した咳神様。向って左側には鹿黒村建立 西光寺浄念 権右ェ門他願主名あり。ちなみに西光寺は明治初年に廃寺となっている。資料によれば安政4年(1857年)のもの。(印西市鹿黒448付近) |
||
稲荷大神【印西市大森】正面に”稲荷大神”とあり。土台のコンクリートが真新しく遷宮したてのようだった。隣には忠魂碑がある。明治24年4月3日と願主名あり。(印西市大森3062付近か) |
||
熱田神社【印西市大森】木下街道を下っていくと右手に発作バス停がある。その後背地の小高い土地を熱田山と呼ぶ。山の北東側に参道入口があるが、3.11前までは石鳥居があったようであるが崩れてしまったようだ。登山道の様な参道を登ると頂上平坦部に流造の本殿、手水鉢(萬人講)嘉永2酉年(1849年)7月吉日、灯篭は2基あるようだが、やはりこれも倒壊してしまっていた。(印西市大森3114-2) |
||
大杉神社【印西市大森】極めて資料に乏しい神社で、話を聞こうにも人通りも無い状態であった。、本殿覆屋内で確認できず、鳥居のみ平成3年12月のもの。(印西市大森2701北側付近) |
||
中ノ口浅間神社【印西市大森】創立年代不詳、旧村社。永禄3年(1560年)創建とも再建とも伝わる。延宝6年(1678年)正月15日、当時の大庄屋宮嶋勘右ェ門宅の火災で郷の帳簿類を焼失したので判然としない。手水鉢は弘化4年(1847年)6月吉日、灯篭の年月不明、鳥居は平成のもの。境内社に稲荷神社・三峯神社他あり。(印西市大森2636) |
||
六軒厳島神社・水神社(弁天様)【印西市大森】大庄屋、宮嶋勘右ェ門が安芸の宮島より勧請したと伝わる。延宝7年(1679年)7月創立。水神社を合祀する。本殿覆屋内で確認できず。手水鉢は文化2年(1805年)他、狛犬は昭和、鳥居は平成のもの。境内社は稲荷神社・三峯神社・古峯神社・疱瘡神・天満宮・咳神神社など。咳神神社の覆屋には竹筒に入れたお茶が吊下げられており、近在では八千代市米本城址内にある咳神様でも同様なものがあった。(印西市大森4336) |
||
三峯神社【印西市大森】住宅地の中にある塚の頂上に”三峰山”の祠が鎮座している。天保14(1843年)卯年2月吉日のもの。鳥居は平成11年1月と記されている。奥秩父にある「三峯神社」が本宮であるが、この三峯神社の三峯とは雲取山・白岩山・妙法ヶ岳を表すものとして”三峰”としているものも見受けられる。(印西市大森3546-10付近) |
||
弁財天宮【印西市大森】市役所裏に鎮座。”下総国印旛郡大森村”は読めたのだが、その他は風化激しく読めなかった。(印西市大森2364-2市役所裏) |
||
天王神社【印西市大森】個人敷地内かもしれないので・・・。左側の石祠正面にかすかに「天王神社」と見える。防疫の神様。 公道から撮影。 (印西市大森・・・付近) |
||
御嶽大神【印西市大森】こちらも個人敷地内か悩むところで・・。(印西市大森・・・付近) |
||
正一位干拓稲荷大明神【印西市大森】本殿流造。本殿脇に稲荷大明神の祠2基あり。右側の小さい祠には寛政6(1794年)甲寅3月吉日とある。その他、手水鉢は昭和45年のもの。本殿脇の記念碑裏に由緒書きあり。とても手の行き届いた社である。 (印西市大森3954付近) |
||
抑も本稲荷神社の御神体は、今を去ること66年前現機場外側、利根堤塘(ていとう)上に祀られ往時近郷の信仰厚かりし処、明治23年8月24日利根洪水の為、同所決潰社殿共流出埋没せらる。それ以来利根堤塘の決潰を見なかったの事は、一に御神威の賜と言うべく今回農林省国営手賀排水機場建設に当たり昭和30年3月15日前田建設工業株式会社の手により第一機場地下7mの処より堀さく機によって、奇跡的にも御神体の出現を見たものである。本工事完了の暁は、五穀豊穣、萬民福祉の守護神としてここに社殿を建立し永遠に祀る。(境内記念碑裏碑文より) | ||
