◇その18◇
昨夜のことを言われたミロの頬に血の色が昇る。隣の部屋から洩れてくる気配に耐え切れずにカミュに手を出したのだ。
「なりを潜めてじっと聞かれていたらどうしようと思ったが、すぐに追随してくれて助かった。」
「いや、その、それは……」
かっと頭に血が昇り、高いところから落ちてくる湯の音が妙に大きくなったような気がした。襖一枚へだてただけの昨夜の行動がついつい頭に浮かぶ。
「俺さ……いつ死ぬか わからないだろ。」
「え…」
「心臓移植をした人間がかならず長生きできるわけじゃない。たしかに今は元気だが、何年かするとだんだん死ぬ確率が高くなるってのはわかってる。」
湯を汲んだカルディアが丁寧に身体にかけた。あまりしぶきがはねないようにそれを注意深く繰り返す。
「もちろん今日や明日に死ぬことはないだろう。…と勝手に思ってるんだが、勉強したところによると健康な人間でも心不全とかで急に心臓が止まることもありうるし、なにかに感染しても即入院だ。運が悪ければ、生きて病院の外には出られないだろう。のんびりしてるわけにはいかない。もう十分すぎるほどデジェルを待たせてた。」
「そう…だな。そうだろう。」
話が微妙なところに触れてきてミロを緊張させる。
「俺はあと何年生きるんだろう? 一年後に死んでるかもしれない。それどころか、半年か、一ヶ月先かもしれない。それって、あっという間だぜ。こうなると一日一日が貴重だ。夜が来ると、明日も朝を迎えられるかなって思う。これからずっとそう思って生きていく。哲学者になれるんじゃないかと思うぜ。
ギリシャ人としては伝統的な職業だな。」
空がだんだん明るくなってきた。夜通しついていた庭園灯はいつのまにか消えている。
「こういう話はデジェルにはできない。あいつはきっと泣くからな。」
ゆらゆらと漂ってきた真っ赤なナナカマドの葉をカルディアが掬い上げた。燃えるような真紅が美しい。
「目覚めてからはずっと病院だった。いつもそばにデジェルがいたからキスくらいは誰もいないときに何度かしたが……それだけだ。ほんとには抱けない。ここにきて、昨日がはじめての普通の夜だった。嬉しかったぜ、やっと病院から抜け出してデジェルと同じように普通に寝られる。普通でいられるってことがこんなにありがたいと思ったことはない。」
「ん…」
「で、もう待てないって思ったよ。デジェルがどう思っていたかは知らん。まさか、隣に人がいるけど今からいいか?なんて聞けないからな。」
「そうだな……俺でも聞けない。実行あるのみだ。」
「だろ!」
ここで二人が初めて顔を見合わせて笑った。ミロは人とこんな話をするのは初めてだが、ちっともいけなくない気がする。むしろ楽しいことに驚いた。
「でも、本気では抱けなかったな……やっぱり心臓が心配だ。限度を超えて具合が悪くなったらおしまいだ。どうにも加減がわからない。そんなことはもらった注意書きには書いてなかったし、まさかこっちから医者に聞くわけにもいかないだろ?だからほどほどにした。」
「ああ、わかってる。」
最初から隣に合わせるつもりだったので、ミロとしては軽く抱いた程度だった。抱きしめてキスして、それからもう少し……少しだけ……そうだ、ほんとにそっと抱いたのだ。それでもカミュはおおいに恥じらい困惑していたのが思われる。
「それに、初めてなのに、隣に誰かいるって状況で本気で抱いたらまずいだろ。きっとデジェルが嫌がると思う。」
「あ……初めて…か?」
「そうだよ!決まってるだろうがっ!……ひょっとして、俺たちがそっちのほうも歴戦の勇士だと思ったか?」
「いや、あの、俺はっ…!」
ミロが真赤になった。先代にとてつもなく失礼なことを言ったような気がしたのだ。年齢こそ同じだが、やはりカルディアは先の聖戦を闘った聖闘士で、シオンや童虎と等しい存在である。
「まあいいけどさ、どう思われても。でも真実はそういうことだ。俺たちは昨日が初めてだ。聖戦前に触ってもいないし、聖戦が始まってからはあの始末だ。抱くに抱けない、キスもできない、手もつなげない。……で、二人とも死んだ。」
「死んだときは…別々に?」
「ああ、ブルーグラードで別れてそれっきりだ。お互いに相手の消息も知らずに死んだ。おかしな話だな、自分が死んだ思い出話をするのは。」
苦笑したカルディアが思い出したように幾度も湯をかぶった。空はすっかり明るくなって鳥が2、3羽飛んでゆくのが見える。
「俺のことはもう話した。お前はどうなんだ?いつからカミュと付き合ってる?」
「えっ、俺は……その、」
「言えよ。義兄弟だろうが。」
そうだ、ミロの血がカルディアの身体の中を流れている。提供された心臓とミロの血がカルディアの命をつないでいた。
言わなくてはいけないだろうとミロは思った。不思議な縁で巡り会ったこの先代の聖闘士になら、なんでも言っていいような気がする。
「小さいときにお互いに聖域に連れてこられたときからカミュが好きだった。で、大きくなって、やっと手をつないで……それからずいぶん経ってからキスをした。」
「ふうん……そう聞くと晩熟 (おくて) のように見えるが、俺よりは早いな。」
「で、そのあとが長かったな。なかなか先に進めない。自分を叱咤してさんざん迷って、で、ある日、抱いた。」
