所在地 | コメント | 一ノ鳥居 | 二ノ鳥居 | 神額 | 神紋 | 狛犬(左) | 狛犬(右) | 灯篭(左) | 灯篭(右) | 手水舎 | 本殿 | 神楽殿 |
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清戸 (白井市) |
清和天皇の御代貞観十八年(876年)創建。慶長八年(1603年)再建、天保二年(1831年)建替え。天保二年より清戸・谷田両地区立会いのうえ神輿を出して祭典を行う。両地区隔年の当番となる。また、印旛郡印西内郷の総鎮守とされており、宗像大明神が下総に鎮座したのは当社が最初と伝わる。下総宗像神社の分布の西限に位置しており、境内構造物を見ても清戸・谷田両村の鎮守であり神崎川左岸地域である事、東隣の薬王寺に伝わる版木によれば、当地は平安期には入り江であった事も重要である。また、近くの「清戸の泉」には龍神降雨伝説が伝わるのにも興味を引かれる。 | 明神型鳥居。左柱に「明治一六年十月吉日建立、昭和六十一年十二月吉日再建」。右柱には「清戸区・谷田区氏子中」とあり。 |
なし | 左三ツ巴 |
願主 湯浅七郎右衛門 他寄贈主の銘あり。 |
谷田邑氏子中、願主、寄贈者名あり。また文久二壬戌年(1862年)九月、船橋川端 石工 長十郎と銘あり。 |
銘は左獅子と同様だが竿部に文久二年とある。 |
右獅子同様。 |
右側配置の屋根付き。寛政七卯年(1795年)十二月吉日と願主の銘あり。 |
本殿南向き流造り。 |
オビシャ・湯立て神事あり。 | |
戸神 (印西市) |
戸神・武西両村の産土神。境内の案内板には以下の記述あり。「鎮座年暦不詳、大正十三年三月の火災により記録文書焼失。一千年程前、当地がまだ内海だったころ、宗像十三社・鳥見二十社・麻賀多十七社が全国的にも類を見ない特異な形態で配祀されている。こうした状況から3社共、同一年代に鎮座したものと考えられ、当宗像神社も9世紀後半に創設されたと推定される。」3社同時鎮座と9世紀後半創建説を唱えている。 | 明神型鳥居。平成一六年九月吉日。 |
なし | 左三ツ巴 |
平成一六年九月吉日と寄贈者名あり。 | 同左。 | 同左。 |
同左。 |
右側配置。平成一六年九月吉日。 | 覆い屋根で判り難いが、本殿東向き流造り。 |
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船尾 (印西市) |
創建年代不詳。元文二年(1737年)「正一位宗像大明神」の宣旨を給わる。宗像神社史はこの年を創建と伝える。この神社に隣接する小学校と郵便局は、どちらも船穂となっているが「和名抄」に船穂郷と記されているためだろう。この神社には鳥居が無いのだが、鳥居を建立しようとしたところ、水害に襲われたため、それ以後鳥居の建立はやめたのだと伝えられている。付近の戸神川沿いには西根遺跡があり「舟穂郷生部直弟刀自女奉」と「大神」と記した9世紀の墨書土器が出土している。大神とは何を示しているのか興味深い。 | 左記の理由によって鳥居の上部構造物はないが「台石」と呼ばれる土台部分のみが拝殿前に。平成10年10月吉日。拝殿左手の境内社にも台石(明治期)のみ存在する。 |
なし | なし | 左三ツ巴 |
大正七年(1918年)とあり。また御神燈獅子奉納・寄贈者名あり。 |
同左。 |
年代不詳。狛犬にあった御神燈とはこれか。これとは別に平成十年の小型灯篭あり。 |
なし | 左側配置の手水舎。鉢は平成十年とある。このほかには本殿脇の末社に数個の手水鉢があるが年代等は不明であった。 |
本殿南向き流造り。 |
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吉田 (印西市) |
明治四十一年十月二三日神階正一位宗像大明神に列格。創建年代等不詳であるが筑前宗像から治水・水運の神として創祀したと伝えられる。鳥居は大森鳥見神社の元禄十二年に次ぐ古さ。鳥居に刻まれている文字、手水石の神紋など再度調査したい。(隣の家の犬が吼えてドキドキです。) | 明神型鳥居。左柱に元禄十三年(1700年)庚辰五月朔日(1日)同村寄贈者名あり。右柱には「下総国」以下ブロック塀により塞がれる。また、「奉造 立石○○宗岳中安全施主○○祈○とある。 |
なし | なし | 右三ツ巴。宗像神社では初めて。 |
なし | なし | 昭和六一年十一月吉日と寄贈者名。 |