火皇子神社(明神様)【印西市大森】旧村社、千葉県神社名鑑によれば、「ひのおうし」神社と読みを添えている。本殿流造、神紋は「三ツ巴」。灯篭は弘化4年(1847年)丁未9月吉日、手水鉢は安政5午年(1858年)2月吉日、鳥居は平成14年10月吉日のもの。境内社には疱瘡宮あり。創立年代不詳、天彦火火出見(あめのひこほほでみ)尊を御祭神とする。享保12年(1727年)9月14日付けで正一位火皇子大明神の宣旨を受け、元禄14年(1701年)と記す桑の祭器具がある。この火皇子神社とは他には見られない極めてめずらしい神社である。同市松崎に鎮座する火皇子神社は”ひめこ”神社であって御祭神も異なっているので注意が必要である。鎮座地の字を”古新田”と呼び近世でも比較的早くから開けた土地か。 (印西市大森440-1) |
||
”天彦火火出見尊”は日本書紀に見える名であるが、古事記では「火遠理(ほおり)命、またの名を天津日高日子穂穂出見(あまつひこひこひこほほでみ)命」としている。神話で有名な”山幸彦”と言った方が判り易いかもしれない。天彦火火出見尊には海幸彦山幸彦の神話の他に、出産時の逸話が残されている。母神の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(浅間神社御祭神)は一晩で父神の邇邇芸(ににぎ)命の子を身ごもったのを疑われ、産屋に火を放ちその中で生まれた神々の一柱で、正に”火の皇子”に相応しい逸話である。御神徳としては”火火出見”から虫よけ、また”穂穂出見”から稲穂が多く出る様で、どちらにしても農業の守護神と云えよう。ちなみに本神は神武天皇の祖父にあたる神様である。 | ||
道祖神【印西市浅間前】葉っぱに隠れている左側祠正面に”道祖神”と見える。年記等確認できず。 (印西市浅間前333付近) |
||
白山神社【印西市泉】中央の石祠は白山神社、明治22年11月のもの左側面に願主名あり。右側は中央は風化で読取れないが同時期のもので願主も同じ。左側は半壊。鎮座地は、オートランナーから道を挟んだ西側で藪を少し入る。枯れた大木の根元にあり。(印西市泉61付近) |
||
弁財天【印西市泉】泉集落から国道464号方面の南へ下る一本道を進むと千葉ニュータウンの造成工事にぶつかるも、参道は確保されていた。草むらと畑と荒地の中に少し低くなっている土地に泉があり、弁財天が中之島に鎮座している。本殿流造、屋根に「弁天」とあり。鳥居は昭和59年9月吉日とあり。杜の中からニュータウンの高層ビル群が見える。(印西市泉219-2付近) |
||
八幡神社【印西市泉】道路に面して泉会館の建物があって本殿は見えない。神社の敷地に後から公民館を建て参道を塞いでしまった、たまに見られるよろしく無い作り。建物裏手に流造の本殿と境内社が愛宕山神社・金比羅大権現・道祖神など6基あり。元印西牧の一部、隣の泉王寺が延宝5年(1677年)4月10日建立とあるので同時期頃鎮座か。(印西市泉19) |
||
端午の節句の飾り旗の絵などに神功皇后と誉田別尊(応神天皇)、また臣下である武内大臣の図柄をよく見かける。八幡の神は普通は応神天皇、比売(ひめ)神、神功皇后であるが、この他に玉依姫命、住吉大神、金刀比羅神、仲哀天皇、仁徳天皇のいずれかを併せて祭るところもある。八幡宮の根本社は大分県の宇佐神宮で、奈良朝の頃から早くも皇室の篤い信仰があった。下って平安時代になってから、京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮が祭られいま全国の八幡さまと呼ばれる神社はいずれもこのこの三社からの分かれといってよいであろう。八幡さまは、平安時代に源氏の氏神とされ、続いて鎌倉時代にも源氏に信仰され、さらに室町江戸時代を通じて武家の守護神とされた。こうして一般にも武神とされたが、本来の神徳は文化の導きの神ではなかったろうか。それは古代において神功皇后と応神天皇の御代の頃は、さかんに大陸の文化取り入れられた時代であった。