鳥見神社                 宗像神社比較GO!

鳥見神社は印旛沼北岸内に集中して分布し、その範囲は古代の言美郷にも比定される。一説に大和国城上郡鳥見白庭山の鳥見大明神を勧請したとも言われ祭神には物部氏の祖神を祀る。八世紀初めに成立した「常陸国風土記」に景行天皇が下総国印旛郡の鳥見の丘より霞の郷を望んだとの古伝がある。・・・和泉鳥見神社社務所の張り紙より。
所在地 コメント 一ノ鳥居 二ノ鳥居 神額 神紋 狛犬(左) 狛犬(右) 灯篭(左) 灯篭(右) 手水舎 本殿 神楽殿・神事
富塚
(白井市)
我家から一番近い鳥見神社。最も古い年代は一ノ鳥居の寛政七年である。その後、少しづつ狛犬・灯篭・本殿等が整備されていったのだろう。江戸時代末期頃は灯篭が船橋の石屋さんに発注されているのも面白い。多分狛犬も同様なのだろう。船橋には船橋大神宮があるので腕の良い石屋さんがいたのだろう。また関東大震災では灯篭が倒壊して修理していることも判る。首都直下型の地震が再来すれば同様の被害があるのだろう。大きな地震=灯篭も倒れる地震と言った方が現実感がある。
当社にはその他に歓喜天も祭られている。白井村誌には、川上氏先祖の氏神を一村の鎮守とすると記されている。

明神型鳥居。 寛政七年(1795年)卯歳十一月吉日の銘あり。また「當村氏子中」ともある。

一ノ鳥居と同型。
平成十二年と寄贈者の銘あり。


一の鳥居の神額。「鳥見大明神」と読めるのだが。ここは「トリミ」が呼称です。

左三ツ巴の神紋

裏面に寄贈者の銘。左右の狛犬なのだがお腹の下部に支えのような彫り残しのような部分が見られる。

裏面に安政三辰年(1856年)九月の銘。

安政三年九月の日付と「舟橋 宮坂石工 勘治郎」の銘。中程の部分が新しい。右灯篭参照。

正面に寄贈者名。竿裏面には大正十二年九月地震修理とある。関東大震災で倒壊して部分的に修理をした模様。

右側配置。享和元年辛酉(1801年)九月吉日とあり。

本殿は流造りで東向き。本殿を囲むように屋根が作られている。本殿を囲む石柱には弘化四年(1843年)とある。慶安三年(1650年)の棟札も残されていると言う。

新しい感じの神楽殿。毎年11月3日には十二座神楽が行われ市の無形民族文化財に指定されており使用される道具類も市指定文化財となっている。この神楽は江戸末期に浦部(印西市)から伝習したものとされている。
和泉
(印西市)
ここの神社も由緒は不明。社務所の張り紙には、慶安三年(1650年)九月14日再興、文化十三年(1816年)5月一五日建替え、弘化四年(1847年)修理とある。ここでも表面上の現存する最古の記録は鳥居の安政六年である。その後、手水舎、灯篭と狛犬が整備されていったのだろう。弘化四年は富塚の本殿にもあったが何か関係はあるのだろうか。
明神型鳥居。安政六未年(1859年)八月吉日との銘。
なし
誰がどう読んでも鳥見神社ですハイ。「トリミ」です。