同左、 |
左側配置。右側の手水鉢が古く、寛政九年(1797年)六月吉日/ 吉田村とある。鉢石正面には神紋の右三ツ巴が入っている。 |
本殿南向、流造り。 |
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岩戸 (印西市) |
千葉県神社名鑑には古文書を喪失し縁起不明とあるが、宗像神社史には文化三年(1806年)とあり、実際に地元香取家に伝わる古文書には文化四年の記載がある。岩戸郷七ヶ村の惣鎮守と口伝されまた、岩戸、師戸、鎌苅、造谷、大廻の氏神とされている。 | 朱色がまだ新しい両部鳥居。 |
なし | なし | 右三ツ巴 |
平成一六年十月吉日。 |
同左。 |
「南海の孤島」とあり太平洋戦争戦没者関係と思われる。 |
平成元年十月吉日。 |
右側配置。下総国以下不明、奉納御寶、岩戸村とあるが、風化が激しく判読不明。 |
千葉県神社名鑑には八幡造りとあるが、流造りの千鳥破風付の様に見える。屋根正面に張り出し(破風)がある。 |
「葉書きの木」、葉の裏に尖ったもので願い事を書くとかなうと書かれている。その他、鳥居脇にお御輿がある。 |
大廻 (印西市) |
創建年代不明。ゴルフ場の東側に鎮座。鳥居はそのゴルフ場から寄贈されたものらしい。燈篭及び狛犬は無いが、神紋の八菊はめずらしい。なにか云われがあるのかもしれない。 | 明神型鳥居。昭和四十九年十月吉日。右柱に「総武カントリークラブ」だって。鳥居にカタカナが入っているのを初めて見た。う〜ん、センスの問題か。 |
なし | なし | 八菊の神紋 |
なし | なし | なし | なし | 右側配置。文化十(1813年)年九月吉日。 |
本殿東向き、流造り。 |
なし |
造谷 (印西市) |
寛永九年(1632年)創建。村の鎮守で宗像大明神と呼ばれていた。師戸川支流近くに鎮座している。ここ造谷や大廻などの村は戸数が少ない為に構造物も少ないのであろう。隣には真珠院(天台宗)がある。 | 明神型鳥居。記銘は無かったが比較的新しいものと思う。 |
なし | なし | 左三ツ巴 |
なし | なし | 竿部に「明■」と見えるが風化が激しい。火袋を失っている。地震等で倒壊したか。 |
竿部・火袋・宝珠を失っている。右灯篭の前に古い燈篭1基の跡がある。 |
右側配置。明治十三年辰二月吉日と寄贈者名あり。 |
本殿東向き、流造り。 |
なし |
師戸 (印西市) |
宗像神社史によれば創建は元和九年(1623年)である。江戸時代の構造物が少なく比較的新しい印象を受ける。しかし近くの印旛沼公園は師戸城址であり、古くは鎌倉時代後期の師戸四郎(臼井家家臣)の居城と伝えられている。村自体の歴史は鎌倉時代後期まで遡れるのでその頃からの鎮守があるはずであるが、近くには金毘羅神社があるのみで、しかも低地部(海抜6〜8m)なのでで、当宗像が鎮守であるか、他にあった可能性が高い。 | 昭和十一年十月吉日と土佐石材と刻まれている。 |
少々判りづらいが両部型鳥居。 大分退色しているが島木部分に少し朱が残っている。 |
左三ツ巴 |
小○村○助とある。台座部分が無く地面に直置きしている。 |
昭和二年十月とある。昭和にしては、風化が激しい。 |
天保十三寅年(1842年)九月吉日、常夜灯とある。火袋欠。この他大型灯篭一対は、昭和五十八年のもの。 |
同左。形も大きさも上の造谷と同じようである。この形状の燈篭は鳥見神社などにもある。 |
右側配置。正面に「奉」とかすかに読めるが以下は不明。 |
本殿東南向き、流造り。 |
なし | |
鎌刈 (印西市) |
地図によっては鎌苅とも記す。元和四年(1618年)の訴状には「蒲刈野」と見え、寛永二年(1625年)の知行宛状には蒲苅村とある。記録では明和八年(1771年)運上金を支払い印旛沼への入会権を得たとされる。燈篭の年代が安永であるので符合するところを見ると鎮座年歴もその頃か。 | 左柱には明治三十九年三月建之氏子中とあり、右柱には同年月と凱旋紀(紀)念とある。前年に終結した日露戦争の凱旋記念であると思われる。 |
なし | なし | 左三ツ巴 |
なし | なし | 2対ある燈篭の内、奥側にある年代の古いもの。「奉讀中臣講中一六人」と安永七年(1778年)一月吉日。 |
こちらも安永の年月と「願主男女・・・」とある。ちなみに新しい燈篭は明治二十九年のもの。 |