この八幡宮は最初の外来文化を取り入れられ、わが国の発展を図られたことがその第一の御神徳とされた。もう一つは神功皇后と応神天皇とは御母子であらせられるので、古くから「母子神」としての信仰が盛んである。いま九州方面に多い「聖母神社」は八幡神を祭ってはいるけれども、その母子神信仰において祭られている。例であるが、八幡さまはその限りない慈しみのゆえに、わが子に正しく強い心を合わせ持つようにと教えられた。ここでもムスビ(産霊)信仰がその根底に流れる点を見出すことができる。このようにまことに多角的なご神徳を有せられるのが八幡信仰のもとになっている。こうして八幡さまは一般民衆の根強い信仰をあつめ九州博多の筥崎宮をはじめ全国に約二万五千社が祭られている。(境内掲示板より) | ||
金比羅神社【印西市木下】上町観音堂の入口付近に鎮座。天保5甲午歳3月吉日とあるのだが。五の文字が”六”にも”亥”にも見えなくもなかったのだが甲午で5年と確定。同敷地内には尾鑿山(おざくさん)神社の石祠もあるのが見える。(印西市木下777付近) |
||
下町浅間神社【印西市木下】拝殿裏に大型の石祠が鎮座。”木花開耶姫命”で文久3年癸年(1863年)と見える。台座部分には竹袋始め布鎌・平岡・瀧村などが見え、比較的広域の信仰を集めていたようである。その他の手水鉢が2基があり、大きい方が天保14年(1843年)で小さい方は風化激しく読めないが末尾の”四”だけ見える。(印西市木下1507-19付近) |
||
猿田彦大神【印西市木下】右から2番目の石碑が「猿田彦大神」神道系庚申塔で天保13年(1842年)。いちばん左が「加蘇山神社」で明治42年のものである。この神塔は「山根山不動堂」境内にあって、この不動堂には貝化石の大型灯篭が2基ほどあって見所のひとつとなっている。(印西市木下1475-1付近) |
||
弁財天【印西市木下】木下中継ポンプ場脇に鎮座している。風化が激しく”卯”と”十月”しか読めなったが資料によれば文政2年(1819年)の弁財天である。(印西市木下1345付近) |
||
道祖神【印西市竹袋】こちらもまったく読めない大小合わせて3基ほどの石祠。(印西市竹袋824-6付近) |
||
石神様【印西市竹袋】覆屋の扉に小さな窓(隙間?)があり、中を伺うことができる。屋内には小祠と金精神(男根)多数が祀られている。印旛郡誌に記載があり”流行神にして、然して下部の守護神。別所より移し申し候。別所金龍山表に石神と申す塚あり、その辺一円を石神と云う”と。昔より霊験灼(あらた)かであったと伝わる。 ”精力絶倫”が今昔を問わず崇敬の対象であったのだろう。子授け・安産・下の病気の他、五穀豊穣などにも対象が広がっていったのかもしれない。ただ”子孫繁栄・子授け”に付いては道祖神も同様の役割を担っており、二股大根を添えるなどの風習が見られるのでより性的な信仰対象であったのかもしれない。近在でもこれだけ多くの金精神が祀られている所は見たことが無い。 (印西市竹袋875付近) |
||
加蘇山神社【印西市竹袋】明治27年、尾鑿山(おざくさん)神社の石碑は明治9年。竹袋青年会館裏手に鎮座。 (印西市竹袋140-1付近) |
||
竹袋稲荷神社【印西市竹袋】本殿は極彩色の流造、神紋はお賽銭箱に「稲荷宝珠」、本殿には「宝珠」紋が見える。灯篭は参道に享和2年(1802年)・明治・大正・平成のものが4対、離れて1基見える。神使の狐は大正のもの。手水鉢は風化激しく年期見えず。境内社には、天照皇大神宮・山王○○大神・大六天・蚕影山神社・加蘇山神社・疱瘡神など多数あり。また富士塚には木花開耶姫尊”とある。関連史料として”利根川図誌には、神宮寺であった三宝院の”稲荷山神宮寺三宝院と称す。本尊如意輪観音の腹臓に応仁元年(1467年)の奥書”の事が記されている。北側台地の城山には、平将門の出城伝承や将門の井戸などの旧跡が残っている。古くからの交通の要所で開けていた土地であったのかもしれない。同様の近在地区の中で、稲荷神社が唯一鎮守とされている事に非常に興味を覚える。表参道には朱色の両部鳥居があって、一度低地まで下りて再び参道を登って行く。裏参道側には駐車も可。(印西市竹袋141) |