右三ツ巴の神紋。

台部分に寄贈者名がある。年月は確認できなかった。

寄贈者名と明治三一年十二月一五日とある。

明治三一年十二月一五日とある。

明治三一年十二月一五日とある。

右側配置。慶応三卯年(1867年)九月吉日。當村寄進者とあり、名主・年寄 武藤氏の名がある。

流造り。南もしくは東向き。本殿の基礎部分には大正九年七月十日とある。富塚に比べやや小型ながら彫刻あり。
神楽殿はなかったが、秋祭りとして「いなさぎの獅子舞」がある。これは秋分の日(元々は彼岸の入り)に行われる御祭である。境内に案内板があるので参考にして欲しい。また正月七日には「おびしゃ」が行われる。「おびしゃ」とは関東。特に利根川流域に多く伝わるもので、矢を射て吉凶を占うものやお供えをしてその年の幸運を願うものなどがある。
名内
(白井市)
保存状態がかなり厳しい。さらに様々な神様が祀られており、神社の名前すら出ていない状態だ。神社の隣のビニールハウスの農家の方に確認した。話によると最近では地元の方でも鳥身神社と言わず月山神社(月山信仰の碑が目立つので)と言う人も多いらしい。かなり古い神社であることは確かで昔は松の老木などが生い茂っていたそうである。日曜日の朝から親切に教えて下さった。ともあれ他の鳥身神社とはかなり異なったつくりではある。              
靖国型鳥居。明治四十四年四月十三日とある。境内には日露戦争戦没者慰霊碑もあることから靖国型の鳥居を設置したのだろう。

両部型鳥居。元々はこちらの鳥居が一ノ鳥居だったのだろう。鳥見神社で両部型は初めてだ。ちなみにこの神社の北300mに粟島神社があるがここの鳥居も両部型だ。
なし(呼称は「トリミ」)
左三ツ巴の神紋。三つの紋が小さく一瞬見ただけでは三ツ巴とは判らなかった。この神紋は本殿の屋根に3つ並んでいた。上の富塚と和泉は2つであった。
なし なし
安政ニ(一に見えるが)卯年 願主 秋谷氏の銘が見える。

小型の灯篭だが左右の基礎部分の作りが異なっている。

右側配置、屋根は無い。風化が激しく年代は明確には判らないが○(文?)○十年○○十一月一五日とある。

流造り、東向き。基礎部分はコンクリート製。
神楽等の伝承は無い。
神々廻
(白井市)
慶長七丙寅年(1602年)鎮座。元文四己未年(1739年)再建。宝暦二壬申年(1752年)拝殿建立。明和五年(1768年)社殿建替え、寛政七年(1795年)拝殿再建。安政二年(1855年)正一位鳥見神社大和武尊の神位を許可される。(以上、千葉県神社名鑑より)本社は鬱蒼とした森の中にあり、狛犬が拝殿と本殿の間に位置している。
明神型鳥居。大正七年十月とあり。
なし
鳥の字が異字体のようになり、また見の文字が身になっているのがわかる。しかし、同じ神社の名でもこうも違うととは・・・。でも呼び方は「トリミ」です。

写真では分かりずらいのだが左三ツ巴の神紋。

ピンボケになってしまった。台座部分に御即位記念と寄贈者の記載あり。

大正四年十一月十日と氏子中の
文字あり。玉が足下にある。

伊勢講中(正面)と大正十二年三月十九日御神楽奉奏と世話人名あり。

やはり正面に伊勢講中とあり

右側配置。風化が激しく左右側面にかすかに文字があるが判読不能。他の鳥見神社の手水鉢に比べると中央下部の窪みが無い。

流造り東向き。基礎部分は石造りであった。
神楽殿は無いが、灯篭の刻印や記念碑(昭和三十二年十一月吉日の御神楽奉奏)があり御神楽が催されていた痕跡が残されている。
金山
(柏市)
創建等不明。境内諸施設を見ても江戸時代末期頃か。但し本殿を見ていないのと調査不十分な点があるので断定はできない。金山に限らず鳥見神社の所在する場所は中世の城砦址と重複する事が多いが、特にここは切り通しが明確に残っているので印象に深い。また、最も古い年代を推定できるのは手水鉢で、宮筱新田とあるのは現在の藤ヶ谷新田(宮後原)である。塚崎村神明社の後側にあったためこの名がついたようである。この藤ヶ谷新田は享保一九年(1734年)の検地で実質的な村として成立したもので、この手水鉢もこれ以降のものであろう。
昭和十一年五月の新しい靖国型鳥居。単独鳥居で靖国型は初めてだ。
なし
ピカピカの神額。呼称は「トリミ」