自然に笑いがこみ上げる。誰にも言うはずのなかったことをすらすらと話している自分がどうにも不思議だ。
「よかったな、聖戦前に抱けて。俺はちょっと出遅れた。っていうか、間に合わなかった。」
「そうだな、やっぱり即断即決だよ。」
「もっと詳しく聞かせろ。」
「えっ…」
「俺はなにしろ知識が乏しいからな。人とこういう話をしたことがない。ずっと戦闘第一主義だったしな。色気より血の気だよ。闘いたくて仕方がないってやつだ。蠍座ならわかるだろ?血が騒ぐ。」
「たしかにそうだ。血の気が多いってよく言われる。」
過去の自分の闘いを思い出したミロが苦笑する。青銅を相手にした十二宮戦ではゆとりがあったが、ハーデス戦は血の気一辺倒だったろう。思い出すだけでも血の沸き立つような感覚に五体が震え、研ぎ澄まされた闘争心がおのれのうちに眠っていることを実感する。
「この時代は……ええと、情報化社会っていうのか?テレビも本もあふれてる。デジェルもたくさん本を持ってたが古いのがほとんどで、俺が見たのは宗教書と天文学と植物学と哲学と、たしか政治理論もあったはずだが、そんなものだ。聖域では新しい本が手に入らないって、デジェルがいつも嘆いてた。今は毎日でも新しい本が売りに出されるっていうのには驚いた。贅沢な時代だよ。」
15世紀半ばにルネサンスの三大発明の一つである活版印刷をドイツのグーテンベルグが発明した当初は、本は教会と貴族と富裕層の為の貴重なもので価格もきわめて高価だった。
その後、印刷技術の発達により各地で科学や天文学の論文や書物の発行が相次いだが、それがヨーロッパの東の果てに位置するギリシャのそのまた奥の、結界で保護されている聖域にもたらされる確率は限りなく低かった。いくらかはあったとしても、デジェルの欲する知識とは違っていただろうことは容易に想像された。聖闘士の立場で本を求める旅に出られるわけもなかったし、書店の一つにも行くことはなかったろう。だいたいそのころのアテネにどんな書店があったというのだ?
その環境で伝手を求めて苦労して集めた本を厳しい日常の合間に大事に読んでいただろうデジェル。
何十年も前の古い記述に間違いが多いとわかっていても、検証するすべもなく繰り返しページをめくって文字を追っていただろうデジェル。
わずかな灯火のもとで本を読み、夜空を見上げて星座の位置を確認するデジェル。
イタリアではガリレオが天体望遠鏡を作り、ドイツではケプラーがそれに続き、次々と優れた望遠鏡が作られていた時代に聖域は取り残されてはいなかったか?デジェルは望遠鏡を手にすることがあったのだろうか?
知識を求める切実な気持ちを思うとミロでも目頭が熱くなる。自由に知識を求められる今の時代に生きているカミュの幸せをつくづく思う。
「本はあったが学問と宗教と政治の話ばっかりで、俺が知りたいことを教えてくれるわけじゃない。俺たちの時代はほとんどの情報は人から直接聞くしかなかったが、抱き方なんて内密の話を聞くような相手はいなかったから、なにもわからん。女のことさえ曖昧なのに、ましてや男だぜ。デジェルも知っているわけがない。」
「う〜〜ん…」
この手の問題にはミロにも返事のしようがない。
「でもギリシャでも日本でも空港の本屋を覗いたら、あっと驚くような表紙の本が山積みで、気絶するほど驚いた。デジェルの手前、中身を見ることはやめておいたが、表紙があれなら中身もそれに対応してるとしか思えない。この時代では当たり前だということだが、あれだけでも心臓に悪いな。」
男性向きの写真週刊誌でも並んでいたのか?
それとももっと妖しい系の本か?
243年前から突然やってきた人間にはたしかに目の毒に違いない
「ええと、それは……本にもいろいろあって……必ずしも内容がそうとも限らないが。」
しかし、ミロのしどろもどろの台詞には説得力のかけらもなかった。
「誤魔化すなよ。日本語は読めなくてもギリシャ語は読めるんだぜ。表紙の文字を読めば主旨がわかるに決まってる。」
「あ、そうだな…」
「だからこの時代に生きてるお前も知識が豊富なはずだ。おまけに何年にもわたってカミュとの実績がある。遠慮しないでノウハウを俺に聞かせろ。本を捜して読むよりも経験者から直接聞いたほうが話が早い。」
「いや、あの、でもっ…それはっ…!」
「明日の命もわからない俺が頼んでるんだぜ。間に合わなかったらどうしてくれる?」
「はぁ…」
ということは、俺が話したことを実践してみるってことで……あぁ、眩暈が…
それって、心臓移植をして3ヶ月の人間でも平気なのか?
う〜〜ん、わからんっ!
こうしてミロは思ってもみなかった約束をする羽目になったのである。
湯冷めをするといけないので話の続きは娯楽室ですることにした。暖房は効いているし、ひざ掛けも常備されているし、座り心地のいい椅子もある。
この時間なら誰もいないだろうし、よしんば誰かがいたとしてもギリシャ語がわかろうはずもない。温かいお茶はフロントに言えばもらえるだろう。
その朝のミロとカルディアの帰室はずいぶんと遅くなり、水瓶座の二人は話をすることもできなくて、目も合わさぬままにそれぞれ内風呂で入浴を済ませるとひたすら読書にいそしんだ。もっとも内容がどのくらい頭に入ったかは謎である。
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