ここの参道はかつて裏街道(慶長古道)とよばれ大鹿峠へ向かう道であった。


 
祭神は大国主命
後奈良天皇御代(1520〜1528)の
社殿創建と伝えられる。
寛政3年(1791)〜14年、工費166両
文化元年(1804)本殿が造営される。
昭和47年中央道工事により現在地に移転。

中央道ができるまでは中央線を横切って
山の麓まで桜並木が続いていました。










参道に立つ碑



 
関東タンポポを見つけた。




この3つの道祖神は
並んで立っています。

庚申塔



子(ね)神社近くの大鹿川沿いに残る大石(花崗岩)
とにかく大っきな石です。
(長さ14.4メートル、幅9メートル)
明治40年の大水害のときに流れてきた石だそうです。
雷のような大きな音がしたと伝えられています。
(母から聞きました)

庚申(こうしん)信仰
干支の庚申に当たる日に行われる信仰行事。
中国の道教では、人間の体内にいる三尸(サンシ)が人間の早死にを望んで庚申日の夜に人が寝ると体内から抜け出して天帝にその人の罪過を告げると言われています。
それを聞いた天帝は、人を早死にさせることになり、長生きする為には庚申の夜に身を慎んで徹夜をしなさいと説き、その徹夜のことを守庚申と呼びました。
三尸の説は晋代から説かれ、以後盛んに信じられて禁忌や三尸の駆除法が多く考えられました。
やがて三尸の説は日本に伝わり、奈良時代の末頃から宮廷中心に守庚申が行われましたが、宴遊が主でした。室町時代に、僧侶によって『庚申縁起』がつくられてから仏教的になり、江戸時代には修験者や神道でも独自の庚申信仰を説きだした為、全国的に盛んになり各地に庚申堂が建てられ、庚申講が組織されました。
今全国に見られる庚申塔は、その供養を三年目に行ったときのしるしです。
神道では猿田彦大神を、仏教では青面金剛を本尊とする場合が多いのですが、他の神仏も本尊とされました。



庚申の日待とは、十二支で言うところの、かのえ・さるの日の晩の行事であった。
庚申の日は六十一日目に巡ってくる。干支を年に当てると庚申年は六十一年目ごとに巡ってくる。

その晩、人の体内にいる三尸という邪鬼が人の寝るのを待って体内を抜け出し、天に昇り、天帝にその人の罪過を告げて命を奪わせるといわれた。それを防ぐために行う日待ちであった。日待とは祭りである。庚申の日待は眠らないで夜を明かすのが建前であり、数人あるいは十数人の講を立て、廻り番の家に集まって談笑し会食した。そのような講で金を出し合って建てたのが、あちこちの寺の門前とか町や村の辻に立つ庚申供養塔である。明治を境に消え去った信仰行事の名残りの石塔である。