||
竹袋稲荷神社縁起:御祭神 蒼稲魂命(うかのみたまのみこと) ウカノミタマノミコトは一切の食物を司り殊にその根源たる稲の生産豊穣を守護される神である。 正応元年(1288年)京都伏見稲荷神社より勧請されたという。 永徳3年(1385年)里見家より良材を筏に組み寄進、更に造営せられる。 元亀2年(1571年)領主近藤石見守代官長谷川彦之丞をして再建せしむ。 慶長7年(1602年)徳川家康公検地の際 田方八畝歩朱印地となる。 元和元年(1615年)社殿修復する。その時の棟梁は鳩谷伊兵衛にて、ほか大工5名。 承応3年(1654年)再々建の旧記あり。 享保14年(1729年)三宝院17世 栄順の代に京都吉田殿から宗源宣旨を受ける。 享保中期 社前の器物や神輿が整備され、木下への「御浜下り」が始まる。現在の木下のお祭のおこりである。 明和6年(1769年)本殿・拝殿・石段竣工。 大正4年(1915年)幣帛料供進の神社に指定される。 (境内掲示板より) |
||
天満宮【印西市竹袋】印西市総合福祉センター南東側の裏山頂上に鎮座。東側に参道がある。覆屋内に本殿があり神明造、内千木、鰹木無し。御影石の手水鉢は昭和10年のもので正面に”五ツ木瓜に四ツ菱”紋あり、また手水舎には「天神山」の札があった。麓の参道入口に白木鳥居がある。(印西市竹袋608-3付近) |
||
豊作稲荷神社【印西市竹袋】旧本埜村境、鳴沢地区に鎮座。開拓碑によれば鳴沢は「大部分が個人所有の山林であったが昭和9年小作農地として開墾、戦後農地改革により大部分が自作農として発足した」と。高台の東側に参道入口があり、朱色の鳥居が二基見える。本殿は、これも朱色の流造風覆屋。 (印西市竹袋1755-23付近) |
||
熊野神社【印西市別所】金龍山宝泉院地蔵堂脇に鎮座。覆屋内の本殿は流造か。神紋は「三ツ巴」が見える。手水鉢は昭和62年、狛犬は平成12年、鳥居は平成8年のもの。境内社には、月山・湯殿山・羽黒山の三社権現他。宝泉院は天台宗で熊野神社との結びつきが強い宗門である。従って宝泉院開山後の勧請か。この地蔵堂に関しては利根川図誌にも記載があり、承安4年(1174年)の板碑があるとも、原式部少輔の祈願所とも伝わる。ともあれ参道は地蔵堂山門の脇に設置され同一敷地内に並んで建てられていると云うかなりめずらしい造りではある。(印西市別所1013) |
||
当社は伊弉冉(イザナミ)尊・事解男(コトサカノヲ)尊・速玉男(ハヤタマヲ)尊を奉斉し古伝によると延暦年中(782〜806年)に創建せられ天正年中(1573〜1592年)に社殿改造、元文元年(1736年)12月紀州熊野本宮より再勧請、明和6年(1769年)2月改造、安永2年(1773年)に再建す。昭和16年9月24日神饌幣帛料供進指定神社となる。此の時、旧別所区有地を木下町より払下げ社地となす。当別所部落の鎮守として氏子一同朝に夕に神威を仰ぎ神恩を厚み今日に至る。然る処、漸く狭小の為氏子一同恭協一心改築の議を進め社地を千葉北部ニュータウン造成事業に協力した金銭を以て本殿覆屋弊殿拝殿水舎を新改築諸工事を完成し本日遷座奉祝大祭を斉行して氏子相共に神威の弥高を仰いで洵(まこと)に感悦に堪えない。茲(ここに)一同恭敬先人敬神の美風を作興し神の道を誠の道と戴いて西東睦び和ぎて平和を保ち社会の福祉を増進して家運長久に子孫相継いで神徳を発揚して神恩に報ゆるをこと誓い且つ祈って祈念とします。昭和55年11月24日(改築記念之碑より一部句読点・読み仮名・年代等追記) | ||
