◇その11◇
ミロを先頭に食事処に行き、いつもの席に四人で座る。五つの離れしかないこの宿は常に満室だが泊り客は少ないときで十人、最大でも二十人を越えることはなく、食事の進行状況を見ながらほどよい間隔で懐石料理が運ばれてくる。
最初に美穂が運んできたのは手付きの六角形の竹籠に盛り込まれた前菜で、色づいた紅葉を敷いて中央に透かしの入った和紙を乗せ、秋刀魚の卯の花寿司、湯葉豆腐、舞茸酒盗漬、揚げ銀杏、栗蜜煮などがいかにも日本料理らしくちんまりと並んでいる。その横には緑の江戸切り子の盃に入った梅酒が食前酒として添えられた。
「ずいぶんきれいだな。こんなものを食べたことがない。病院で出てきた食事が栄養とか塩っ気とか考えて作ってあるっていうのには驚いたが、ここのは芸術の域に達してないか?聖域じゃ、誰もこんなものを食べてないぜ。ほんとに食べ物か?」
「まるで玩具のようだが、なぜ一つ一つがこんなに小さい?」
カルディアの入院中はコンビ二弁当しか食べていなかったデジェルの驚きはもっともだ。コンビニ弁当といってもそこは日本のことであるから幕ノ内弁当の伝統を踏まえて少量多品種でさまざまな工夫をしてあるが、なんといっても繊細さが違う。いま目の前にある美しい品々に唸らずにはいられない。
「日本の伝統的食事は一つ一つの量こそ少ないが、洗練されていて盛り付けも美しい。器も季節感を反映していて変化に富んでいる。むろん、全てがそうというわけではなくて、これはごく特別な部類だ。」
「どう見ても高級だが、貴族階級のための食事か?」
「いや、現代日本には貴族階級というものはすでに存在しない。ここは旅行客のための宿でも上質なので食事も手が込んでいるということだ。多少金額は張るが、誰でも食べることができる。」
カミュの言うのは確かに間違いではないが、それを6年間も食べ続けているというのはほとんど貴族に等しいだろう。並の日本人にできる技ではない。
四人の前に置かれている瓢箪型の春慶の盆の明るい飴色の表面には傷一つなく、そういったものにはまったく知識がないカルディアとデジェルにも品質の良さは一目瞭然だ。
「これも例のプラスチックか?」
「いや、それは漆という木から取れる樹液を木の盆に塗ったもので、日本の伝統工芸品だ。プラスチックよりはるかに高価で上質だ。」
「ふ〜ん!どうしてこんなにつるっとしてきれいなんだ? まるで鏡みたいだな!」
「この箸というのも面白い。今度こそ使い方を覚えたい。」
病院で童虎とともにカルディアに付き添っていたデジェルは三度の食事の度に童虎の箸の使い方を見てはいたが、すべてフォークで通していた。カルディアのことが心配でそもそも食欲がなかったし、落ち着いて箸の使い方を覚える気も起こらなかったのだ。
童虎は時々は最上階にあるレストランに出かけて行ったが、誘われてもデジェルは頑として行こうとはしなかった。自分がいないときにもしもなにかあったらと思うと、片時もカルディアのそばを離れたくなかったのである。
「俺も病院ではフォークで済ませていたからな。だいたいどうして二本の木の棒でものを食べられるのか不思議だぜ。」
盆の上に最初から並んでいた清水焼の箸置きは菊の花と葉の意匠が繊細で、長逗留しているミロとカミュの二人には去年青森に行ったときに買ってきた津軽塗りの箸が、それに合わせてカルディアとデジェルには輪島塗りの箸が用意されている。一般の泊まり客の席には割り箸が置いてあるのに比べるといかにも特別な扱いだが、外人だから、の一言で誰もが納得しているようだ。
「箸の模様もいろいろあるんだな。」
「これも漆塗りだ。とても軽くて口当たりが良い。子供用の箸は手の大きさに合わせて細めで短い。」
カミュが揚げ銀杏をつまんで見せた。鮮やかな手つきにカルディアとデジェルが嘆声を上げる。
あのとき夫婦箸を買おうって言ったらカミュに思いっきり拒否されたからな
それはたしかに俺たちの手の大きさは同じだが、気分っていうものがある
夫婦箸とか夫婦茶碗とか、買ってみたいんだがなぁ……
「ところで、俺は飲むけどそっちは?」
「カルディアはアルコールは…」
「おっと、待った!医者からも禁酒しろとは言われてないぜ。飲みすぎちゃまずいが、適量ならいい筈だ。そこのところは確認したからな。生き返ってから一滴も飲んでないんだから、少しくらいはいいだろう?日本の酒の味も知りたいし。」
