◇その17◇

目を凝らしても、枕元に置かれた行灯が仄かに照らす部屋の中に動くものはなにもない。八畳間の中央に敷かれた寝具の枕のあたりには豊かに波打つ金の髪と艶やかに広がる黒髪が見えて、二つの寝息の重なりが穏やかな眠りが続いていることを教えてくれる。
ピリリリリリ…
静寂の中で鳴ったのは枕の横に置いてある携帯のアラームだ。金の髪の持ち主の手が伸びてアラーム音を手探りで消す。

   まだ早い………もう少し…

腕を引っ込めたミロがそっとカミュの背中に手を回す。甘いため息が聞こえてミロを満足させた。

それから二回アラームが鳴ったところでミロがそっと起き出した。このあたりできりをつけないと夜明けに間に合わないだろう。名残惜しげに抜け出して、まだ眠っているカミュの肩を丁寧に布団で包むとそっと障子を開けて内廊下に忍び出た。

   どうする? 声をかけるか?
   朝の露天風呂に誘いはしたが、なにしろ昨夜はあれだったからな…

隣の部屋の思わぬ展開につられて結局はミロもそれに倣ったのだから、顔を合わせるのはどうにも面映い。逡巡していると奥の十畳で誰かが起き出す気配がした。
「風呂に行くのか?」
出てきたのはカルディアだ。一応は直してみたのだろうが、着崩れがひどい。帯は解けかかっているし、懐も裾もなさけなく広がっている。
「俺も行く。ところで、これはどうにかならんのか?色男が台無しだ。」
「浴衣はどうしても寝ている間に着崩れる。そのぶん融通もきくけど。」
「そりゃそうだ。ある意味、すごく気が利いてると思ったぜ。おかげで話が早かった。」
にやりと笑ったカルディアが親指で肩越しに部屋の中を指す。
「ええと……まあ、そんなとこだ。」
カルディアの襟元をきちんと合わせて帯を結び直してやりながらミロが赤面した。日本に来て初めて浴衣を着た夜にその融通性に感心したのはミロもよく覚えている。いつもはカミュが頬を染める役回りだが、今朝はミロにお鉢が回ってきたようだ。
「まだ真っ暗だが、いつもこんな時刻に風呂に行くのか?」
「ああ、そうだ。湯に浸かりながら夜明けを迎えるっていうのは、なんともいえないすがすがしい気分になる。最高だよ。ぜひ経験してもらいたい。」
カミュを起こさないのと同じ理由でカルディアも一人で来るのだろうと思ったミロはそれについてはなにも触れなかったのだが、あとで思い返してみるとカルディアがミロと二人だけで露天風呂に行くことを選んだのはそれなりの理由があったようだ。
北海道の秋は肌寒く、ましてや満天に星のまたたく早暁ともなると肌寒いを通り越してぶるっと震えることになる。それを見越してミロはカルディアに丹前 ( たんぜん ) を着せることにした。
丹前とは寒い時期になると旅館で出される長い丈の着物のことで、厚手のウール地が一般的だ。浴衣と同様に裾までストレートに仕立ててあって、これを浴衣の上に着るとたいそう暖かい。
丹前という変わった名前は、その昔まだ東京が江戸と呼ばれていたころに、神田雉子町の堀丹後守 ( ほりたんごのかみ) の屋敷前にあった風呂屋が丹前風呂と名乗ったことに由来する。そこの湯女(ゆな)目当てに集まった男たちが目立とうとして競って身につけた派手な着物を丹前と呼ぶようになったのだそうだ。
滞在して半年を過ぎた秋になって部屋に届けられた丹前の名前を聞いたカミュがさっそく語源を調べてミロに解説し、あまりの面白さにすぐに覚えて今に至る。おのが屋敷の名がそんな形になって後世に伝わっているとは、堀丹後守もあの世で驚いているに違いない。余談であるがこのあたりの事情は井原西鶴の好色一代男に詳しく描写されていて、その成立は1682年、先の聖戦よりもやや時代がさかのぼる。
「ふうん、こいつはずいぶん暖かいな。丹前っていうのか。」
ミロに着付けてもらったカルディアが袖を広げて悦に入る。
「ガウンみたいなものだな。そのころもガウンってあった?」
「ガウン?それはなんだ?」
「部屋着だよ。起きてすぐとか風呂上りに着る。長衣みたいなものだが、打ち合わせて着るデザインになってる。」
「知らないことが多すぎるな。とても覚え切れん。頭の中に辞書が欲しいね。」
「カミュなんか、明らかに頭に辞書が標準装備されてる。」
「デジェルもだ。俺たちはアンタレスが標準装備だが。カタケオって知ってるか?え?知らない?こんど教えてやるよ、ちょっといいぜ。伝家の宝刀だ。」
「心臓に無理がかからない程度に頼む。」
「気をつける。デジェルに張り倒されたらまずいからな。」
「張り倒したら身体に障るからそれはやらないだろう。」
「土下座して謝らされるかな?」
「そいつは蠍座の沽券にかかわるな。」
笑いあってそっと玄関の鍵を開けて外に出た。
離れから母屋に伸びている回廊に戸を立てまわすのは紅葉が終わるころなので、まだそれのないこの季節は暖かい離れから出ると冷たい風が身にしみる。それでは大手術のあとのカルディアにいいはずがない。丹前を着込んだのは正解だ。
「かなり寒いんだな。」
「ここは日本の中でもいちばん北にあるからな。冬になったらかなり雪が積もる土地だ。」
「雪? ああ、ここには雪が降るのか!そいつは面白そうだな。聖域では見たことがなかったが、デジェルに連れられて見せられたことがある。真っ白な世界なんて初めてで、あれには驚いた。」
そういえば聖域に雪が積もったことはない。ごく小さかった時にカミュがサガの許可を得て雪を降らせてくれたので、少しばかり積もったそれを皆でさわって遊んだ記憶があるが、たぶんそれは雪に触れることもなく育つ幼い者への思いやりだったろうと今では思う。
カミュが雪を降らせなかったとしても、テレビや本で雪の動画や写真を見ることは可能だし、長じては雪の積もる土地に任務で行くこともある。しかし、出版物のなきに等しかった243年前には、雪の実態はろくに知られていなかったことだろう。
「デジェルは雪を降らせたことがないのか?」
「ない。そんなことができるのかどうか俺は知らんぞ。カミュはできるのか?」
「できる。きっとデジェルもできるんじゃないのか?では、氷は知ってる?」
「氷?ああ、ブルーグラードにあったやつか。デジェルから聞いたが、水があんなふうになるなんて信じられんな。デジェルがいなかったら水が凍るってことなんか知らないぜ。ギリシャには氷は存在しない。そもそも凍るっていう言葉もないし。」
「そりゃそうだ。氷なら部屋の冷蔵庫にあるからあとで見るといい。この時代にはアクエリアスじゃなくても簡単に氷を作れるんだよ。もっともカミュの氷は特別だが。で、ブルーグラードって?」
「デジェルの修行地だ。えらく寒い土地で俺は好かん。あんなところで修行なんて信じられんな。人間技じゃない。」
「カミュもだぜ。シベリアでずっと修行と弟子の育成をしてた。シベリアも北の土地だ。基本的に雪と氷しかない。」
「ふうん、水瓶座っていうのは時代が変わっても同じことをするんだな。そういえば俺たちも同じことをやってるが。」
同じことというのを修行のことだとミロは解釈したが、ふと思い当たったことがある。