石神社【印西市別所】印旛郡誌に記載あり「地蔵堂の西十町許を隔て山の半腹に古い”石神社”と名つけたる石あり。その形陽石に類し高さ二尺四五寸許同村岩井某の氏神なりと聞く」。地蔵寺境内(熊野神社の鎮座する地蔵堂とは別の場所)にあって覆屋内を窓から見ると、なるほどその形の石が見える。興味を引くのは台座部分に”弘化3年(1846年)月岡源右ェ門”と刻まれているらしい。利根川図誌にある「水海道のかたわら板橋城主、月岡播磨守の後”月岡源右衛門”という旧家あり」という記述と合致する。(印西市別所1005地蔵寺境内) |
||
弁財天【印西市別所】文化2丑年(1805年)11月吉日の巳待講の石祠。正面の扉で碑名は確認できないが巳待講と明らかなので弁財天と推定。ただこの石祠の胴部分は上下逆さまになっている。(印西市別所629-1付近) |
||
道祖神【印西市別所】正面碑文は剥落して読めない。資料により道祖神と確認。慶応3卯年(1867年)2月吉日、女人講のもの。(印西市別所599付近) |
||
九頭龍神社【印西市別所】別所新田鎮守と思われる。千葉県神社名鑑では旧村社、印旛郡誌では無格社としている。御祭神は”天手力男命”で創立年代不詳であるが文政3年(1820年)庚辰正月再建jの寄附帳記録を残す。本殿覆屋内には石祠を祀り、鳥居及び灯篭は平成22年のもの。資料によれば石祠は文化元年(1804年)のもので御祭神から戸隠神社の系譜か。新田開発に伴う降雨と北側谷地にある池の水等に係る社であろう。(印西市別所94) |
||
皇大神宮(こうたいじんぐう)【印西市宗甫】天照皇大神を御祭神とするも、印旛郡誌には”皇太神宮 皇太神”と記される。本殿流造、神紋は「十二菊」。手水鉢は明治17年10月吉日、境内社には八幡春日社・天満宮・道祖神・仙元宮等あり。宗甫村は延宝4年(1676年)に印西牧内に開発された印西十六新田のひとつ。以前は雑木林と草むらの中の社の印象が強かったが現在はニュータウン開発によって片側2車線の道路脇となっている。(印西市宗甫112) |
||
鳥見神社【印西市平岡】←参照 |
||
八幡神社【印西市平岡】平岡集落台地上、平岡城址と推定される主郭部分に鎮座している。周囲は竹林に覆われているがアプローチ口を間違えなければ、比較的整備された道を辿ることができる。鳥居は平成17年12月、石祠には、”昭和30年旧8月15日石宮に改築す”と記される。手水鉢は明治33年8月15日とある。この手水鉢には、かつて炭素病が流行した記録が記されている。(印西市平岡1009付近) |
||
浅間神社【印西市平岡】上記八幡神社台地の東隣にある独立丘に鎮座。参道入口はJR成田線側にある。鳥居は平成12年7月1日、石祠には明治36年6月1日とある。参拝したのは7月1日の早朝。その日は、「浅間参り」の日で、拝殿前には地元方がおられて{七歳までのお子様がお参りし無事な成長を願う日」だと教えて下さった。また「上の集落(木下・浦部方面)からの参拝は禁忌であるが下から(小林方面)は大丈夫だとも教えていただいた。7月1日は富士山開山の日であって旧暦では6月朔日となっている。(印西市平岡1004-3付近) |
||
水神宮【印西市平岡】年代は風化が進み読み難いのだが”寛○正月吉日”と読めたのだが念のため資料を確認すると寛政9年(1797年)巳年1月吉日とある。場所は将監川支流南岸畑地に鎮座している。(印西市平岡200付近) |
||
|
鳥見神社【印西市小林】←参照 |
|
東大社【印西市小林】上記平岡の浅間神社と谷一つ隔てた高台に鎮座。鳥居に”東大社”の神額。階段を登ると真新しい石祠が鎮座する。3.11の地震の旧石祠が倒壊し再建された。権現様と呼ばれる旧石祠は明治14年9月吉日のもの。参道入口の鳥居は平成16年7月吉日とあり。(印西市小林12付近) |
||
道祖神【印西市小林】大きい方が寛政9巳年(1797年)7月吉日、小さい方が弘化4未年(1847年)4月とある。消防分団の西側T字路にちんまりと鎮座。(印西市小林2711-3付近) |
||
