◇その10◇

その後、みんなで奥のほうにある打たせ湯に移動した。
「あれっ、これはなんだ?」
3メートルほど上から一筋の湯が注がれていて静かな水音を立てている。打たせ湯は全部で3本あり、湯の落ちる真下には座り心地のよさそうな丸みを帯びた石が湯の中に見える。かつて、童虎やサガ、デスマスク、シャカ、アフロディーテも経験したその場所だ。
「ここにこうやって座って…」
ミロが手前の石に腰掛けた。
「こんなふうに肩や腰に当てるとマッサージになるってわけだ。」
「なるほど!」
「実に合理的だ!」
さっそく腰掛けたカルディアとデジェルが肩に当て始めて細かいしぶきが乱れ散る。肩まで湯に浸かるのを控えたほうがいいカルディアには好都合である。
「ああ、これっていいな。日本の温泉ってすごくないか?童虎から中国の話は聞いてたけど、あいつ、日本のことなんか何も言わなかったぜ。隣の国なのに知らなかったのか?」
「いや、あの、老師は……じゃなくて童虎は中国の内陸のほうで修行していたから、日本の情報をほとんど知らなかったと思うが。当時は日本海を船で渡るのはかなり危険だったと思うし。」
童虎、すなわち老師をあいつ呼ばわりするカルディアにミロはドキドキである。むろんそれはカミュも同じだが。先の聖戦をともに闘った同志だから当然なのだとは思うのだが、ミロにしてみれば童虎は日ごろから崇敬している大先輩である。
普段はさばけた口調のデスマスクさえ、童虎にたいしては謹厳な態度を崩さない。たとえ前夜から飲み続けてへべれけに酔っ払っていようとも、童虎の前では背筋を伸ばしてシャンとする。

   う〜ん、俺たちとたいして変わらないように見えるが、
   ほんとは老師と同じ大先輩なんだよな……
   といって、いまさら改まった口調には出来ないし
   しかし、童虎をあいつって……だめだ、どうしても馴染めない

同じこの場所で湯の中に昏倒したところを童虎に助けあげられたことを思い出したミロが苦笑していると、
「そういえば、ときどき童虎のやつのことを老師って呼ぶが、なんでだ?シオンが教皇をやってるのに対抗してるのか?名前で張り合うなんて、あいつらしくないが。」
思い出したようにカルディアが尋ねてきた。この問いにはカミュが改まった口調で答える。
「今でこそお若い童虎のお姿でおいでになるが、つい先ごろまでは261歳の御老年のお姿であられたのだ。しかし、先般のハーデスとの闘いの折についに243年の雌伏のときを終えられて、自ら溌剌たる童虎のお姿になられて闘いに臨まれたという経緯がある。アテナの施された MISOPETHA MENOS のおかげだと、かつて老師からお聴きしたことがある。」
「えっ!そうなのか!そいつは初耳だ!」
こういう敬語満載の長台詞はカミュに限る。ミロでは途中で舌がもつれそうで自信がない。
「するとシオンもその口か?あいつもえらく若いな。」
「いや、シオン様は…」
カミュが言いよどんだ。
老師がアテナからハーデス軍を監視するように依頼されて五老峰の大滝の前に鎮座していた長い年月の間に老いた教皇シオンがひそかに弑逆されていた件をどのように話したものだろう?
「そのことなら俺が答えよう。シオン様は亡くなられていたが、聖戦のときにハーデスによってかりそめの命を与えられ、我々を手助けしてくださった。聖戦後は俺たちと同じく復活されて再び教皇の位置についておられる。」
あっさりと引き取ったミロがうまく話をまとめたので、カミュもほっとしたようだ。

   すべてを話すのはもう少し落ち着いてからでいいだろう
   カルディアはどうやら直情径行型らしいし、
   現役の黄金が教皇を誅殺したなんて知ったらどうなることか! 
   病み上がりなのに、こんなところで頭に血を上らせたらまずいからな
   ここは積極的に話を変えるべきだろう

「それで、老人だったときの童虎の身長は、」
「え?」
「俺の胸のこの辺りだから、だいたい140センチってとこだな。」
「なにぃっっ!」
「140って……たしか童虎は、私たちよりは低いが170センチくらいはあったはずだ!」
「すると腰がすごく曲がってるとか?考えられんっ! ええと……ほら、例の写真とかってやつがないか?ぜひ見たい!あいつ、俺たちに隠してるな!」
「さて?老師の写真って、あったかな? サガの足湯の写真ならあるんだが、老師の写真は聖域にもないと思う。」
以前老師がここに来たときは童虎の姿だったので、何枚か撮った写真も元気溌剌とした18歳の童虎のものだ。
「その足湯とはなんだ?」
今度はデジェルが足湯に興味を示す。なにかにつけて説明に忙しい。
いずれにせよ、童虎の話がその場を席巻し、シオンの死については言及することなく終わった。

「ミロ、さっきのことだがどう思う?」
糊の効いた浴衣を着込んで落ち着きを取り戻したカミュが娯楽室の外廊下でミロの袖を引いた。引き締まった紺地に大小の白のトンボを散らせた柄がよく似合う。同じ柄でもミロの浴衣は白地に紺のトンボが飛んでいる。
湯上りのカルディアとデジェルは娯楽室の写真集や雑誌のページをめくって嘆声を上げている最中で、こっちのほうは見てもいない。現代の印刷技術は驚異の的だ。
「カルディアとデジェルのことか?うん、俺もあれはちょっと怪しいような気がするんだが。」
「私はまるで自分を見ているようだった……」

   そういえばそんな気もするな
   俺は人前ではあそこまで強引じゃないけど

「そうだとしても不思議はない。もともとそうだったのかもしれないし、そうでなくてもこの世界で蘇生してからはシオンと童虎のほかに知り合いはいない。そしてそのシオンと童虎は生き続けて現在の聖域に確固たる地位を築いている。しかし、あの二人には何もない。かろうじて知り合った俺たちとも、まだそれほど深い仲じゃないし、故郷に行ったとしても知人も親類も誰一人いない。天涯孤独の身の上だ。」
ミロがちらりと娯楽室の二人を見た。言葉こそ読めないものの、昔では有り得なかったカラー写真や印刷物をあれこれ見ながら盛り上がっているのがいかにも楽しげだ。
「元気は元気だけど、普通なら途方に暮れているところだ。そんな情況なら、ますます結びつきは深くなる。ましてやカルディアは死の一歩手前にいたのを心臓移植をして息を吹き返したんだからな。デジェルはもうカルディアを失うことに耐えられないだろうし、カルディアも然りだろう。互いを思う心が恋に繋がっても不思議はない。ましてや、もともと好き同士ならさらに想いは強くなる。」
「やはり、そう思うか…」
「思うよ。お前だって、俺がもし重い心臓病を患ってるとわかったら、気が気じゃないだろう?それともそんなときでも冷静でいられる?」
「そんなっ……」
廊下の窓から見やる庭の紅葉が少し色づいてきた。十月に入れば漆やナナカマドが真っ赤になって、それに白樺の黄葉が加わった野山は錦の絨毯を敷いたようになるだろう。その色彩の饗宴が終わるころ、この地は雪に包まれる。
「私はお前と来年も再来年も紅葉を見たい。この先ずっと、いつまでも…」
「わかってるよ……俺もお前と一緒に紅葉が見たい。紅葉も雪も新緑もだ。」
今夜も冷え込むのだろう。 カミュがほんの少しミロに身体を寄せる。
秋の雨が落ちてきた。