   もしかして、蠍座が水瓶座を愛してるって意味だったりして?
   なにしろ昨日の今日だからな……そう思われても不思議はないが

露天風呂には誰もいない。早朝の貸切りは気持ちがよくて、そんな環境にカルディアを連れてこられたことにミロは満足する。
「外に出ると寒いから、2、3杯お湯をかぶったらすぐに湯の中に入ったほうがいい。でもあまり深く浸かるなよ。」
「ああ、わかってる。」
手早く丹前と浴衣を脱ぎ、くるくるっと丸めて籠に入れると外へのドアを開けた。まだ空は真っ暗で幾つかある庭園灯が立ち昇る湯気の粒子を白く見せているばかりだ。
「うう、寒い!」
「急ごう!」
急いで湯をかぶり、それでも慎重に腰まで沈めたカルディアがため息をついた。
「ああ、いい気持ちだ。外で裸になるなんて有り得ないと思うが、でも納得できるぜ。風呂っていいものだな。」
「冷えるとまずい。これで肩に湯をかけているといい。」
腕を伸ばしたミロがヒノキの湯桶を取ってカルディアに手渡した。心臓に負担をかけずに湯を楽しむのはなかなか手がかかる。
「真冬にはここも雪が積もる。」
「それじゃ入れないな。今の季節でよかったよ。」
「いや、それが雪の日にも入るんだよ。」
「えっ!そうなのか?」
「もちろんだ、いい眺めだと言って日本人はとても喜ぶし、俺も全くだと思う。」
「考えられんな。ブルーグラードのやつらに見せたいね。でもまだあるのかな?」
「ブルーグラードか?」
「そうだ。あのときでもすでに怪しかったからな。……うん、もう、滅びたかもしれん。デジェルががっかりするだろう。童虎とずっと一緒にいたから、きっともう話を聞いてるんだろうな。」
「聖域は昔と変わってないか?」
「すぐに病院に行ったので詳しくはわからんが、俺が見た限りではたいして変わっていない。主だった建物は同じだし。ただし、部屋の中に見慣れないものが幾つもあった。今ではそれがテレビや照明だってわかってるが、あの時はなにがなんだかわからなかったな。お前も243年後に行ってみれば実感できるぜ。」
「機会があったらそうする。」
「お前だけじゃだめだな。カミュも連れて行け。知りたがり屋だろ?なぜ私を連れて行かなかった?って責められるぜ。」
「よくわかるな。その通りだ。」
「デジェルと同じだろ。アクエリアスっていうのはそういう生まれらしい。」
「同感だ。」
それから打たせ湯に移動した。そろそろ東の空が白みかけ、遠くの山が秋の色に染まっているのも美しい。むろん、手を伸ばせば届くところにあるハゼやナナカマドの葉もきれいな赤に染まっている。
黙って肩に湯を当てているとふいにカルディアがこう切り出した。
「昨日はすまなかったな。我慢ができなかった。」
ミロの心臓がぴくんと跳ねた。