神殿の中にあるお神輿にある神紋。左三ツ巴。

大正十年十一月二十三日の日付と柏、石工、浜嶋氏と寄贈者の銘が入っている。

寄贈者名あり。足下に小さな狛犬の顔があり面白い。浜嶋さんの力作だろう。

明治十三年二月吉日とあり。

左灯篭同様。

左配置の手水鉢。文化十五年(1818年)十二月吉日と氏子中とある。

右配置の手水鉢。年代不明、庚申講中、金山村捨九人、宮筱新田三人とある。庚申参りの記念。

本殿とお神輿が収納されている。本殿の建築様式は未確認だが南向きは間違いはない。沼南町史では切妻鉄板葺で明治初期のものと記している。
神楽等の伝承は無いが、当神社より西約3.5kmの塚崎地区に神明神社があるが、ここに十二座神楽が伝わっている。
白井
(白井市)
創建等不明。市役所に問い合わせたところ、本殿は、大正期に富ヶ谷の個人宅に祭られていた建物を移築したとの事。少なくとも江戸時代初期にはあったものと思われるとの返事を頂戴した。ここの神社は不動明王を併設し、また本殿には室町期とされている十一面観音懸仏がある。神仏混交の神社である。
明神型鳥居。正徳三癸巳年(1713年)四月吉祥日とある。
なし
神額がないかわりに額束に直接彫り込んでいるめずらしい例。「鳥見大明神」と彫られている。ここも「トリミ」と呼ばれる。
未確認

大正二年十月とあり。

寄贈者名あり。
なし なし
左側配置。明治十三年七月と寄贈者名がある。

本殿が収納されているが未確認。隙間から見たところ平入形式であるので流造りもしくは神明造りと思われる。(昭和六十二年発行の栞には流造りとある)南向き。
神楽等の伝承は無い。
富ヶ谷
(白井市復)
鎮座不明。旧社殿は慶安元年(1648年)建立されたと伝える。代々当区(富ヶ谷)の産土神として崇め奉る。平成十一年十二月再建。お賽銭箱の沢潟(おもだか)紋も気になる処である。ここの神社は神社名鑑などには掲載されておらず地図等で検索しないと出てこない。白井高校の道から船橋県民の森へ抜ける道の脇の高台に鎮座している。
明神型鳥居。年代は記されていないが、手水石に石鳥居 明治廿三年十二月十日寄附とある。
なし
鳥見神社とあり、呼称も「トリミ」

お賽銭箱にある、「丸に立ち沢潟」の神紋。巴紋以外は初めてだ。元々浦部で使用されていた紋だが宮司さんと氏子さんで相談して決めた。
なし なし なし なし
右側配置。明治廿三年十二月十日 船橋町 宇九市 石工○○ 石鳥居 手水石寄附と寄贈者名あり。
本殿流造り。東向き。平成十一年十二月再建されたもの。 神楽等の伝承は無い。
平塚
(白井市)
平塚は建久年間(1190年頃)には既に記録を残している歴史ある村である。由緒不明であるが現在のところ江戸末期の手水石が最古である。しかしながらこれほどの歴史を持つ村で神社は他に当社より北方にある八幡神社だけであるのでさらに年代を遡る事ができよう。また灯篭の願主には瀧田とあり現在、文化財に指定されている滝田家かその一族のものと考えて良いだろう。
両部型鳥居、木製朱塗り。木製の鳥居の場合の多くは、年代が特定できない。
なし
「トリミ」です。

右三ツ巴。和泉と同じだ。

大正三年三月吉日とある。

左狛犬同じ。

文政八酉年(1825年)九月と願主○○とあり。

文政八年酉年(1825年)九月と願主 瀧田とあり。

右側配置。享和三○年(1803年)九月吉日(○は亥か)と別當延命寺とある。隣の延命寺よりの寄贈がはたまた移動されたか。

神明造り東向き。左右に庇を追加しているので入母屋造りにも見える。明治四十四年修繕の碑がある。
神楽奉納の碑あり。(平成十一年)また神社名鑑には「湯立神事」の記載がある。

(柏市)
伊津美鳥見神社。地図上では伊津美神社となっており、本殿、拝殿の額にも伊津美神社とあり、鳥見の文字は無い。逆に千葉県神社名鑑には鳥見神社となっており伊津美の名前は見えない。創建等不明であるが「安政三年(1856年)六月廿四日 神部○○○○/神祇道管領長上三位卜部朝良○」の古文書を有している。
明神型鳥居。安永九年(1780年)三月十日とある。
なし
神社名鑑には伊津美神社は掲載されていない。トリミと呼びます。

