「もう帰るぞ、俺は」
その後、世界の動向や新しい勢力の台頭、諸問題をぽつぽつと情報交換した後、しばらくしてクラウドは立ち上がった。
ああ、とルーファウスは相槌を打った。
しかし次の句が継げない。
差し込む光は中天から西の空へと傾いていた。
腰掛けたクラウドが室内の壁へと長い影を作っている。
「どうした?タークスを呼べばいいのか」
じっと自身の点滴針を眺めて微動だにしないルーファウスにクラウドは痺れを切らして尋ねた。
「クラウド、61階の部屋のことを覚えているか?」
 押し黙ったまま行け、とも行くな、とも言わなかったルーファウスがそう切り出したのは、クラウドの手のひらが彼の左腕に触れた時だった。
「何の事だ」
「あの部屋だ。七年前、植物園でお前にチェスの代打をやってもらった」
言わんとする的を得ない質問だった。
「それがどうしたんだ。悪いが、俺は思い出話をお前と語るために来たんじゃない」
 出した手を引っ込めると、彼は顔を上げた。
「あの場所はまだあるんだ」
クラウドを的確にその視線が捉える。
「あの標本室が?」
当て付けにもルーファウスは動じなかった。
しかし何故?
神羅ビルは二年前にメテオに再起不能なほど破壊され、その廃墟は未だ残骸をミッドガルの中心に晒している。
 そしてつい最近、再度の災厄にかつての英雄と自分との戦いの中で、とどめとばかりに切り刻まれたばかりだった。
あの激しい戦闘の後では、在りし日の姿を保っていられるはずはない。
 白い花が咲き乱れる整備された緑色の小さな森は、神羅ビル高層部で人知れず破壊されたはずだった。
「私が生きているくらいだ。あの部屋が残っていても不思議ではあるまい?」
 それが本当なのだとしたら、何らかの手を打たなければならない、とクラウドは思った。
宝条の研究はそれが小さな萌芽でも強烈に人の探究心を刺激する。
彼のミームに同調する後継者はいくらもいるのだ。
元をただせば、本来それはガスト博士の研究だが、その結果を何らかの実用に転化したくなるのは人の性だ。
過去、それを嫌というほど思い知らされたクラウドは自然警戒した。
「本当か?」
「本当だ。今も七年前とそっくりそのまま同じだ」
主不在のまま。とルーファウスは付け加えた。
「どこにあるんだ。どうして今まで野放しにしていたんだ?」
 感傷か?と続けようとしたが、結局クラウドはその言葉を飲み込んだ。
 ルーファウスは突然腕を真っ直ぐ伸ばすと、壁際の大きな水槽を指差した。
水槽には水草が漂い、芝生のように苔生した水底に流木や美しい岩目の石が配置されている。
その間を魚や、絶えず送り込まれる泡が涼やかな水音を立ててひしめき合っている。
典型的な観賞用アクアリウムだ。
「あれがなんだ?」
「見てみろ」
言われるままに水槽の前に立つと、透明な水が波打っているのが分かった。
中の水草や藻がたおやかに揺れ、泳ぎ回る様々な色をした魚たちを包んでいる。
「これがどうしたんだ」
 水槽の前に立つと自分の影がそこに濃く落ちる。
しかし、魚たちは少しも気付かないようでめいめいが好き勝手に回遊している。
「わからないか?」
窓辺を背にルーファウスが言う。
逆光の中、その瞳が青く底光りするのをクラウドは不思議な面持ちで見つめ返した。
「言えよ」
「それは幻影だ。立体映像(ホログラム)だ」
手を入れてみればわかる。
高い透明度を湛えた水面はとてもそうは思えなかった。
だが、言われたとおりに指先を水面に滑らせようとすると、それはまるで陽炎のようにクラウドの指先からするりと逃げた。
石も、魚も、水草も、まるで掴めない。
脳が、あまりに精巧な騙し討ちに混乱して一瞬眩暈がした。
 ただ大きなガラスの水槽だけが、その映像を映す箱の役割を演じ続けている。
「何だこれ」
 確実にそこに存在していると認識されるがゆえに、手に掴めない違和感は筆舌に尽くしがたいものがあった。
青い尾びれを優雅に広げて漂う名も知らない魚が、動揺するクラウドの手指の中をそ知らぬ顔ですり抜けていく。
「これもあんたたちお得意の神羅の技術?」
 水槽の中から手を引き上げると、もちろん少しも濡れていなかった。
別の冷たさが指先に宿る気がした。
空っぽのガラスケースはいつか見た額縁の中の神羅社旗を思い起こさせる。
「そういうことになる。それで本題だが、このことで思い当たる節はないか」
 ルーファウスは謎掛けのように言った。
「結論から言ってくれ」
 ルーファウスの絡め取るような物言いは、昔からクラウドの癪に障って好きじゃなかった。
水槽とルーファウスを交互に見比べる。
ルーファウスは一つ頷くと明かし始めた。
「お前がいつか迷い込んだ61階もこれと同じさ。ホログラム」
「は?」
「まるで本物がそこにあるように見えるだろう?確かに実物はこの世界のどこかにある。実際科学部門統括が管理していた研究も確かにある。
 だがあの部屋にあった植物たちはその水槽の中と同じ幻影だ。向こうの景色だ」
「冗談だろう?だってあそこ、土があった」
 思わず声が出た。まるで現実味がない説明だった。
あの植物園でありもしない植物群に惑わされていた?