右側配置。年代は風化が激しく明確に確認できないが「十二月」との文字は読み取れた。 |
本殿南向き、流造り。 |
なし |
瀬戸 (印西市) |
寛和元年(985年)筑前宗像から宗像大明神として勧請創建。文政十年(1827年)堀田藩主より上田・幣帛の寄進を受ける。天保十二年(1841年)宗像神社と改称。古来より治水水産の神として崇拝を受ける。創建の寛和元年は宗像神社史と合致する。 | 両部型鳥居 |
なし | 左三ツ巴。 |
なし | なし | 3対ある灯篭で最も年代の古く、 寛政二年(1790年)のもの。 |
3対の内、他の2対は昭和のものと コンクリートでコーティングされて 年代不明がある。 |
右側配置。寛政十年(1798年)十二月 吉日 別當 常宝寺とある。 |
南向き、流造り。 |
奉謝祭・おこと祭 | |
山田 (印西市) |
景行天皇四十一年(111年)倭武命東征の折、仮宮を造営し筑紫宗像神社を奉斎し鎮撫祈願をした。同五十三年、葛飾野御狩の時に参拝され宗像宮と号す。また応神天皇の御宇、印旛国造伊都許利命奉祀すと下総風土記に記す。当社の縁起も宗像神社史とほぼ一致する。 | 平成一六年三月の石造り両部型鳥居 |
なし | 神紋は確認できず。鬼瓦には「宗像神社」の文字が・・・。 |
なし | なし | 2対の内、年代の古い天明八○申年(1788年)十二月吉日 願主 藤代〜とある。 |
同左。もう1対は文政十三年(1830年)江戸本所三つ目 願主 万屋兵四郎などあり。 |
左側配置。花崗岩製で明治二十九年(1896年)十二月とある。正面に薄っすらと紋らしきものがあるが判別不能だった。 |
南向き、流造り。 |
なし | |
平賀 (印西市) |
応神天皇の御代(201〜310年?)、印旛国造伊都許利命が印旛の治水と殖産振興を計って当地に宗像三神を祭った。「開かれる所」の意より平賀の地名が出来たと伝える。天平年中(729〜748年)、別当神宮寺盤若院を建立、明治維新で廃寺となる。旧号宗像大明神、明治二年に宗像神社と改称される。天慶(938年)・治承(1177年)・天正(1573年)・慶安(1648年)・文久(1861年)年間に各本殿建替。取材の日は風が強く、森の木の枝が折れてドサーッっと落ちるわ、どこからか猫の鳴き声がするわで、スゲー怖かった。 | 石造り両部鳥居。 |
なし | 一六菊と右三ツ巴 |
平成十四年九月吉日 |
同左 |
拝殿前に4対の小型燈篭があり一番奥から宝暦九年(1759年)、昭和六十年、天保八年(1837年)、大正年間となっている。その他には、栄町篠崎石材店やら願主〜、香取(神主)の銘が入っている。 |
拝殿前の他に参道入口に大型灯篭1対があり弘化三年(1846年)。また、参道中程にも大型灯篭1対があり平成五年製で皇太子殿下御成婚記念と記されている。 |
右側配置。手水鉢は2基あるが写真は古いもの。文化六(1809年)巳巳年九月吉日、當村願主 深山〜、神主 香取左迫とあり。 |
南東向き、流造り。 |
なし | |
吉高 (印西市) |
天暦二年(948年)筑前国宗像から三女神を勧請して社殿を創建したと伝える。以来宗像大明神と称せられ治水・水産の神として尊崇された。神官香取氏は代々その職を継ぎ、弘化二年(1845年)宗像神社と改称された。宗像神社には狛犬が配置されたものは少ない、その代わりに燈篭は数多く設置されている。また印旛村東部(瀬戸・山田・平賀・吉高)と西部(岩戸・師戸)では造りが異なっている。 | 神明造り。柱の間隔が広く垂直に近くなっている。 |
なし | なし | 右三ツ巴。由緒書には楢(なら)の葉となっている。北九州の本宮も同じ楢の葉の神紋である。 |
明治四十四年十月十五日、願主 富井重左衛門とある。 |
社掌 香取兵吉代と記されている。頭部の小さい狛犬である。 |
燈篭は3対あり、奥から昭和四十八年、明治三十八年、享和三年(1803年)の順。、写真は享和のもの。霜月吉日、當守 香取主膳とあり天照大日尊他、三夜燈と記されている。 | 左と同じ奥から3番目の燈篭であるが文化十三年(1816年)十一月吉日、常夜灯とある。左右1対でなく独立した燈篭である。ちなみに他の2対は通常の左右同じものである。 |
右側配置。安永八(1779年)巳亥三月吉日、神主 香取筑前守、名主 富井莪右ェ門と記す。宗像神社の神主さんが筑前守の官位とは面白い。 |
本殿南向き、流造り。千木と勝男木を備えている。 |
奉謝祭・祇園際あり |