◇その15◇
その日のうちにアテネのいちばん大きい病院に入院したカルディアは徹底した検査を受けた。心電図や超音波検査、CTからMR
I に至るまで、カルディアにとっては不思議だらけだったが、おのれの病状は認識していたのでデジェルに励まされながら俎板の鯉状態でおとなしく検査を受け続けた。
その結果、小手先のことでは到底だめで、このままでは心臓移植をしない限りカルディアの命はあと数ヶ月と宣告されたのだ。薄々感じていたとはいえ、これは衝撃だ。
「心臓移植って?!恐ろしいことのような気がするが、どういう意味だ?!」
デジェルの声が震えた。あと数ヶ月の余命にも愕然とするが、心臓移植とはいったいなんだろう?
「アテナが手配してくださると仰っている。ともかく大船に乗った気でいてくれ。驚くことばかりだろうが、けっして悪いようにはせん。」
蘇生したときからずっと付き添っている童虎にしても、実は現代医療にさして詳しいわけではない。ましてや心臓移植など言葉でしか知らない最先端技術である。
「年ばかりとってはいるが、なにしろアテナに命ぜられるままにずっと中国五老峰の大滝の前に陣取って冥界の動きを見張っていたのでのぅ。漢詩や史記には精通しておるが、社会のことには疎いわい。」
ぼやきながらムウが選び出してくれた 「現代医学の基礎知識」 やら 「心臓移植と拒否反応」 やら 「あなたの周りの感染症」 とかの分厚い書物を病室に持ち込んだ童虎はデジェルとともに紐解き始めた。まずデジェルを納得させないと、とてもではないがカルディアに心臓移植を勧めるわけにはいかないのだ。
本来なら医師の説明を受けて納得するはずだが、家族代わりのデジェルに医学知識がなさ過ぎて、医師の話を聞く前にかなりのレクチャーが必要である。幸い、カルディアの入った特別個室には小ぶりな応接室も付属していて、カルディアの眠りを妨げることもない。
「すごい情報量だ!どうしてこんなに小さい字を正確に書けるのだろう?これは……手書きではない?」
デジェルには奇跡としか思えない小さい活字で埋められたギリシャ語の医学書は、精密な図解やカラー写真を交えながら人体の不思議を教えてくれる。知的好奇心に燃え上がっているデジェルに昔は存在しなかった専門用語を一つ一つ説明するのは童虎にとっては骨である。
この役目にはカミュが向いておるんじゃが、
日本から呼び戻すと、カミュがこれに夢中になるのが見えておるし、
そうすると、またミロがうるさいでのぅ……まあ、しばらくはわしがやってみよう
心臓の手術のことなど何も知らない童虎が専門書を片手に解説を始めると、さっそく深刻な顔をしたデジェルに質問された。
「しかし心臓を取り出す以前に、胸を切り開く段階で激痛に耐えられる筈がない。その時点でカルディアは死んでしまうのでは?」
「ああ、それなら麻酔というのがあって痛みを感じないようにできるのじゃ。むろん本人にも意識はない。薬で眠っていて、気がついたときには手術は終わっていることになる。」
「えっ?」
ここで麻酔の論理と使用薬剤の解説が始まる。そんな基礎的なことは本に載っていなかったので、童虎が携帯で検索したのだが。
「ほぅ!記録に残っている世界最初の麻酔を使った手術は日本の華岡青洲という医者が乳がんの手術をしたのが最初じゃそうじゃ。こんな昔にたいしたものじゃな。ええと、がんの説明はまた後ですることにして……で、胸の中央の骨を切り開いて開胸器という器具で……うう〜んとこれはどうなるのじゃ?左右に押し広げて固定するんじゃろうな。あまり深くは考えたくないのぅ。」
この時点でデジェルは真っ青である。
「でもあの……痛みを感じないとしても、そんなことをしたら出血多量で死んでしまうのでは?」
「大丈夫じゃ。わしの憶測じゃが、血管を切る前になにかでぎゅっとはさんで血流を一時的に止めるのかもしれんのう、そうでなければ大出血じゃ。あとで調べてみよう。それに昔と違って、今は輸血というものがある。」
「輸血?」
ここでまた専門書をひっくり返してひとしきり説明が入り、デジェルも輸血を理解した。
「では、人は心臓を取り出すとすぐに死んでしまうというのに、なぜ移植が可能だと?」
「ええと、それは…」
そこのところは童虎にもさっぱりわからない。心臓を取り出すからには太い血管を切断するはずで、そのとたん鮮血があふれ出して人は死ぬはずだ。