毎度デジカメのテクの無さで申し訳ないのだが左三ツ巴の紋。

明治二一年十月一九日の日付と相馬郡取手 石工 染野氏の銘あり。

記述内容は左狛犬と同じだが、やや風化が激しい。

文化十三子年(1816年)九月吉日の日付

同左。

右側配置。文化七年庚午(1810年)正月吉日 庚申講中とある。

流造り南向き。礎石は天然石なので最近の建築ではなさそうである。沼南町史には明和六年(1769年)十二月再建と記す。
布瀬
(柏市)
神社表の碑には以下の記述あり。(一部抜粋要約)「文武二年(698年)創立。平将門の兵火で焼失、千葉常重により再建。建長2年(1250年)手賀城主 原胤親、文安三年(1446年)原十一代城主、修繕改築す。また、天保九年(1839年)十一月二十四日改築、大正四年にも改築するが昭和六十一年焼失、同六十三年再建。」とある。さて、ここに初めて千葉氏と原氏が出てきたのだが、将門の乱後、同平氏の千葉氏が勢力を伸ばしつつあり、常重は大治五年(1130年)に布瀬郷を伊勢皇太神宮へ寄進し、相馬御厨となした(鏑矢伊勢宮方記)までは他の資料と合致するのだが、それ以降の手賀城主、原胤親は手賀原氏であったのかどうか、また年代的にも建長二年には疑問が残るところである。鳥見神社と千葉氏・原氏の関係は別項の「鳥見神社能書」で取り上げることとしたい。
両部型鳥居、木製朱塗りだが、大分色褪せてきている。
なし なし
(呼称はトリミ)


上 一六菊、下 五三の桐
寛延元年(1784年)、当地出身の暁彗大僧正が京都嵯峨御所より賜る。それ以前の神紋はどのようなものだったのか。

足下に玉を持つ狛犬。慶応二丙寅歳(1866年)十一月吉日の日付と「別當 聖明山 福蔵院 通賢代」とある。また世話人の連名あり。

足下に小さい狛犬を置く。世話人の連名と「石工 布佐村 ○○」とある。

鳥居前に設置されている。文政十年(1827年)九月吉日。面白いのは、火袋が木製である。火袋が木製であるのは初めて見た。

同左。

左側配置。大正六年十月十三日とある。また寄附人名も彫られている。

本殿、神明造りか?切妻平入り形式は間違いない。屋根のグシ正面に一六菊の神紋。キリトビ部分には五三の桐の神紋がある。また、この本殿は唯一西向きである。これは、地形的に東に突出した舌状地の突端にあるため東又は南向きでは参道が取れないためと思われる。
神楽奉納あり。
小名内
(白井市中)
市役所の高花さんに教えてもらった鳥見神社の末社。稲荷神社の中に合祀されているために、構造物の比較はしていない。最も興味深いのは「鳥見講」と言うものが存在していた事である。今現在、どの文献にも見出すことはできない。また地勢的にも他の鳥見神社と異なり高台にはなく金山落しから続く低地脇にある事である。もしかしたら、ナゾを解く一つのキーワードかもしれない。
鳥見神社の末社。「鳥見大明神講中安全」とある。また宝暦七丁年(1757年)十一月とある。
浦部
(印西市)
慶安元年(1648年)鎮座、元禄一六年(1703年)再建、また一部資料には宝暦四年(1754年)修築ともある。浦部地区の産土神として信仰されていたとある。神楽奉納があるためか境内は比較的良く整備されている。車では道が狭いので台地下の観音寺前の広場に駐車可能で、お寺の中の階段を上がると良い。
両部型鳥居。脚部を石(コンクリート?)で補強している。記載なし。
なし
呼称は「トリミ」です。

左三ツ巴の神紋、神楽殿の幔幕などには立ち沢潟を使用している。巴紋は火災除けか。

昭和六三年十月吉日。足下に小さい狛犬あり。

同左。足下は玉。
なし なし
三猿から庚申講とすぐ解る。元禄十三庚辰年(1700年)三月八日、庚申待供養成就とある。また、「下総国印旛郡印西荘浦○(部)村」とある。

