◇その16◇
「心臓移植をするなら一日でも早く結論を出したほうがいいそうじゃ。順番を待っている患者が大勢おるらしい。」
むろん、心臓移植をしたからといってその後の永い人生が約束されるとは限らない。童虎が医師に聞いたところによると、手術を受けた患者の一年後の生存率はおよそ80%、5年後だと70%だという。
「つまり、一年経つと五人のうち一人は死んでおるということじゃ。5年後には十人のうち三人は死ぬ。しかし手術をしなければ、」
「カルディアはあと数ヶ月の命ということか…」
初めて心臓移植のことを聞かされてその日のうちに決めるというのも無茶な話だが、デジェルの逡巡は短かった。迷っているその間にもカルディアの心臓は弱っていくだろう。
「移植をするように勧めてくれんか。それしか道はない。わしは席をはずしていよう。」
「わかった。やってみる。」
カルディアがなんと思うか不安だが、ともかくデジェルは説明をすることにした。
「カルディア、気分はどうだ?」
「ん〜、なんてこともないな。寝ているのも飽きたが、起きてると疲れるのも事実だ。なあ、俺ってどうなるんだ?なにか
わかったか?」
「それは…」
言おうと思っていても言いにくい。たくさんの説明を聞いて納得したつもりでもまだまだ迷いは多いのに、当事者のカルディアが心臓移植をどう受け止めるのかはわからない。心臓を取り出して、そこに他人の心臓を入れるのだ。納得するほうがおかしいとしか思えない。
「単刀直入に言おう。このままではあと数ヶ月の命だそうだ。」
「えらく直裁だな。まあ、はっきり言ってくれたほうが覚悟ができていいが。うん、むしろさっぱりした。」
そう言ったカルディアが目をそらして窓の外を見た。今日もアテネは快晴で、抜けるような青い空に白い雲が眩しい。
「だが、この時代には助かる可能性のある治療方法があるそうだ。」
「ふうん……気の効いた薬があるのか?それなら話は簡単だが……お前、なにを迷ってる?もしかして、人によっては毒にもなる薬ってか?」
「いや、そうではなくて…」
「じゃあ、効かないこともあるってやつか?かまわんさ、もともと死んでたんだし、もう一度死に直したからってどうってことはない。ちょっと残念だがな。」
窓の外を見たままのカルディアの声が少し曇った。気のせいかため息のようにも聞こえる息づかいがデジェルにはつらい。
「薬ではない。頼むから落ち着いて聞いてくれ。お前の心臓はもう持たないそうだ。すっかり弱っていて、闘うどころか、静かに寝ていたとしてもそんなに長くは動いてくれないだろう。だから心臓を取り替えるのが唯一の助かる方法だそうだ。」
「……え?」
ルビコンは渡った。カルディアはなんと言うだろう?
「おい! 何を馬鹿なことを言っている? どうやって心臓を取り替えるんだ?
手づかみで引き出して、新しいのをそこらの人間からもぎ取って押し込むのか?
はっ、笑わせてくれるぜ!馬鹿馬鹿しい!とんだ茶番だ!」
「カルディア!そうではなくて!」
「じゃあ、いったいなんだ? アテナだってそんなことはできないんだぜ!できるくらいならとっくの昔に俺の心臓は新しくしてもらってただろうよ!そうすればもっと闘えたのに…!もっと…もっと……!」
歯を食いしばったカルディアが涙を滲ませた。
心臓がまともなら俺はもっと闘えた!
冥界のやつらに好き勝手をさせておくものか!
デジェルも死なせやしないっ、ほかの皆もだ!
くそっ!心臓さえまともなら……
「神にもできないことがどうして人間にできる?!ふざけるなっ!」
「カルディア、興奮してはいけない!身体に障る!頼むから落ち着いてくれ!」
握り締めたこぶしをデジェルが両手で包んだ。しかしその暖かさもカルディアの心を落ち着かせるには至らない。
「どうせ俺は死ぬんだろ?なら、どうして生き返らせたっ?あのときの俺は満足して死んだのに、今度はベッドの上で死ねってか?そいつがアテナの慈悲か?たった数ヶ月
生きてなんになる?!」
「カルディア!」
「俺は聖闘士だぜ!ひ弱な厄介者になって死ぬのはお断りだ!せっかく死に場所を見つけたのに、なんてざまだっ!聖衣をよこせ!俺は聖闘士として死にたい!」
起き上がろうとするカルディアの力は、どうしてこんなにとデジェルが思うほど強かった。
「それは違う!アテナは私たちにもう一度生きるチャンスをくださったのだ。それを無にしてはいけない!」
「なにがチャンスだ?!お前はともかく俺は死ぬ!ご丁寧に二度もだ。今度は俺を弔えて嬉しいか?立派な墓は要らないぜ。そこらの海に放り込んでくれればそれでいい!」
「馬鹿っ!」
カルディアにむしゃぶりついたデジェルが声を殺して叫んだ。
「馬鹿なことを言うな!お前が死んだら、私は何を頼りにして生きていくのだ?この知らない世界で、私を一人きりにする気か?アテナは私たちに生きろとおっしゃった!ともに生きよう!お前の好き勝手にはさせない、させるものかっ!」
ほとばしるデジェルの魂の叫びが耳を打つ。
「デジェル!……おい、デジェル!」
「心臓を移植することができるのだ。けっして魔法や神のみわざではない。論理に裏付けられた医学がそれを可能にしている。すでに世界で何千人もがその手術を受けて普通の生活を取り戻しているという。だから……だからカルディアも……頼む……手術を受けてくれ……きっと…きっと成功する………させてみせるから…」
もう声はない。カルディアの胸に顔を伏せたデジェルは泣いていた。声は聞こえなくても震える肩を見ればそんなことはすぐわかる。
「俺は……」
カルディアの手がデジェルの背中に回された。喉の奥でしゃくりあげているデジェルがびくりとしたが腕の力のほうが強かった。
「なあ……その手術をしても失敗することもあるんだろ?」
「………」
「必ず成功するんなら、そんな切羽詰った顔するはずはないからな。」
ますます顔が伏せられる。
「もう泣くな。手術は受ける。でもその前にやりたいことがある。死んでから後悔してももう遅い。鉄は熱いうちに打てって言うからな。」
「なにを……したいのだ?できることなら叶えたい…」
くぐもった声なのはデジェルがまだ顔を押し付けているからだ。
「なあに、簡単なことだ。ちょっと起きてくれるか?」
手を離したカルディアの求めに応じてデジェルが身体を起こしかけたとき、
「あっ!」
ぐいっと引き寄せられたかと思うと唇が重ねられた。初めて知る熱っぽい唇にデジェルが あっ…と驚いたとき、舌が侵入してきてますます気が動転してしまう。どうすればいいのかわからない。
(目を閉じるのが作法だと思うぜ…)
頭の中にカルディアの思考が忍び込んでくる。動揺しながら目を閉じた。
(カルディア……私は…)
(心臓が新しくなったら本気で抱いてやろう。これまでは自重してたからな。ほら、俺って戦闘第一主義だから。でもこんどは遠慮しない、待ってろよ…)
(ばかも…の…)
様子を見にきた童虎がドアノブにかけた手を止めた。
「やれやれ、若い者はしかたがないのぅ。年寄りにはとても真似ができんわい。」
肩をすくめると、来た道を帰っていった。
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