たしか、過ぎし聖戦で冥界の奴が心臓を失っても動けたと聞いたような気が…
ふん!どうせハーデスの奴がろくでもないことをしたのであろうよ
わしがアテナに施していただいた MISOPETHA MENOS のほうが
はるかに優雅で上品じゃわい
そういえば、わしも心臓には縁があるのぅ
この二人の世話をするのも当然かもしれん
「さて、そこの理屈はわしにもよくわからん。医師に説明を受けたほうがよさそうじゃのぅ。」
「それに、そもそも新しい心臓はどこから持って来るのだろう?」
「え?」
永い間五老峰と聖域に暮らしていた童虎には臓器移植のドナーの情報はいまだ届いていなかった。まったくの五里霧中である。
そのほかにも入院や手術の約束事、医師や看護師の役割、病原菌、栄養、消毒、衛生観念、そういったありとあらゆることを教え込まないといけないのが徐々にわかってきて、さすがの童虎も気が遠くなりそうだった。1つのことを教えると5や10の疑問がたちどころに出てきてきりがない。
デジェルはもともと理系のようで、本を読みふけりながら辞書を引き、次々と新しい知識を仕入れるのに懸命である。ただでさえ学問好きなのに、今回はカルディアの命がかかっていると思うとますます真剣になる。
「私の学んだところによると、我々も感染症を防ぐための予防接種というものをしたほうがよいようだが。」
「え?ああ、そうかもしれんのう。そういえば去年の新型インフルエンザの世界的流行の時には聖域でも予防接種をやったぞ。」
「ほぅ! 薬を飲むのだろうか?」
「いや、注射だ。」
「注射?」
ここで注射の説明だ。手持ちの本のページにやっと1つだけ注射器の写真があったので童虎があれこれと教えていると、
「私も注射をしてみたい。その新型インフルエンザの予防接種はここでもできるのか?」
とデジェルが目を輝かす。
「さあ?聞いてみなければわからんが。」
ちょうどやってきた看護師をつかまえて聞いてみると、一階の内科外来でできるという返事が返ってきた。
「カルディアもよく眠っておるし、今から行くか?」
「ぜひ!私が病気になってはカルディアに感染するかもしれぬし、そうなってはおおごとだ。」
そうは言っているが、童虎のみるところ、初めての注射への意欲は、カルディアの心配半分とデジェルの好奇心半分といったところだろう。
まったく手続きがわかっていないデジェルのために初診受付で診察券を作ってもらい、内科の窓口に出すと問診表と体温計を渡された。
「これはなんだろう?」
「おお、そうじゃ。注射の前に熱を計るんじゃった。」
「熱?」
「身体の温度じゃよ。人間の普段の熱は決まっておって、たいていは36.5度前後じゃ。風邪を引いたりして熱が出ると40度を越したりする。そうなると熱が下がるまで注射をしてはいかんのだ。」
「ほぅ!」
カミュと同じく凍気を操る水瓶座のデジェルは熱にも多大な関心がある。童虎に体温計の使い方を教わりながら、質問が途切れることはない。
「熱は常に腋下で計るのだろうか?」
「あと、口の中で計るというのもあったのう。舌の下に差し入れるんじゃよ。」
幸いなことに童虎は直腸で計ることがあるのを知らないので、説明もスムーズだ。そんなことを説明するのも聞かされるのも嫌だろう。
ピピピピピ!
「えっ?」
「計り終わった知らせじゃよ。昔は水銀じゃったが、いまどきは便利じゃな。どれどれ……36.1度か。さすがに低いのぅ。」
問診表の質問項目を童虎に相談しながら書いていたデジェルがとある項目に目を留めた。
「ニワトリの肉や卵などにアレルギーがありますか。 というのがよくわからないが、アレルギーとは何のことだろうか?」
「アレルギーというのは……ええと、アレルギーを説明するのか……その食べ物を食べると痒くなったり具合が悪くなったりするかどうか、ということじゃな。うん、たぶん、そんなとこじゃ。あとでよく調べてみよう。わしにもはっきりとはわからん。」
「それなら私は大丈夫だ。でもニワトリの肉と卵に限定する理由がわからない。」
「ええと……わしにもさっぱりわからん。」
インフルエンザのワクチンは卵由来の製造方法をとっているため、卵アレルギーのある人は接種できないのが常識だ。
ここはぜひカミュに登場願いたいところである。
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