御嶽神社【印西市小林】神紋は「違い山形に三ツ巴」、境内には御嶽講の石祠多数あり。参拝した時には南側の住宅脇からの参道を使ったのだが、北側(成田線側)に続く小道もあり裏参道になっているのかもしれない。下記由来書きにある通り”彦地山”と呼ばれる台地上に鎮座し境内は良く手入れがされていた。(印西市小林2565付近) |
||
「主祭神、国常立命 合祭神 、大己貴命 少彦名命 標高3063米、山頂に神々は住み給えりといった思想を通じ古代人は山は神聖なるもの近づきがたきもの、そしてはるかなる憧れから小祇神の神仰が生れ霊山を神体として崇敬するに至ったものである。山中に祖霊がとどまるとみる山中他界の信仰により御嶽に登る前後にきびしい物忌潔斎を行い白装束で集団的に登拝し両神に奉幣する行事が江戸時代まで行われ、これが現在の御嶽信仰の基底となり母胎となっている。小林御嶽神社は明治2年巳己11月朔日鈴木喜久ェ門邦馬と祭主(神官)道祖土常睦信親によって彦地山に鎮座された。」境内石碑より。 | ||
南弘防帰国稲荷神社「南弘防帰国」にきっと由来があるのでろうが付近に人影なく伺う事はかなわなかった。境内に安政3年(1856年)2月吉日の手水鉢と平成5年の手水鉢、神使の狐は平成4年、鳥居は平成11年のもの。この神社へのアプローチは光明寺の墓地を抜けて来たのだが、実は南東方向に伸びる参道がある。電線に沿って参道を下ると舗装道に出ることができる。(印西市小林1986付近) |
||
八坂神社【印西市小林】こじんまりとした社殿に白い鳥居が印象的な神社。その鳥居は平成22年7月7日。小型の手水鉢は明治34年6月7日、大型の手水鉢は嘉永のもの。社殿裏に境内社がいくつかあるが、風化損傷激しく確認できたものは「猿田彦大神」と「二十三夜塔」の2基のみ。その他風化の激しく読み取れないもの2基と、胴部の無いもの1基あり。社殿脇には彼岸花が咲いていた。(印西市小林1998付近) |
||
浅間神社【印西市小林】浅間山公園内北側に鎮座。右写真の本殿は昭和37年、鳥居は平成13年のもの、手水鉢は嘉永子5年(1852年)9月吉日とあり。その他境内には、冨士講碑など。(印西市小林浅間3-1-1付近) |
||
大鷲神社【印西市小林】浅間山公園南東側に鎮座しているだが、公園側からだと裏から参拝する事になってしまうので正解は東側の道から階段を登って参拝する。拝殿裏に流造の覆屋の本殿があるのが見える。(印西市小林1729-2付近) |
||
大鷲神社由緒 「祭神、天日鷲之命 鎮座、文政13年(1830年)庚寅9月 お酉様で良く知られる此の杜の祭神は、家運繁栄・子孫の創生・商業工業の繁栄の御利益大なるは古くより、多くの人に信仰されており、現代は諸願をも成就祈願されております。 例大祭 11月一の酉の日」拝殿掲示額より | ||
八坂神社・愛宕神社【印西市小林】左側の建物が八坂神社で、右側鳥居が見える方が愛宕神社である。八坂神社の方は中を伺う事はできなかったが、愛宕神社は本殿明治36年再建の石祠、手水鉢はには嘉永6年(1852年)龍舎癸丑6月吉日とある。手水鉢に”龍舎”と刻まれるのは近郷ではめずらしい。鎮座地は小林城跡の一端にあるようで、特に東側から南側に展望が良い。 (印西市小林1551付近) |
||
三十番神・道祖神【印西市小林】鳥居奥の中央の石祠が三十番神で文政13寅年(1830年)10月吉日、右側の道祖神は嘉永元年(1848年)申年11月吉日、左側の石祠は風化により読取れなかった。さてこちらの三十番神であるが、こちらは神仏習合の神様で30柱の神様が毎日、日替で国家国民を守護するとしたもの。天台宗・日蓮宗に関係が深く、近くの西福寺に関係があるのかもしれない。近郷では鎌ヶ谷市と八千代市に各1社鎮座している。(印西市小林1553-1付近) |
||
猿田彦大神【印西市小林】神額に見える様に西福寺檀家が氏子と思われ拝殿内には青面金剛像らしきものが見える。境内には多数の庚申塔はじめ手水鉢等あるが破損風化が進み読取れないものもある。別当寺である西福寺持ちの神道系庚申講となっていたように思われる。(印西市小林1615-3付近) |
||