流造り南向き。

十二神神楽あり、江戸時代初期に八千代市村上の宮内より移入されたとの伝承がある。
小倉
(印西市)
創建等不明。先代の足跡を尊ぶ事は歴史を学ぶ者にとって大事な事である。しかし、ここの神社の保存整備状態はひどい。社務所は傾き、本殿は修理が必要な状態。よそ者があれこれ言うことではないが、もう少し何とかして欲しい。いくら神様だってツライと思うぞ。
本殿に向かって左側の鳥居。嘉永五年子年(1852年)八月吉日。小倉邑とある。

本殿に向かって右側の鳥居。くさび部分は風化して一部が残っているだけである。年代不明、「小倉村 氏子中」とある。
なし なし なし なし なし なし 明治二十丁亥歳春三月とある。右側の鳥居の左側に配置されている。
本殿と思われる一番大きな社。その右側には狛犬の配置されたこれより小型の社も祀られている。その他にも社がいくつかあった。
なし
平岡
(印西市)
「延宝六戊午年(1678年)雪月吉祥日、隣村大森村より鳥見神社の御神璽を戴き、大森村の名主宮島猪左エ門外一同来り。平岡村の名主深山伊左衛門御幣を深山太郎兵衛奉持みこしのもと四郎左衛門藤左衛門甚兵衛五左衛門奉仕して来り、当社に奉斎」の棟札が現存している。それを裏付けるように手水鉢に「深山」の名が見える。子孫の名主か一族であるのだろう。
明神型鳥居。神額は無い。年月日など特定できず。

一ノ鳥居に重なって見えにくいのだが両部型鳥居。

文字が薄くなっているが鳥見神社と書いてある。呼称はトミ」である。

左三ツ巴の神紋

昭和二十六年九月二十日とある。

左狛犬より半年遅れの昭和二十七年四月十八日。

嘉永六丑年(1853年)九月吉日と願主の銘あり。

文化元年甲子(1804年)三月。左灯篭と比べやや太く、建立も50年違う。

右側配置。天明四辰年(1784年)當村深山とあり。

流造り東向き。
獅子舞あり。表の看板よると「文明年間(1469〜1486年)より悪魔払い、豊作祈願に行われる。その祭日を「オコト」と呼ぶ。獅子頭は、室町初期のものでその形状は古式を伝えるものとされている。」県指定無形民俗文化財に指定されている。(一部要約抜粋)また元々は大森鳥見神社に伝わる獅子舞・獅子頭が延宝7年に当社に移されたとされる。
大森
(印西市)
創立は崇神五年(紀元前93年)と伝う。大同二年(807年)再建、貞観三年(861年)修繕、応安二年(1368年)再建、永禄元年(1558年)改造再建、寛永十三年(1636年)再建、延宝四年(1676年)修繕、文久三年(1863年)再建、大正二年拝殿、煉瓦玉垣を建築し現在に至る。(千葉神社名鑑より)紀元前の創立と伝えるのは他に小林がある。ここの神社はよく整備されていて気持ちが良いぐらいだ。
元禄十二年己卯(1699年)五月吉日。また奉延○天門成就之所と銘がある。これまでで最古の鳥居だ。
なし
彫りが薄くなってはいるが「正一位鳥見大明神」とある。神額の作りが和泉のものと似ている。呼称はトミ」。

左三ツ巴の神紋

大正五年の狛犬。かなりスリムだ。当社には平成十三年の大型の狛犬もある。

同左。
なし
嘉永六年癸丑(1853年)四月と連名あり。火袋は喪失したようだ。左灯篭は無い。また平成の灯篭左右2基もある。(写真左に少し写ってます。)