いくらなんでも自分なら気付くはずだ。
「それに俺、花をちぎった気がする。本物だったぞ、あれは」
人工的な空気に満たされた空間だったが、それでも生きている植物たちは本物だった。
まさか自分がまがい物の土を踏んで気付かないはずがない。
しかし、七年の歳月はその記憶をおぼろのうちに霞みさせていく。
反論しながら、しかしクラウドは自分の記憶に自信を持てなくなっていた。
もともと、自分の記憶はあまり確かなものではない。
何度も書き換えられたり、思い違いの上に今の自分がいる。
当事者の一人だったルーファウスが言うのならそうなのかもしれなかった。
その事にクラウド自らが気付くのを待っているように、ルーファウスは釈明しなかった。
待つことを覚えた神羅の元最高権力者は以前より性質が悪い。
「ずっと眺めていれば、お前にもきっと分かったさ。俺にはどうすることも出来なかった」
 「俺」と、ルーファウスは一人称を珍しく言い換えた。
当時の監禁された自分との区別なのか、それが神羅社長の私的な自称なのかは判断がつかなかった。
「それで、実物はこの世界のどこかにあるって、場所は?」
「それが分かれば苦労はないんだが。所在は宝条が自分の脳みそと一緒に持ち去って皆目見当付かずだ」
「あんたはどうしたいんだよ?」
 改めて考えると、何もない空ろな空間に一人取り残されていたルーファウスが空恐ろしかった。
あれが幻影だと、彼は当時から気付いていたという事がその言動から窺えた。
何と言う無為な日々だろう。
「…頼みがある」
昔と同じように、ルーファウスは言った。
おもむろに水槽を指差していた手を開く。
そのてのひらには一粒の植物の種が光っていた。
「……」
 クラウドは何の変哲もないそれに近付いた。
花の種と思しきつややかな黒い種皮に守られた種。
何かの暗喩だとすれば直情的過ぎるくらいだ。
「これを廃棄したい」
言動とは反対にルーファウスは大事そうにてのひらを握りこんだ。
手を離せば簡単に捨てることが出来そうな頼りない種子なのに、自分に頼むところから見て、また厄介な代物だと推測出来た。
小さなその種はかすかな影をルーファウスの手に落とし、静かに寂しく光っている。
「タークスに頼め」
「お前に頼みたい」
 無下に断るとルーファウスは食い下がった。
また隣室のドアが騒がしい。
依頼を無視してそちらの方向を見ようとすると、ルーファウスはクラウドの服の端を誘うように掴んで自分の方に引き寄せた。
ぎょっとして振り払おうとすると、まるでそういう所作が自然のように次いで手首を掴まれ、肩を引かれた。
ルーファウスにしてみれば、ただ外のタークスたちに聞かれたくないというだけかもしれなかったが、そのあまりの壊れ物扱い、
俗に言う紳士的態度を目の当たりにしてクラウドは居心地が悪く感じた。
ルーファウスが首を傾げる。
「早く言えよ」
 焦りを隠すようにぶっきらぼうに言い放つ。
「それは了承と受け取ってもいいのか?」
「いいから早く」
 優雅に肩に掛けられた手を、クラウドは乱暴に振り払った。
羞恥で反対に自分からルーファウスに近付く。
「クラウド、近すぎるんだが」
「帰るぞ」
 まるで子供の喧嘩だ。
ルーファウスは空咳を一つすると、再度手のひらを開いて見せた。
「この種は61階で拾ったんだ」
「さっきあの部屋はホログラムだって言ったじゃないか」
即座にクラウドが最もな反論をする。
「だから廃棄したいんだ。私も拾った時は混乱したよ。あるはずがないものが転がってたんだから」
そう言って手のひらの種子を転がす。
日の光を受けて、種子は自然な反射を繰り返している。
「それに、これはお前が捨てるべきだと思う」
確信に満ちた声でルーファウスは言った。クラウドはぼんやりと返した。
「観念的な問題で?」
「そう。お前の役割として」
クラウドは暫し考えた。説明を求めても無駄だ。
 あの植物園といい、水槽といい、種子といい、現実には有り得ないものがある。それを守っていたのは彼だ。
 自分にも有り得るはずがない感情には覚えがある。
一方的な決別ではなく、それを清算する為の短い逃避行ならば付き合ってもいい。
間違いのように過去を割り切られるのは不快だ。
「分かった。俺が責任を持って捨ててきてやる。だけどあんたも同行するべきだ」
「…観念的な問題で?」
ルーファウスは笑った。
「そう。あんたの言うところの、あんたの役割として見届けるべきだ」

 堅い黒の種子に守られた胚の中身はきっと清廉な白だろう。
 今、この場でその種を壊しても、それを世界で知るものは誰もいない。
だが、当の本人から廃棄すると宣言されたからには背中に吊った愛剣を振るう事は出来なかった。
 クラウドは、どこか安心する自分を客観的に眺めていた。



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