断ろうとしたデジェルの手を制したカルディアがにやりと笑う。あの聖戦に突入してからというもの、酒とは縁のない日々を過ごしてついにそのまま命を失ったのだ。
「それじゃあ、今日が快気祝いだな。どのくらい飲める口なんだ?」
「かなりいける。自信があるぜ。そっちは?」
「俺もかなり。カミュはまったくだめだ。すぐに赤くなるし、ちょっとでも量を過ごすと倒れて意識をなくす。」
「そりゃひどい。デジェルは……あまり一緒に飲んだことがなかったな。どのくらい飲めるんだ?」
「必要なときに適量を飲むだけだ。強いとか弱いとかいうことは考えたことがない。それよりもカルディアの飲みっぷりに呆れていた。」
「俺ってそんなに飲んでたか?」
死に場所を見つけるまではと自重していたつもりのカルディアだが、思い返せば、どうせ長くは生きられない身体だからと浴びるように飲んだこともないではない。しかし、デジェルに看破されているとは思ってもいなかった。
「私に言わせればウワバミだ。今から思えば過度の飲酒が心臓にさらに負担をかけていたのではないのか?」
「えっ、そんなことは…」
「絶対にないと言い切れるのか?」
軽い非難を込めたまなざしにカルディアがたじたじとなる。
「それは……と、ともかくこれからは隠忍自重する。もはや俺だけの命ではないのはよくわかっている。」
カルディアが自分の胸に手を置いた。他の三人の眼が吸い寄せられる。
これからのカルディアはおのれの身体の中で息づいている心臓のかつての持ち主の命も背負って生きるのだ。
「大吟醸を。」
ミロが美穂に合図した。
「ああ、ほんとに美味い!こんなステーキは食べたことがない!生き返ってもこの時代に適応できるのかどうか悩んでたが、こんな美味いものを食べられるならもう迷わない!俺はすべてのものに感謝して、生きられるだけ生きる!」
「ほんとに美味しい!この柔らかい肉質には驚いた!」
十勝産黒毛和牛の最上級のフィレステーキはいたくカルディアとデジェルを喜ばせた。聞くと、聖域に暮らしていたころはかなりシンプルな食事だったようだ。
「聖闘士は身体が資本だから量は十分だったが、なにしろ作るのが聖域暮らしの男だし、味は……まあ適当ってとこだ。およそ美食とはほど遠い。肉ももっと固い。当たり前だと思ってたが、ここのステーキは天上の美味だな。さっき娯楽室で見た料理の本には驚いた。あんなものがあるとはね。あれがあったら少しはましなものが食えただろうに。」
「言葉はわからなかったが、材料の分量や手順が示されているのだろう?そんな本があるとは想像したこともなかった。写真も実に美しい。」
料理本の賛美のあとはステーキソースの話になった。
「このソースはなんだ?さっぱりしてるがいい味だ。」
「今日のは和風おろしソースだ。日本でもバターを使うことが多いが、これはベースが日本特有の醤油という調味料で、それに大根という野菜の根をすりおろしたものを合わせてある。日本食はあまり油を使わないからヘルシーだっていうんで人気だし、心臓移植のあとは太るのは厳禁だからちょうどいいんじゃないか?」
免疫抑制剤の副作用の一つに食欲が増すというのがあるが、その結果体重が増えることは好ましくない。過食による急激な体重増加は拒絶反応を重くしたり高血圧の原因になることもある。
「不摂生をして太ったら俺の命にかかわる。それに、太った蠍なんて洒落にならん!」
「まったくだ!蠍は精悍なのがもてるんだよ。」
意気投合したカルディアとミロがにやりと笑う。
「だいいち、俺が太ったらデジェルに嫌われるからな。」
「俺はカミュより8キロ上だが、その線は維持してる。絶対に崩さない。」
体調管理と節制を自慢したつもりのミロだが、しかし、これは薮蛇だった。
「ほう!毎日のように計って報告し合ってるってわけか。仲がいいんだな。」
「いや、なにもそういうわけじゃ…」
慌てたミロがぐいっと大吟醸を飲み、カミュは最後のステーキを口に押し込みながらうつむいてしまう。耳まで赤くしているのが正直すぎる。
にやにやしているカルディアの足をデジェルが軽く蹴り、体重計の構造と計測方法について質問したのでその場はなんとか切り抜けることができた。
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