左側配置。嘉永二年(1849年)講中と連名あり。

流造り東向き。
平岡に伝わった獅子舞は大森から移したものだが、ここ大森には延元3年(1338年)南朝方の北畠顕家の落人である渡辺氏によって当地にもたらされたと言う。渡辺氏は先頃まで神官家を伝え、獅子頭も落ちてきた時に持参したものと伝わる。
小林
(印西市)
創立は崇神五年(紀元前93年)と伝えられ、印西十八ヶ村の総社とされる。永禄十一年(1568年)三月一九日千葉介胤富が本拝殿を改築。千葉城主・布川城主(豊島氏)・臼井城主(原氏)等も天下泰平・五穀豊穣を祈願され、現存の社殿は安永六年(1777年)造営。明治十二年郷社(村社より上格で地方官の管理下にあるもの)に列す。地名辞典には、「大和国城上郡白庭山鳥見大明神を勧請したと伝わる。」と記している。また鳥見十八社の総社とも伝える。現神社より北の利根川を望む台地に旧鳥見神社跡があり神紋の一六菊も後から賜ったものであろうか。鳥見神社の中では、最も有力視される所だがまた謎の多いところでもある。
靖国型鳥居年代等不明。境内に日露戦争戦没者慰霊碑があり、その時に靖国型鳥居にしたのだろう。
なし なし(呼称はトミ

上部はグシにある一六菊
下部はキリトビ部の左三ツ巴

昭和一九年の狛犬。その他に
2基平成の狛犬有り。

同左。

年代等の記名なし。

同左。

鳥居前右側配置。安政二年(1855年)九月吉日と寄贈人名あり。
拝殿脇の神武天皇の祠にある手水鉢。享保二(?)(1717年)七月吉日と鳥見大明神と彫られている。

流造り南向き。
おこと祭り
笠神
(印西市)
鳥見・愛宕神社はかつては別々に分かれていたようであるが文政十年頃(1827年)合祀された。周囲は平地であり神社は丘の頂上に鎮座している。通常は谷津に沿った舌状地にあるが、この鳥見愛宕両社は独立丘にある。祭神は饒速日命と火産霊命である。
両部型鳥居。
なし
呼称は「トリミアタゴリョウシャ」である。

左三ツ巴
なし なし
鳥居前にある大型灯篭。昭和のもの。

同左。

右側配置。文化九年(1812年)九月の銘あり。

流造り南西向き。
なし
中根
(印西市)
創立は崇神五年(紀元前93年)と伝えられ、治承四年(1181年)源頼朝が印旛浦遊覧の折に参拝、良田三町を給う。現在の本殿は宝暦九年(1759年)再建、拝殿は昭和三年改築された。ここを訪れた際に、境内の集会所で婦人会があり、話を聞く事ができた。それによれば、鳥見の総社は中根であって、宮司もこの下(神社は台地上にあるので、台地下の意)に居て、小林(印西市)の宮司も兼ねていると言う。「小林は人が多いから立派だけど本家はここだからねっ。」と力説していた。ここの本殿は西向きであって他の鳥見神社とは異なる。布瀬も西向きだが地形的な制約がある。ここは特段の地形的制約があるとは思えない。また、金毘羅講がある事から、印旛沼の漁業・水運の影響が及んでいたことが判る。
両部型鳥居。まだ朱色が新しい。
なし
呼称は「トミ」である。但し、中根北部の戸崎地区ではトリミと呼び、トミと呼ぶ地区もある。ここでは千葉県神社名鑑の呼称のトミとした。

屋根のグシ部の左三ツ巴

神紋ではないがキリトビ部にある「鳥」マーク。面白いので掲載してみました。
なし なし
明治三十年十月、金毘羅講とある。

明治三十年十月、伊勢講とあり。

右側配置。明治三年。

境内奥の手水鉢。明治二年。

流造り西向き。

神事は豊富で、「オビシャ」・「オコト祭り」・「獅子舞」・「十二神神楽(大和神楽)」がある。十二神神楽は文安年間(1444〜1448年)に始まり、使用する面は宝暦元年(1751年)のものである。尚、神楽は県指定無形民俗文化財に指定されている。
長門屋
(印西市)
千葉県神社名鑑では所在地が本埜村長門屋となっているが地図上では笠神か?柏太郎氏に教えていただいた。また本埜村教育委員会の杉山氏にも情報をいただいた。印旛沼干拓地を突っ切る土手上の道の脇に鎮座している。本殿は平成十七年九月に再建したが、その際に古い構造物(手水石)が隅に置かれてしまい再調査できなくなってしまった。やはり、古い時代のものはなるべく残して欲しいものだ。
鳥見神社唯一の鹿島型鳥居。昭和三十六年八月とある。
なし なし
(呼称はトミ

