◇その12◇

「これって……なんだ?」
「もしかすると、ここで寝るのか?」
離れに戻ってきたカルディアとデジェルの目に真っ先に飛び込んできたのはきちんと敷かれている布団だ。食事で部屋を空けていた間に、奥の十畳間に二組、手前の八畳間にも二組敷いてある。
「これは布団といって、日本の寝具だ。昼間はこの押し入れに収納してあり、必要に応じてこのように敷きのべる。部屋を多目的に使える利点があるし、急な来客があっても布団さえもってくればかなりの人数を泊められる。」
「ふ〜ん、そういえば便利かもしれんな。」
「こんな寝方があるとは考えもしなかったが、なるほど、この畳の部屋なら可能だな。」
掛け布団をめくったデジェルが敷布団の確認をする。
「二枚重ねか。」
「スプリングじゃないぜ、珍しいだろ。」
「スプリングとは?」
なにげなく言ったミロの言葉はむろんデジェルには通じない。18世紀にはまだスプリングのマットレスは存在しない。
「スプリングとは、」
ここでカミュがスプリングの説明をするのに使ったのは、文机のペン皿にあったボールペンだ。くるくるとまわして分解すると芯の先から細いスプリングを取り出した。
「これは細い針金を螺旋状に巻き付けたもので、圧力を加えるとこのように反発力を生み出す。これの大型のものを並べて身体に当たらないように綿などで覆うと弾力のある快適なマットレスを作ることができる。」
「ほう!」
鮮やかな説明に感心するのはカルディアとデジェルだけではない。なにも考えずにスプリングという言葉を使ったミロも同様だ。

   ボールペンなんて、よく思い付いたな
   俺だったら、どうやって説明しただろう?

なにによらずカミュの説明は的確だ。相手の理解能力に合わせて適切な用語を使い、しかも押し付けがましい印象は与えない。ミロと違ってごく若いときから弟子を持った経験がそうさせるのかもしれないが。
しかしそのカミュにも難物はある。
「やはりこれが疑問だ。なぜ絵や写真が映って、しかも動く?」
みんながデジェルの指差す先を見た。テレビである。

テレビについてはアテネの病院でも空港でも説明しているし、日本への機内でも二時間ほど映画を鑑賞してもいる。
しかし、電波や電気や液晶の説明を言葉だけでするのは難しい。 ものがものだけに、スプリングと違って、百聞は一見にしかずというわけにはいかないのだ。そもそも、カルディアとデジェルが生きていた時代にはなかったギリシャ語をどうやって理解させればよいだろう?
リモコンを持って首をひねっているデジェルにON・OFFの説明をしながらミロが苦笑する。
「実のところ、俺だって理屈はよくわからない。当たり前のようにしてテレビを見てるが、論理的なことはさっぱりだ。知らなくても生きていけるからな。電子レンジや電話だって謎だよ。そういえば写真の理屈だってよく知らないな。自動ドアくらいはわかっているつもりだが、パソコンなんて魔法の箱だ。」
「ほとんどの人間はそうだろう。論理がわかっていれば、すべて説明はつくのだが。」
「うん、俺だって魔法じゃないのは理解してる。」
そのテレビの理屈についてカルディアのほうは簡単に理解した。
「つまり、文明のなせる技だな。たいしたもんだ。俺には理屈はわからんが、便利ですごいことはよくわかる。で、日本語じゃなくてギリシャ語の映画ってないのか?写真が動くのは面白いが、なにを喋っているかも知りたい。」
ハードよりソフトである。たしかにそちらのほうが重要で現実的だ。
「ギリシャ語の映画は明日にでも聖域から持って来よう。今すぐに取りに行くと夜更かししてしまいそうで、身体によくない。」
宝瓶宮にはDVDはないが、巨蟹宮には立派なライブラリーがある。幼いカミュがヒッチコックの 「鳥」 を見て恐怖を覚えたのもデスマスクのところだった。
「もうヒッチコックはよせよ。今風にインディ・ジョーンズなんかはどうだ?失われたアークなんか、魑魅魍魎が拝めるが。それともロード・オブ・ザ・リングがいいかな。あれもなかなかいいシーンがある。」
どちらも亡霊関係だ。
「もっと自然や音楽の美しさを味わえる映画がいいのでは?アマデウスは?」
音楽は美しいが、冒頭に現れるモーツァルトの性癖が問題だろう。
ミロとカミュがあれこれと映画の選定をしているそばで、先代の二人はリモコンの切り替えに夢中になっていた。

「私たちが八畳で、奥はあの二人に寝てもらおうと思うのだが。」
「ああ、それでいい。なんといっても先輩だからな。床の間付きの十畳を提供すべきだろう。」
「ではそれで。」
しばらく四人でテレビを楽しんだあと、カルディアとデジェルを奥の間の布団に連れてゆき、枕元の行灯をつける。
「この紐を引くと明るい照明と小さな照明が切り替わる。この小さい照明のほうを日本では蛍と呼び、仄かな明るさの表現にしている。」
「なるほどね、明るすぎると眠れないし、真っ暗でも緊急時の対応ができないからな。こいつは便利だ。」
「蝋燭と違って燃え尽きることもないし火事の心配もない。じつに素晴らしい!」
行灯一つでこれだけ感心されると、懐中電灯を持って夜の散歩に出かけたらどんなに喜ぶことだろう。ミロの頭の中にさっそく明日の予定ができた。
「それから水差しだ。日本では枕元に水差しとコップの盆を置くのが習慣だ。」
ミロが持ってきた水差しは紅い江戸切り子で行灯の光を受けてキラキラと輝いている。むろんグラスもお揃いだ。
「朝の露天風呂もいい気持ちだが、一緒に来る?夜明けの空がきれいだ。」
「ああ、それはいいな!ぜひ行きたいから誘ってくれ。」
「わかった。」
「それではこれで。よい夢を。」
「お休み。今日は世話になった。」
「どうもありがとう。」
境の襖が閉められて興奮の一日が終わった。

「あの二人、初めての布団でうまく眠れるかな?」
「大丈夫だろう。日本の布団は寝心地がよい。私も最初は驚いたがすぐに眠れ…」
カミュが黙ったのは、初日の夜を思い出したからだ。ミロがすぐには眠らせてくれなかったのである。
「うん、そうだった。でも、そのあとはすぐに眠れただろ?」
「ん…」
むろん布団の寝心地も効果的だったろうが心地よい疲れのせいもあったかもしれぬ。
なにかを思い出して顔を赤らめたカミュが可愛く思えた。


夜中を過ぎたころ、なにかの気配がした。

    ………あ…

(ミロ……どうしよう…)
(気にするな……あっちにはあっちの事情がある)
(ん……でも…)
(それはたしかに気になるが、まさかやめろとも言えまい?)
(……困る)
(それともいっそのこと、こっちも同調するか?)
(そんなっ!…そんな恥ずかしいこと…!)
(俺はかまわないが。そのほうがあっちもほっとするんじゃないのか?)
(でもっ…)
ミロが動いた。
登別の夜は眠らない。