左三ツ巴
なし なし なし なし
○和七年卯とあるが年代と干支が合致しない。

平成十七年九月再建。神明造り。
なし
萩原
(印西市)
創建等不明。探し出すのに苦労した神社。本埜村萩原飛地内にある。地元教育委員会でも掌握していないらしく、またゼンリンの住宅地図では白山神社となっている。印旛沼干拓の歴史からして江戸時代以降に鎮座したと考える。比較的新しい神社でもトミと呼ばれているのも興味深い。境内にはやはり金毘羅講の碑や道祖神の祠がある。
平成八年十二月吉日とある。
なし
長柄神社との合祀。ここも呼称はトミである。

鬼瓦部にあった左三ツ巴。正面グシ部には無い。
なし なし なし なし なし
平入り造りとでもしておこうか。南向き。
なし
萩原
(印西市)
由緒等不明。印旛郡誌には、古老の口碑として「大和国城上郡萩原(灰原)の鳥見神社を分霊勧請した。」と記す。また、千葉介清胤の寄附により拝殿鳥居を再建、相馬郡布川城主豊嶋主膳正依云々とある。千葉介に清胤なる人物は見当たらない事など印旛郡誌の信憑性の問題も浮上する。谷津からやや奥まった地に鎮座している。比較的良く整備された神社。構造物から見て、新田開発の跡が窺える。また、中根にもあったが伊勢講・金毘羅講がかつては盛んであったようで、本村南東部から印旛村北部にかけての一帯に広まっていたのだろう。金毘羅講の痕跡は印旛沼低地一帯にあり印旛沼の水運などの影響があったのだろう。
両部型鳥居。
なし
拝殿にあった神額。鳥居の神束部に4本のフックがあった為、鳥居の神額を拝殿に移したと判断した。呼称は「トリミ」である。

左三ツ巴

明治七年伊勢、金毘羅講中とある。

○○○新田 石工 吉○郎とあるが不鮮明。

消直新田 萩原五兵エ 嘉永五子年(1852年)とある。消直新田とはどこかは不明。

同左。

右側配置。銘はあるものの風化激しく不明だが比較的新しい。

境内奥の手水鉢・天保九戌年(1838年)四月吉日 當所 中村利左エ門とある。

流造り南向き。
なし
小林町歩
(茨城県
河内町)
利根川を挟んだ栄町の対岸、茨城県河内町にある小林町歩。本殿内には2枚の墨書板が保管され縁起等を記す。その中の1枚に鳥見大明神とある。明暦年間(1655〜1658年)に印西市小林の川村七右衛門が開拓入植した。印西市の鳥見神社を鎮守として勧請したと考えられ、読みは「トミ」か。近所の方の話では「産土さま」と呼んでいる。
靖国型鳥居。明治百年記念十二月吉日と左柱にある。昭和四十三年に建立と書き足している。
なし なし なし なし なし なし なし
左側配置。明治三十四年旧九月吉日とある。

覆い屋根の中にある朱色の本殿。流造り西向きだ。内部には2枚の墨書板が保管され縁起等記す。
なし
正直町
(茨城県牛久市)
茨城県神社誌によれば、牛久市正直町の皇産霊神社の境内社に「鳥見社」が祀られている。茨城県神社庁稲敷支部さんに問い合わせたところ、境内社に関する記録がなく縁起不明。牛久への移住者が持込んだ可能性があるのではないかとのことであった。
上の写真は「権現宮」境内には神祠が3基あるのだが、「鳥見社」の祠は見つからず。元禄期のもの。
番外編
榛原
(奈良県
宇陀市)
元々は天神社で皇祖天神をお祀りしている。麓の墨坂神社との間で合祀・分祀を何度か行ったと宮司氏からお話を伺ったが千葉県の鳥見神社の分祀元との確証は現在のところ無い。
明神型の鳥居。柱の間隔が少し広い。
なし
鳥居に比べ神額は年季を感じさせる。
なし なし なし なし なし なし
本殿は三間社流造り。勝男木と千木を備えている。地元郷土史家によれば明治時代に飛鳥のものを移築したと言う。
なし